第一章 梟雄割拠<13>
ヒュルカニアとダハイを隔てる、アトラク川を渡って何日経っただろうか。
若いユイマも、さすがに疲労の色は隠せない。砂漠を越え、追っ手に気を配りながらの過酷な旅程であったが、終わりに近づきつつあった。
オリオンたち一行が、ダハイの城門の近くに着いたのは夕刻であった。三百五十の騎馬の廻りには、ダハイに近づくにつれ、徐々に増えた千人近くの迎えの群衆が、歓声をあげて共に歩んできた。
オリオンが先頭にたち、ユイマはサティーの馬車を守るように側に付いている。アレスは、オリオンとユイマの間を行ったり来たりする。活力が溢れて、一時もじっとして居れないようだ。
馬群から突然、一騎が駈け出し城門へ走った。一瞬、ユイマは思わず馬を抑えるために手綱を握りしめた。
「若様の、お帰りじゃ! オリオン様じゃ!」
城門の前を狂ったように駆けめぐる。白髪を振り乱し、両手を掲げ、何度も大声を張り上げるビーマの眼は潤んでいた。
それまで、自然に出入りしていた隊商の列が崩れる。何事が起こったのかとばかりに、壁の側に身を寄せて、事態の推移を伺う様子をみせる。
アレスが馬に鞭を当て、ユイマに駆け寄ってきた。
「ユイマ、あれが、あれが我らの、ダハイの都だ。数万人が住んでいるんだぞ」
アレスは胸を張り、いかにも誇らしげだ。確かにカスピ海の東岸、アトラク川の北では随一の都市である。
都市の中を川が貫き、高い城壁を池堀が囲んでいる。背後の小高い丘の上にも城壁は築かれ、その後背は低い山系となっていた。
「アレス、君の言うとおりだよ。すごい!」
「すごいか! そうだろう」
アレスは満足そうに胸を反らして頷いた。
たしかに、エクバタナに比べれば問題にならぬほど、小さな城塞と言えるかも知れない。しかし、ユイマにとっての驚きは、川沿いに並ぶ幕舎、草原に散らばる幕舎の数であった。傾きかけた夕日が城と幕舎の影を大地に伸ばし、厳かな風景を演出していた。
「サティー、見てごらんよ! ほんとに綺麗だ」
ユイマは天幕で覆われた、馬車に向かって声を掛けた。
カスピ海の東岸、海岸からほど遠からぬところに、ダハイの城塞がある。ダハイは都市の名であるとともに、地域名であり、ひいては王国の名でもあった。
城塞内に数万の人口を擁する都市ダハイは、廻りに点在するオアシス都市の政治的中心であり、平原に無数に点在する遊牧民の幕舎や、カスピ海の幸を生活の糧にする漁民の拠り所であった。
巨大な城門から、橋を渡り衛兵が走り出て、一行を迎えるべくそろい始めた。守備隊であろうか、騎馬兵も門前にそろい出す。城壁の上にも兵士が顔を並べ、オリオン一行を眺めている。
兵が居並ぶ中を、三百数十騎と十数両の馬車が進む。天幕の張られた一両の馬車は、先頭集団の中で守られるように進んでいく。
ユイマは、出迎える兵士の顔に驚きの色を感じた。横目で窺うように一行を見つめるのだ。彼らは明らかにアッシリア兵を見つめている。身にまとう装備からして、この地方の兵士とは明らかに異なり、兜、胸当てなどのすべてが規格によって統一されている。
橋桁の石畳を渡る馬の足音にも乱れがない。ユイマは心地よいリズム感の中に身を包みながら思った。流浪の身でありながら、武具を手放すことなく、大事に守り抜いていたのだ。何という誇り高い兵士であろうかと。
誇らしげに、オリオンの側に付いていたアレスが守備隊の方に行った。何か話している。知り合いに声を掛けられ質問に答えているのだろう。彼はいかにも誇らしげに、両手を大きく動かしながら話している。
ユイマにとってはまったく馴染みのない土地である。また新しい生活が始まる。不安は確かにある。しかし、彼にとっては何度も経験したことであった。
「サティー、疲れてないかい。なんたって、あれだけ馬車にゆられ続けたんだから」
そういう、ユイマの頬はいくぶん痩けている。
「だいじょうぶよ。ユイマこそ眠そうよ。横になったらどう」
サティーの額に、半乾きのほつれ毛がかかる。先ほど二人は水浴びをして旅の埃を落とし、床の上に座っている。
「僕は、男だからだいじょういぶだよ」
「そう、なぜ男なら大丈夫なの」
ユイマとサティーは、絨毯の敷き詰められた大きな部屋に通されていた。大きな木製の台の上には、とても十人では食べきれないほどの、肉や魚、果物が大量に並べられている。
ユイマは疲れ切っていた。エクバタナを出て以来、ゆっくり休んだ記憶がない。しかし、
感覚は研ぎ澄まされ、碧眼の瞳は鋭い光を放っている。ひたすら彼は、サティーの身を案じている。身も心も疲れているであろう彼女が、毅然とした姿勢を崩さないの見ると、切なくさえ思えてしまうのだ。
オリオンは、親兄弟と別室で帰郷の挨拶を行っている。もうずいぶんと時間が経った。よほど込み入った話になっているのだろうか。
「お飲み物はよろしいですか」
先ほどから接待係の若い女性二人が、何くれと気を遣ってくれる。
「もう、十分にいただきました。どうぞ、お気を遣わないでください」
サティーが優しく返事をすると、若い女はにっこり微笑み、お辞儀をすると部屋の隅に引き下がった。
「美しい人ね、ユイマ、見とれてるんじゃないの」
「そ、そんなことはないよ」
あわてて否定する、ユイマの目元が少し紅くなった。サティーの言葉はある意味で図星であった。見とれていたのは確かである。しかし、彼はサティーと比べ、やはり断然サテイーの方が綺麗だと思ったところであった。そのサティーから、突然言われたことで思わずどぎまぎしてしまったのだ。
「それより、カストルさんたち、もう休んだのかな」
心の動揺を振り切るように、ユイマは話を変えた。
「大変立派な宿舎を用意して頂いて、恐縮していましたよ」
「アレスに聞いたんだけど、このダハイの城には、二千人の守備隊が常駐しているそうで、なにか事があると、一万人からの兵士が城に籠もる用意があるそうだよ。三、四百人が逗留する宿舎など何でもないそうだよ」
「そうなの、ほんとに良かったわ」
「お願いだから心配するのはよしてよ。むしろ心配なのはサティーの方だよ」
「えっ、なぜなの?」
「な、なぜなのって、カストルさんもタンタロスさんも、サティーのことだけを心配してるんだから。それに僕も・・・・・」
「どうして、私が・・・・・ユイマの方がよほど心配よ」
「これは、これは、長いことお待たせ致した」
先ほど紹介された、オリオンの父、ディオン王が最初に部屋に入ってきた。頭髪は薄く、顎髭に白髪の交じった、赤ら顔に肥満体の男であった。裾まで引きずる長い貫頭衣をゆったり着て、その上に袖無しの刺繍の入った上着をはおっている。
「これは、待っていらしたのか。先に始めて下さるように申しておいたのに。さあ、皆も掛けなさい。宴を始めよう」
ディオンが微笑みながら親愛の情を一杯に表す。ユイマは、その大仰な態度にいささか不自然さを感じた。
ディオン王を上座に、都合七人が席についた。上座からみて、左側にオリオン、サテイー、ユイマが並ぶ。反対側には、これも先ほど紹介された、王妃のデメテル、オリオンの義弟で三男のオイクレス王子、そしてイスメネ姫だ。
デメテル王妃は、髪を頭上に巻き上げ、手の込んだ刺繍入りの布を幾重にも身体に巻き付けている。年の頃は四十過ぎか、男を惑わす妖艶な美人である。ユイマの心に警戒心が芽生えてきた。
「兄上、なんとも綺麗な女性ですな。サティー様と申されたか」
兄の方を見ようともせずに、オイクレスが、卑下た笑みをサティーに送った。素肌に袖無しの上着を身に着け、腕の筋肉を誇らしげに見せる。見事に作り上げた筋肉ではあったが、戦闘において鍛え上げられた鋼のような筋肉とは明らかに異なる。
「はい、サティーでございます。よろしくお願い申し上げます」
うつむいて答えたサティーのうなじに、一瞬、ディオンの淫らな視線が走った。末席のイスメネは、口を開こうともせずユイマをじっと見つめている。母親と同じ赤毛の美人で、衣服のうえに、異様な黒いレースのような布を身にまとっており、醸し出す雰囲気はまったく違っている。
ユイマは、イスメネの視線が気になって仕方がない。きつくはあるが、決して敵意あるものには見えなかった。
「父上、先ほどから姿が見えませぬが、ステントルはどうしたのですか」
「兄じゃは、いつもの通り部屋の中でしょう。人に会おうとはしませんよ」
横合いから、オイクレスが口を挟んだ。その言葉には、兄に対する軽蔑が込められているようにユイマには思えた。
「ユイマとやら、あなたのことはオリオンから聞きました。苦労したようですが、ここは安全ですよ、楽に暮らして下さいね。それにしても、金髪と蒼い瞳はなんて綺麗なんでしょう」
ユイマを、いたわるようなデメテルの言葉に、イスメネは無言で母親を睨みつけた。ユイマは次第にいたたまれなくなっていった。オリオンの家族との関係は、この様な間柄だったのか。宴の空気はとげとげしく、相手を探るような言葉が交わされていった。
「ユイマ、疲れたんじゃない」
「僕は、平気だよ。サティーこそ疲れたんじゃない。でも、オリオン様の家族、あれは一体何なんだよ。悪意を押し殺して話してるみたいだ」
「そんなことを、言うもんじゃありません。皆さん私たちを受け入れてくださったんですもの。でも・・・・・確かに気づかれしたわ」
気詰まりな宴がおわり、ユイマとサティーは用意された自室へと、燭台のともされた石造りの回廊を歩いていた。
ユイマも十七歳になった。サティーと初めて出会ったときは、まだ子供であったが、今では、すらりと優雅に歩くサティーと並んでも、顔半分はユイマの方が高い。
「これから、この城で暮らすことになるんだなぁ」
「そうよ、この城でね」
二人の言葉には、強い思いが込められている。流転の人生。若い二人にとっては始まったばかりと言える人生であったが、人一倍の蓚酸をお互いに味わっている。
ふと、ユイマは視線を感じて振り返った。そのとき微かに開いていたと思われる扉が、微かな音をたてて閉まった。彼は、うなじに、すーと冷気が流れた気がした。
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