第二章、情念の結界<1>
「サティー、今日もかい。毎日そればかりでよく飽きないな」
「飽きませんとも、見てご覧なさい。綺麗でしょ」
「まあ、綺麗だけれど、そんなに細かい作業をよく続けられるよ」
ユイマとサティーが、部屋の窓辺に近いところで話しをしている。サティーは、眼を織り機に向けられたままで、手は休み無く糸を紡ぎ、縦糸に結んでいく。
織り機と言っても極めて簡単な物であった。ようは、木枠に多くの糸が張られるようになっているだけともいえる。しかし、その織り機で複雑で繊細な模様が創りあげられるのだった。
サティーは絨毯を織っていたのだ。四角い木枠には無数の縦糸が張られており、染め付けられた羊毛を、紡ぎながら細い糸にして結び付け、模様を作って行く。
「それ、何に使うんだい」
「もちろん床に敷くのだけど、壁掛けにしてもいいと思うの」
当時は、大きな一枚敷きの絨毯はなく。床に敷く場合は小さい物を並べていた。
「ユイマもやってみる?」
「えっ、僕は男だよ、男がやるって聞いたこともない」
「そんなことはないわよ。私が教わったのは、機織りの指導をしている、歳のいった女性だったけど、男の名人がいるそうなの」
この頃のステップ草原では、絨毯の制作は遊牧民の間で一般的に行われていたようだ。男が羊に草を歯ませるために、草場に移動した後の幕舎の中で女達は、糸を紡ぎ縦糸に
結びを織っていた。
出来上がった絨毯は、自家で用いるのもあるが、大部分は最大の交易所、ダハイの都に集まることになっていた。
「機織りの、男の名人?」
「そう、その方がオリオン様の義弟にあたられる、ステントル王子様なの。指導を受けなくてもいいから、一度、機織りをされているお姿を、拝見してみたいものだわ」
「ステントル王子?」
その人物の名前の響きは、ユイマの心に引っかかるものがあった。
「お会いしたの」
「そ、そんなことはないけど」
ユイマの胸は、どくどく脈を打ってきた。暗い洞窟の入り口がせまって来て、飲み込まれてしまう気がした。
「でも、男は女を守らなくっちゃ。僕はサティーを守るんだ」
想いを振り払うように彼は言った。
「えっ、そうなの、本当にありがとう」
糸を紡ぐ手が止まり、サティーはユイマの眼をじっと見つめた。
「でも気にすることはないと思うの。男の人には、してもらわなければならない仕事が確かにあるけど、暇なときには細かい仕事をするのも、気が紛れていいと思うわよ」
「暇なんてないよ」
「じゃ、何故ここに来たの」
「そうだった、カストルさんが話しがしたいんだって」
「いいわよ。どうぞいらして下さい、と伝えてね」
「ここでかい?」
「そうよ、いけないかしら」
「カストルさん、ここに来るの気まずいみたいだけど、まあいいか」
サティーは手を休めることなく、糸を紡ぎながら結んでいく。フェルトの上に座り、肩から足下までつながった長い衣服を、ウエストの部分で幅広の帯で閉めていた。
柔らかく弧を描く、肩から首筋にいたる曲線と、うっすらとした脂肪の幕に覆われているであろう質感は、男の性を直接射抜くものであったが、本人はまったく意識はしていない。
ユイマは、ふと思った。あるいはカストルは、サティーと同じ部屋で、二人きりになるのが怖いのかも知れないと。
長い金髪は、一つに軽くまとめられ、背中に垂れていた。さり気ない姿であるだけに、いっそうサティーの高貴さが現れていた。
カストルにサティーの意向を伝えた後、ユイマは中庭に出た。大きな庭の一部は、建物の影になっているが、柔らかい日射しが降り注いでいる。教練を終えた後、彼はこの庭で疲れをいやすことが度々あった。
「えっ、まだ、あのままだ」
庭の隅で、一人の男が腰を降ろし花に見入っている。柔らかそうな白無地の布を、身体全体に巻き付けて、俯いて花に見入っている顔は青白く、長い髪は漆喰の黒い直毛だ。白い布の肩までばらけている。
ユイマは、直感した。黄色い花の名は解らないが、男は、ステントル王子に違いない。根拠ははっきりしないが、それは、確信であった。
なんと、早朝に教練に行く前に見た姿と寸分の違いがない。違うのは、光線と影の位置だけだった。
あたかも花を見る男に吸い寄せられるように、彼は黙ってその光景を見つめていた。
「ユイマ」
突然掛けられた声にビックリして振り返ると、アレスが立っていた。
「な、なんだアレスか」
ユイマは呼吸するのを忘れていたかのように、息を吐いた。
「なんだはないだろう。やけに熱心に見つめているじゃないか、あの方がステントル王子だ」
「そうか、そうじゃないかと思った」
「いくら、気になっても声を掛けてはだめだぞ」
「とても掛けられる雰囲気じゃないよ」
「なら、いいんだ」
「アレス、あれは何をなさってるんだろう・・・・・花を見ているのは解るんだけど」
ユイマはステントルが気になって仕方がない。
「あの人は解らない。ただ花を見ているだけ、それもしばしばだ。見始めるといつまでも見ている。途中で声を掛けて、殺されそうになった女がいる。あの人は、邪魔をされると狂ってしまわれるんだ」
二人が見つめる視線の先で、ステントルは微動だにせずに、黄色い花に見入っている。この場の光景を、建物の最上階の小窓から、そっと窺っている少女に気づく者はいなかった。イスメネ姫であった。
黒いショールの端を口にくわえ、表情のない顔を半ば隠している。虚ろな彼女の瞳に、ユイマの金髪がきらめくのが映っていた。
「いつまでここにいるんだ。ユイマ、行こうよ」
「どこへ」
「腹がへったよ。街に出て、うまいものでも喰おうじゃないか」
「僕はいいよ。腹もへってないし、もう少し休んでいるよ」
そうは言いながら、ユイマは先ほどから立ちっぱなしであった。
「そうか、じゃあ、俺はいくぞ」
「じゃあ!」
「おう!」
何かをはばかるように、アレスは音をたてないように歩いていった。残されたユイマはまるで何かに憑かれたようにステントルを見ていた。
どのくらい時間が経過しただろうか、ステントルがすっくと立ちあがり、首を巡らして、ユイマを見つめた。そのまま視線を外さずにゆっくりユイマの方に歩いてきた。
ユイマは金縛りにあったように動くことが出来ない。すぐ前にやってきて立ち止まった。背はユイより高い。ふっくらした白い布をまとっている。随分長い布のようで、身体に幾重にも巻き付いていた。布から外に出た腕は細く、顔は青白い細面である。黒い瞳がユイマを見つめる。細い唇からは声が漏れない。
ふっとユイマの頭を、病人ではないか? という思いが掠めた。
「君は、邪魔にならない」
細い声であった。ユイマには唇が動いたようには見えなかった。
「・・・・・」
何と答えていいか解らない。
「私が、花を見ていると、皆が邪魔をする。窓から突き刺さる視線が痛い。中傷する思念が胸に刺さる。しかし、君は邪魔にならない」
「・・・・・」
ユイマには答えようがない。そもそも誰に話しかけているのか判然としない。
「花は動いている」
「動いている・・・・・」
「そうだ、それを見つめるのが私には楽しい。花弁が間断なく震える。茎は伸びたくてしかたがないのだ。筋をギリギリと絞る音が聞こえてくる。何と愛おしいことだろう」
ユイマは、ステントルのことを、寡黙で人嫌いだと聞いていた。しかし目の前の彼からは次々に言葉が流れてくる。
「君の名を言いたまえ」
「・・・・・ユイマ」
喉でかすれるような声で、返事をした。
「そうか、ユイマか・・・・・ユイマには色がない」
「えっ」
「人には、それぞれ身にまとう色彩がある。紅、青、黒、黄と多彩な色があるが、大部分が邪悪な色彩だ。ユイマは透明で色彩がない、私にとっては初めての経験だ」
そういうと、ステントルはまるで穿つような執着深い瞳で、ユイマを見つめた。
しばらく黙した後、突然、ユイマは指さされた。眼球のすぐ近くで指はピタリと止まった。
「その眼はなぜ蒼く、髪は金色に輝くんだ」
ペルシャ高原から東方のステップ平原にかけて、金髪碧眼の人間は皆無であった。でも、なぜかと言われても、ユイマには返事のしようがない。
「じつに、美しい」
そう言うと、ステントルは細い人差し指で、微かにユイマの紅い唇にさわった。その瞬間、痺れるような電流が、ユイマの背筋を流れた。身体が動かない!
「この唇は、あまり言葉を発しないようだな。人はうるさいほど私に聞きたがる。『何が欲しいのか』『何がしたいのか』と、私は答える。『消えてくれ』と。・・・・・ユイマ、私に何か聞いてくれないか」
ステントルの口元が初めて緩んだ。本人は微笑みかけているつもりかもしれないが、表情はほとんど変わらない。
「そ、その布は柔らかそうですね。あなたが織られたのですか」
「・・・・・そ、そうだが。ユイマはこれに興味があるのか」
眼に少し驚きの色が掠めたのを、ユイマは認めた。ステントルは自分の身に着けている布の端を手渡した。それは羽のように軽く、柔らかい布であった。思わずユイマは布を頬に当てた。心地よい感触は初めて経験するものだった。
「織り方を教えてはいただけませんか」
その言葉を聞いた、ステントルの眼がかっと見開かれ、驚愕の表情を表した。頬に布を当て織り目を見つめているユイマは、そのことに気づくことはなかった。
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