ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第二章、情念の結界<2>




「ユイマ、この街はどうだ。なじんだか」
 王宮の入り口を入れば、そこは広間になっている。そこから上に昇る階段に、ユイマとオリオンが並んで腰を下ろしていた。この城にきて二ヶ月が経っていた。
 オリオンは、毎日のように、カストル、タンタロス、そして、最近では若いモリオネも含めた四人で打ち合わせをしている。もしくは兵士の訓練に明け暮れて、ユイマと話す機会はほとんどなかった。
「はい、アレスという友人も出来ました。ダハイは住みよい街です」
「サティー様の御機嫌はどうだろう」
「サティーは、毎日機を織って絨毯を作っています。機織りを通じて友人知人も出来たようで楽しそうです」
「そうか、それは良かった」
 オリオンはホッと軽く息を吐いた。どうやら、一番気になっているのはサティーのことらしい。それが表情にあからさまに出るオリオンを、ユイマは好ましく思った。
「ディオン王も、とても優しい心遣いをして下さると、サティーが言っていました。とても感謝していましたよ」
「なに、それは気を付けねば・・・・・」
「何故でしょうか」
「ユイマ、俺はこの街が嫌いだ!」
 ユイマの質問には答えず、オリオンは、抑えていたものを吐き出すように言った。
「この城は、外界から隔てられ過ぎている。三十年前のサカ族の襲撃が契機になったのかもしれぬが、外界と交流することを拒んでいる」
「でも、オリオン様、城内にはあちらこちらで市が立ち、大きな中央市場もあります。肉、魚、野菜はもちろん、衣服から装飾品に溢れていますよ。あらゆる服装をした民族も出入りしているし、活気がある街だと思うんですが」
 ダハイ城は、この広い地域一帯の、交易の中心地であり、野蛮な無秩序が支配する中で、堅牢な城で守られた安心して商売の出来る別天地であった。

「ある意味では、お前の言うとおりである。しかし、真実を見極める眼でよく見てみろ、必ず気づくはずだ。人も、物も入ってくる。しかし、出て行くものがあるか。受け入れるだけで発信することは決してない。人々が城壁から外に出て行くことを禁ずる習慣ができあがっているのだ。身体だけの問題ではない。心までもを閉じこめているのだ。小さな空間に閉じこめられた精神は病んでくる。それを、打ち破るために俺は、周囲の大反対を押し切りエクバタナに行ったのだ」
 オリオンは、拳を握りしめ、空間の一点を睨んで話している。
「そんなに反対があったのですか」
「過去の話ではない。外の世界を呪い、侮蔑し、快楽を餌に、澱んだ空気を凝縮し人を堕落させるようにたくらんでいる存在がある。それらと今も俺は戦っている」
「人を堕落させる存在・・・・・それはなんですか」
「マゴイだ!」
 ユイマは思い出した。エクバタナにおいて、オリオンのマゴイ嫌いは有名であったのだ。「奴らだ! このダハイの城内で腐臭を放つ元凶は。妹のイスメネは、幼い頃から『神の御子』として育てられあのような人格になってしまった。父のディオンは、マゴイと同類である。お互いに利用し合う関係にある。俺は、このダハイ城を明るく健康的な場所にするために命をかけるのだ。そしてユイマ、お前にナマク湖の湖畔で言ったように、本当の意味での王国を打ち立てるのだ」
 オリオンの野望は、はたしてどのような世界を、この地にもたらすのであろうか。

 この王宮の最上階には、マゴイの祈祷所が設けられている。そして、常に十人近くのマゴイが住んでおり、神の御子、イスメネ姫の部屋もある。それに、ディオン王。これだけの人間しか最上階に行くことは出来ない。秘密の儀式がどのように執り行われているかは誰も知ることが出来ない。
 オリオンとユイマが階段で話し込んでいるとき、入り口から黒い布を被り、黒い服に身を包んだ二人が入ってきた。一見しただけでは性別は解らない。マゴイに女はいないので、男であろう。それも去勢された。
 オリオンが立ちあがった。
「ユイマ、行くぞ!」
「はい!」
 オリオンは腰の短剣に手を当て、血走った眼で、マゴイを睨みつけている。
「この場を去らねば、俺は奴らを殺してしまう。今はまだ早い、いつか一網打尽にしてやる」
 怒りに震える声であった。

 憤怒に肩を怒らせながらオリオンは、その場を後にした。ユイマはオリオンの後に続く。「マゴイ」については、ユイマにも思いがあった。必ずしも嫌悪を感ずる記憶ではない。マゴイといえば、彼が知るのはラオメドンであった。
 オリオンはむろんのこと、ネストル、パルコスもマゴイを嫌ってはいたが、アリウス邸の下僕や、庶民の間では、ラオメドンはむしろ尊敬されていた。
 ユイマはエクバタナの街角での出来事を思い出す。死んでミイラ化した赤子を抱きしめて離さない女。顔が崩れ狂った女を、ラオメドンは助けたのではなかったか。その彼は、何故か自分のことを知っていた。
 そして、エクバタナの夜を焦がす、マゴイ教会の炎上。ユイマ達を案内した子供の話によると、アリウス様とラオメドンは、あの炎に焼かれたらしい。
「アリウス様・・・・・」
 おもわず、ユイマはアリウスの名をつぶやいていた。

「オリオン様・・・・・ユイマ!」
 突然、声を掛けてきたのはアレスだった。底抜けに明るい笑顔だった。彼を見ただけでユイマの心は晴れる。オリオンの顔も、陽が射し込んだように明るくなった。
「オリオン様、武術を教えて下さい」
「何がやりたいのだ」
 オリオンの気持も治まったようだ。
「今日は、長槍の使い方を御願い致します」
「長槍か、戦場においては重要な武器だ。長槍が自在に使いこなせるようになれば、短槍は、たやすくつかえる。わかった。来い!」
 そう言うと、オリオンは武器庫に向かって歩き出した。長袖のチェニックにズボンの活動的な衣服だ。鍛えられた筋肉が、衣服を通して見えるような気がした。


「まず、長槍になれるのだ、なれて、なれて、その果てにやっと使えるようになる。それには反復訓練しかない。まず地上で使えるようになること。馬上はその後だ」
「はい、わかりました」
 アレスの眼が輝きをおびた。
「では、始めろ」
「おい、ユイマ、やろうぜ」
「うん」
 身の丈の倍もあろうかという長槍は、極めて扱いづらい。穂先は怪我をしないように革袋で結わえられている。
 二人は、突く。こじりを返す。払う。打つと言う単純動作を、あくこともなく何度も繰り返した。
「エイ! オー! タアー!」
 アレスは声がかすれるほどに、かけ声をあげる。彼の額からは、汗が滲んできた。ユイマは汗をかいていない。
「アレス、力を抜くんだ!」
 オリオンの叱責が飛んだ
「はい!」
「ユイマ、気合いを入れろ」

 どのぐらい反復練習が続いただろうか、オリオンから声がかかった。
「よし止め。今度は相対して稽古を始めよ」
アレスとユイマは、一定の距離を置いて向かい合った。槍の先を合わせると、一転、激しく打ち合い始めた。槍と槍を打ち合わせるのだ。しばらくすると、交互に突き、外し、を繰り返した。
 アレスの額からは、汗が流れ首筋にまで伝わっている。彼は、眼が輝き本当に嬉しそうに見える。ユイマも、汗が眼にはいるのを感じながらも手を休めない。

 突然、ユイマの動きが止まった。
「えっ、おいユイマ、どうしたんだ」
 アレスはユイマの顔をのぞき込んだ。ユイマの視線は、オリオンの後方を向いている。オリオンが振り返った。ユイマの見つめる方向には、一人の男が立っていた。何時からそこに立っていたのか、今まで誰も気づかなかった。
「ステントルではないか! どうしたんだ」
 オリオンが驚いたように声をあげた。三人の視線を避けるように、ステントルは立ち去っていった。
「部屋に籠もって、人とほとんど接することがない奴が何故。しかも武術の稽古を見学するなど・・・・・信じられん」
 ユイマは、自分の身体から力が抜けて行くのを感じた。ステントルと眼があったとき何かが、繋がった気がした。何故だか解らない。胸が締め付けられるような、不思議な拘束感を感じてしまったのだ。

「ユイマ、ステントル様は、お前をみていたようだったぞ」
 アレスは何か腑に落ちないらしく、首をかしげた。
「アレス、僕もそう思うんだ。何故なんだろう・・・・・オリオン様、ステントル様は人と話すことがないんですか」
「ほとんど話すことは無い。人と接することを極端に避ける。たまに短い言葉でつぶやくことはあるが、その程度だ」
「でも、このまえお話ししたときは、ずいぶん語られましたよ。僕が口をはさむひまがないくらいに」
「なに、それは本当か!」
 オリオンは、あり得べからぬ事が起こったかのように、眼をかっと見開いた。
「わかった。ユイマ、あの時の中庭でのことか!」
「そうだよ」
「何の話しだ」
 オリオンも話しに惹き付けられていた。
「オリオン様、実は数日前の話しです。ユイマが中庭で、ステントル様が花に見入っている姿を見ていたんです。俺もしばらくユイマと一緒にいたが、途中で腹がへって食いに行ったんだ」
「アレス、お主らしいことよ。でその後、ユイマはステントルと話をしたのか。何の話しであったのか」
「よく分からないんです。花が動くとか・・・・・君は色がないと言われたり・・・・・そうだ、ステントル様が自分で織られたという柔らかい布は、すごく気持ちがよかったな」
「なんだいそりゃあ。訳わかんないじゃないか」
「何とも不思議なことがあるものだ。あのステントルが・・・・・少し気になる。ユイマ、ステントルには、今後注意しなさい」
「・・・・・はい」
 ユイマはまだ気づいていない。彼を取り巻く人間は、知らず知らずのうちに彼を触媒として自らの本性を剥き出しにしてしまうことを。そして、観念の渦に巻き込まれて、行動してしまうことを。

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