ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第二章、情念の結界<3>




「オリオン様が帰還なされ、皆様がこられて、この都が明るくなった気がいたします。ほんとうに、一時はどうなることか思いました。おいさき短い老人ではありますが、これから先が楽しみになって来ましたよ」
 ビーマが、ユイマとサティーを宮殿からつれだした。街の案内がてら市場に行き、買い込んだ物を詰めた、大きな袋を肩に道々話しかけている。
「そんなにひどいところだとは思えませんわ。明るく、争いがなく、みなさんたのしそうじゃありませんか」
 サティーは今日のひよりのごとく、穏やかな顔をしている。
「サティー様、一見確かにそのように見えるでしょうが、この城は病んでいます。必要以上の豊かさのせいだと、思えてなりません。都は、まん中から腐りつつあります。こんなにした張本人は王様、つまり、ディオン様です」
「オリオン様の父君、ディオン様は、わたくしにとっても良くして下さいますわ」
 ユイマは、片手に袋を提げビーマとサティーの話を聞きながら歩いている。うららな日射しを浴びて、道行く人々の表情も明るい。ビーマは風景とは異なる深刻そうな話しをする。景色の良い野外で、食事でもしましょうと言って、彼らを連れだしたのだが、胸に秘めてきたことを、それとなく言いたい気があるように見えた。
「サティー様、どうかディオン王にだけは注意して下さい」
「ビーマ様が、お仕えなされていた方ではございませんの」
「昔は、立派な王でしたが、今はひどいものです。お願いですサティー様、どうか十分にお気を付けなさってください」
「ビーマ様がそこまで仰るのなら」
 ビーマの額に刻まれた深い皺が、ユイマにはひどく悲しげに見えた。

「やぁっ、みんな一緒で、どこに行くんですか。ユイマ、さっきお前のところに顔を出したら、サティー様と出かけたと言っていたんで、探したぞ」
 アレス、この少年は、いつも元気で明るい。
「うん、ビーマさんから誘われたんだ、野外で食事でもしないかって」
「えっ、食事!」
「アレスさんもご一緒しません。よろしいでしょビーマ様」
「かまいませんとも、こやつは乱暴なところもあるが、本当に気の良い奴です」
「ビーマさん、乱暴はよけいだぁ」
「違うか」
「ち、違わない」
 二人のやりとりに、サティーとユイマは吹き出してしまった。
「ビーマさん、その袋、俺がもつよ。行く先は鍾乳洞の近くの川べりだろ」
「ああ、そのつもりだ」
「誰が何と言ってもあそこが最高さ」
 アレスは、ビーマの袋を引ったくるように受け取ると、先頭に立って歩き出した。


 そこは、以前アレスと水浴びをした所から、いくぶん下流の場所であった。荷物を放り出すと、アレスは河原で石を集め始めた。段取りは承知しているらしい。ユイマも、脇に抱えた袋を降ろすと、彼の手助けを始めた。
「サティー様は、どうか休んでいて下さい」
「そうは、まいりませんわ」
 ビーマは火種をおこし始めた。サティーは、袋を開き中の物を、大切そうに取り出して並べる作業をしている。
 集めた石で、かまどができあがった。ビーマが市場で買い求めた物は、とにかく量が多い。五人分以上はありそうだ。
 焼き物に使う予定の平たい石が、熱せられたらしく、微かに水蒸気らしきものが立ちのぼる。
「ユイマ、これは何か解るか」
 解る訳がないだろうとばかりに、アレスが魚の切り身らしき物を取り上げ、熱された石の上に置いた。
「これ・・・・・魚だろ」
「魚はあたりまえだ。なんという魚かだ」
「うーん」
「アレス、私にもわからないわ」
サティーも興味を持ったらしい。
「チョウザメという、巨大な魚だ。ユイマの倍の大きさはある。うまいぞ」
「そんな大きな魚がいるの。信じられないよ」
「カスピ海はでかいんだ。魚もでかいに決まってる。これがコイで、これがスズキ・・・・・ビーマさんさすがだ! カメの肉を処理したのもあるじゃないか」
 ユイマは、羊の肉を串に刺したものを火の近くに何本も突き刺す。アレスは石の上で、魚を焼くのに夢中になっている。

「こんなにいい人たちと、こうした楽しい食事が出来るなんて、想像だにしなかった。オリオン様も帰って来られるかどうか不安で、あの頃はほんとに辛かった」
 ビーマは、辛い思いがこみ上げたらしい。ユイマには、彼の眼が潤んでいるように見えた。
「ビーマさん、何しんみりしてるんだよ。しょうがねーな、年寄りは」
 こんな雰囲気の時、声を掛けて場を明るくするのは、アレスだった。
「おお、そういえば、そんな時にもお前がおったよな」
「あたりまえだい」
「人間はいいが、相変わらず口が悪い。老人はいたわりやがれ。こりゃいかん、アレスの口の悪いのが移ったわい」
 かまどを取り囲む人々に笑い声がわき起こった。
「そんなに辛いことが、おありだったのですか」
「サティー様、私の口からは、詳しいことは申し上げられませんが・・・・・ダハイの王族は獣です!」
 ビーマが吐き捨てるように言った。
「奴らは今に滅びるでしょう。いや、オリオン様が滅ぼして下さるでしょう。証拠はありませんが、オリオン様の母君を毒殺したのは、マゴイだとの噂もあります。そして、その背後にはディオン王が・・・・・」
 ビーマが予言者めいた言葉を吐いた。彼の言葉は、うららかな陽気とは反して、深刻なものであった。
 ユイマには、今ひとつ理解できない。こんなに豊かな街なのに、なんでビーマは酷いことをいうんだろう。交易場所としての税のあがりで、衣食住が満たされて、争いもなく生きるために手に汗をして働く必要もない、天国のような場所ではないかと思ってしまうのだった。

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