ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第二章、情念の結界<4>




 ユイマがこの城に来て六ヶ月、何かが動き始めていた。地中の奥深い動きであったが、地下ではすでに激動となっており、地上に噴出する臨界点に達するのも近いはずである。
 ユイマのせいとは言えないが、それぞれの人々の想いが交差し、それぞれの関係において増幅されて来ている。

 ユイマはステントルに誘われて、彼の部屋に行くべく回廊を歩いていた。何故呼ばれたのか思い当たる節はなかったが、なんとも言えぬ、不思議な期待感が湧いてくる。
 人影も見えなかった回廊の奥から、人が歩いてくる。近づくと顔見知りの小間使いの娘であった。歳のころはユイマと同じぐらいだろう。髪を後ろに束ね、両手に盆を捧げもっていた。
「あっ、ユイマ様」
「やぁー、こんにちは」 
「どちらにお越しですか」
 娘は心配そうに眉をひそめた。
「ステントル様のお部屋に行くんだよ」
 この回廊の突き当たりは、ステントルの部屋になっている。
「いまは、止した方がいいですよ。御機嫌がよろしくないみたいですから」
「でも、呼ばれたんだけど」
「そうですか・・・・・でも、十分に注意して下さい。今、お食事をお持ちしたんですけど、お返事を下さらなかったんです」
「返事を下さらないって、どういうこと?」
「私どもが食事をお持ちし、部屋の扉を三度、ノックします。そうすると、扉を開き、盆を受け取って下さるのです」
「そう、じゃあ・・・・・」
「そうです。お返事とは、言葉じゃなく扉を開けて下さるんです。でも今日みたいに、お返事が頂けない時は、珍しい事じゃないんですよ」
「と言うことは、食事を取らないと言うことですか」
「そうです、一日に一度食事を取られればいいほうです」
 一日に一食など、食べ盛りのユイマには、信じられないことだった。娘は、ユイマにくれぐれも、勝手に扉を開けないように注意をして去っていった。

「本当だろうか、あのステントル様が・・・・・」
 扉をノックし、開けただけで大怪我を負わされた女性がいるとは、ユイマにはとても信じられないことだった。考えながら歩いていたユイマが、ステントルの部屋の前に来たとき、突然扉が開いた。
「えっ、」
「やぁー、待ちかねたよ。なにを驚いているんだね」
 光沢のある白い布を巻き付けた、ステントルが扉の内側で浮かんで見えた。言葉とは裏腹に、細い眼が妖しく光を放っている。 
「・・・・・どうして、僕だと分かったんですか」
「ははは、そんなことで驚いているのか。わかるさそんなことは。音と匂いだ」
「音と匂い?」
 ユイマにとって、ステントルの言葉はとても理解しがたい。しかし、不思議に惹き付けられる部分がある。
「まず、床を踏むか踏まないかのような君の足音だ。立ち止まって小間使いと話し込んでいたのも分かった。足音が止まったからね」
「そんな遠くから分かるの・・・・・で、匂いって何ですか?」
「君の匂いだよ。嗅覚で感ずるものではない。動くたびに君のまとう空気の乱れが、五感に伝わるんだ。それを私は匂いと言う」
 ユイマは、ステントルを見つめた。もしかしたら、異常に鋭い感性の持ち主かも知れないと思えるのだった。

 広く無機質な部屋であった。この部屋にステントル以外の人間が入ったのは、初めてであることをむろんユイマは知らない。二人の間には、会話らしい会話はなかった。不思議な部屋であった。窓はすべて漆喰で塗り固められており、まるで空気の侵入を拒否しているような感じである。
 部屋の中は決して暗くない。無数と言ってよいほどの、燭台の炎が揺れている。とくにステントルの座る場所は異様に明るい。
 そんなことなら、窓を開け、外の光を入れればよいのにとユイマは思った。
 ステントルは、白い布を身体に巻き付け、一心に機をを織り続けた。

「・・・・・できた」
 ユイマの耳に、やっと届くほどの小さな声であった。振り返ってユイマを見つめる、ステントルの白目は充血してまっ赤になっていた。
「三ヶ月かかった。君のために織ったんだよ・・・・・」
「えっ、僕に下さるんですか」
 ユイマに手渡されたそれは、白い羽毛のような布であった。綿を細く細く紡ぎ、髪の毛よりも微細な糸を織り込んだ布であった。
「この布を身に着ける資格があるのは、君と私をおいて他にはいないよ。さあ、そのがさつで無神経な服を脱いで、着替えたまえ」
「えっ、今、この場でですか?」
「そうだ。さあ、着けなさい」
 地底から響いて来るような、異様な声であった。黒い眼球の放つ尋常ではない光線が、ユイマの双眸を貫いた。
 命令は拒むことの出来ないもであった。ユイマは、催眠をかけられた夢遊病者のようになって、服を脱ぎ始めた。
「下帯も取るんだ」
 拒むことが出来ず、下帯を取り少しほほを染め、恥ずかしそうに面を上げたユイマの眼前に、何時の間に脱いだのか、全裸のステントルが黙ってユイマを見つめていた。 
 
「布を持ちなさい・・・・・そうだ。まずこうして左肩に掛ける。そしてこのように身体に巻いていくのだ」
 ステントルは布の身に着け方を、実際に自分の身体でユイマに示したのだった。それほど複雑な巻き方ではない。ユイマもすぐに身に着けた。いまや彼の身体を包むものは羽毛のように軽い布だけであった。そのとき不思議な快感が彼の背筋を走った。いままで感じたことのない不思議な感触に、ユイマの白い肌には鳥肌が立った。彼の股間のものが変化を兆し始めた。
「卑俗な人種の身に着ける衣服は、醜い身体を隠すためにあるのだ。美しい我々が身に着ける衣服は、快感を呼び起こすものでなければならない。すばらしい! 思った通りだ。ユイマにはよく似合うよ。蒼い眼と金髪・・・・・さあ、では行くことにしようか」
「えっ、行くって、何処へですか?」
「すばらしい所だ。清浄な空気に満ち、邪念の伝わることがなく、恍惚となる曲線が溢れる場所だよ」
「曲線が溢れる?」
「そうだ、曲線だ。冷たく、硬い悦楽だ」
「硬い悦楽?」
 ユイマには理解が出来ない。ステントルは、ユイマの問いには答えず、彼の蒼い瞳をじっと見つめた。
 燭台の炎が乱舞する。この部屋の雰囲気。身体を包む布の感触。そして、ステントルの狂気をおびた黒い瞳。
 ユイマは、自分の心が、魅入られ、操られているのを自覚しているが、拒むことは出来なかった。

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