ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第二章、情念の結界<5>




 ユイマの意識はステントルの後ろ姿にのみ集中している。部屋を出たことも宮殿を出たことも、彼の記憶に痕跡を残すことはないだろう。視野が狭くなり廻りの風景が眼に入らない。足下すら見ていない彼だった。
 夢遊病者のような歩きの、ユイマがいざなわれたのは、鍾乳洞の入り口であった。アレスと水浴びをした時、しげしげと中をのぞき込んだ洞窟が、目の前で大きく口を開けて彼を飲み込もうとしている。
 闇の中から、薄青い透明な水が音をたてて流れ出ている。
 手にした松明に、ステントルが火を付けた。ユイマの持つ松明にも火が移された。ステントルが、後に従うのは当然とばかりに、ユイマに声を掛けることもなく、洞窟の中に歩んでいく。
 松明の炎が弾けるように揺れ、火花が飛び散る。轟音を立てて水が流れる中を、ぼぅーと、白く浮かび上がった布が、闇の中に吸い込まれていった。


 入り口からしばらくは、水の中を歩かねばならなかった。ステントルは革のサンダルを脱ぐと、岩陰に置いた。ユイマもそれに習う。たしかにこの水流では、サンダル履きでは足を取られる。
 流れは急だが、水深は深くない。注意深く水底を探るように歩いていった。漆喰の闇の奥から、水が砕ける音が洞内をゆらすような音を響かせてきた。
 素足になってからはさすがに足が痛む。尖った岩で足を切らないようにユイマは注意深く歩いていく。
 
 どれぐらい歩いただろうか。入り口の光が見えなくなって、ずいぶんになる。いま松明が消えれば一寸先は闇で、身動きが取れないはずだ。
 水から上がり岩の上に出た。苔が張り付いて滑りそうだ。石筍、石柱を避けながら慎重に進んでいく。
 ユイマの眼に映るのは、前を行く白い布と松明の明かりだけであった。水が池のように溜まっている場所に出た。ステントルが松明をかざした。先の方に、かすかに四本の水路が見えた。池に沿って歩く。
 足下が乾いてきた。苔が無くなったのだ。水しぶきも掛からない。ずいぶん歩き易くなったからだろう、ステントルは何の躊躇もなく進んでいく。洞窟内は迷路のように入り組んでいた。ユイマには、歩いてきた方向は、まったく解らない。彼は前を行く松明につられて行くだけだった。
 何故だか恐怖は湧いてこない。自分の行く先に、不安も起らない。彼の想念は、ステントルに従うことしかなかった。

 白い布が、ふわりと止まった。ステントルが、松明を上にかざすと炎が大きく揺れた。闇が割れた。光が乱反射し、大きな空間が現れた。それは、異様な空間であった。
 床と言わず、壁と言わず、綺麗に磨き上げられた白い大理石に囲まれている。
 壁に穿かれた穴に立てられた蝋燭に、ステントルが一つ一つ灯をともしていくたびに、光が乱舞する。ユイマはその光景を呆然と見つめていた。
(美しい、なんて綺麗なんだ!)
 すべての、蝋燭に灯をともしたらしく、ステントルは、松明を揉み消すと振り返った。洞窟には行って以来、はじめてユイマを見つめた。
 細い眼は吊り上がり、薄い唇が歪んだ。

「ここだよ。やっと、やっとだよ・・・・・来ることができたんだね。君も嬉しいだろう」
 ユイマは声を上げることが出来ない。右手に持った松明が細かく震えた。
「思った通りだった。白い肌、蒼い瞳、金色の髪がここにはよく似合う。これで私の世界が完成した。待ってたんだ、今日のために、ユイマを招待するこの場所を用意して待ってたんだよ。やっと、やっと・・・・・」
 くぐもった声が、ユイマに運ばれる。黒い瞳は焦点がぼやけ、飛んでいる。ユイマにはステントルの言うことがほとんど理解できない。
 ぶつぶつ言いながら、両手を大きく広げ、ステントルが近づいてくる。ユイマは金縛りにあったように微動だに出来ない。
「よく来たね・・・・・もう帰さない・・・・・」
 ステントルがユイマの両肩を掴んだ。肩に掛かる圧力を感じた。その瞬間だった。ユイマを呪縛していた何かが解けた。恐怖が一気に襲ってきて、全身を包んだ。身体全体から力が抜け、立っていられないと思った。小刻みに震えだした手から、松明が落ちていった。
床に衝突した松明から、火の粉が飛び散った。
「だめだよ、汚しちゃ・・・・・」
 そう言いながら、ステントルは、奥からボロ布を持ち出し腹這いになって床を拭き始めた。舐めるように、慈しみながら。その姿を見下ろすユイマの膝は、がくがく音をたてるように震え、とても制することは出来なかった。

「いやだ! 絶対いやだ!」
「なにがいやなんだい?」
 ユイマの上げた悲鳴に、ステントルは不思議そうにこたえた。
「こんなところ、いやだ! 帰る、僕は帰るんだ!」
「どこへ帰ろうと言うんだい。いまさら帰ることは出来ないよ。ユイマは私と一緒にここへ来てしまったんだから」
「そ、そんなこと・・・・・」
「私が、無理やり連れてきたかい? 私は黙って歩いてきた。そして、君はそれに付いてきた。自分の意志で」
「そ、そんな、街に帰りたい。洞窟の外に出して下さい」
 ユイマの言葉は懇願に変わってきた。
「だめだよ、君にはあの世界は似合わない。薄汚れた人間が蠢き、欲望を漁り続ける瘴気の満ちた大気など、我らに似合うわけがないではないか」
「お願いです。ステントル様・・・・・」
 ユイマの頬に涙が伝わった。とても受け入れては貰えぬという絶望感が、身体を締め付けた。

 ステントルはどのぐらいの年月をかけて、床に這いつくばり、壁にへばりつき、洞窟中を白磁の大理石に磨き上げたのだろうか。ボロ切れで大理石を磨けるはずがない。仕上げに表面に光沢をだすしか出来ないはずだ。
 ユイマは洞内を見渡した。あった! 研磨に使ったであろう手の平大の石が、光沢を放ち無数に隅に転がっていた。
 洞窟内の輝く白い単純な美麗さは、ステントルの異常な偏執心の勝利であろうか。
「綺麗だろ。この床を、この壁を見たまえ。何という滑らかな曲線なんだ! だれにも邪魔は出来はしない。この曲線・・・・・ユイマ、君にもこの悦楽を感じさせてあげるよ」
 壁の丸く磨かれた大理石を、ステントルは飽くこともなく、撫で続けている。その岩の曲線こそが、彼の生命の源であるかのように、頬刷りをする。口元からよだれが垂れて、白い顎に伝わっている。
(狂っている! ステントル様は狂ってしまわれた)
 ユイマに絶望感が襲ってきた。立っていることが出来ずうずくまり、膝で頭を抱えた。「ユイマ、楽しいだろ。私を理解してくれる人を、どれほど待ち望んでいたことか・・・・・。いまはとても嬉しいよ。」
(理解できない! 理解できるはずがない! 僕はどうなるんだ?)
 理解できるのは、いまさら迷路の暗闇を、出口に向かうことなど無理なことだけである。どう考えても逃げ出す事は不可能だった。

次ページへ小説の目次へトップページへ