ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第二章、情念の結界<6>




  何でついて来てしまったのか分からない。しかし、現実に自分は磨かれた大理石の空間にいる。目の前には、床の上に腹這いになり、よだれを垂らしながらうごめく、男がいる。
男! ユイマの心の中では、ステントルという個性を持った人格は消えてしまっていた。
男としか言い様のない生物は、まるで爬虫類のような艶めかしい皮膚をしている。
 時に研磨に使い丸くなった石を持ち、身体を撫でていく。想いを込めて、あたかも自分の身体を磨くかのように。
ユイマは、この空間にきてどのくらいの時間が経ったのか解らない。何日目だろうか。
「水だけで人は生きていけるんだ。栄養分は嫌らしい。不潔だ」
 男は、彼に何度もそう言い聞かし、自らの手で掬ってきた水をユイマに与えた。

 空腹を感じなくなってから、しばらくになる。身体の関節に力が入らなくなった、もうすぐ動けなくなるんでは、という恐怖に駆られたのか、無我夢中でユイマは松明を掴んだ。
 蝋燭にかざすが、小刻みに腕か震えて火が移らない。震える右手を左手で支え、やっとの思いで火を付けることが出来た。ユイマは男の様子が気になり振り返った。しかし、男は壁を撫で続けているばかりだ。 
 最初の頃は、ユイマの動きに反応して、彼が逃げ出すのを拒否する行動に出たが、今ではそのような行動に出ることも無くなっていた。あるいは、ユイマの体力を冷徹に計算して、脱出が不可能であることを知っているのだろうか。
 立ち上がり、白い布を身体に巻き付けると、彼は、ふらふらと、よろけながら白く輝く空間を後にした。
 気づいているのか、気づかないのか、男は何の動作も起こさない。すぐに足下の感触が変わった。研磨されていない石灰岩の地肌が、足の裏を刺す。
「あっ!」
 ユイマは思わず叫んだ、足が苔にとられて転びそうになった身体を、壁にすがりつくことで支えた。松明の火の粉が飛んだ。ただそれだけのことで、息が乱れて立っていられずうずくまり、しばらく呼吸を整える時間を必要とした。体力が極端に落ちている証拠だろう。

 水が足を浸した。ゆるい流れを感じた。松明をかざすが、先は闇の中だった。ユイマは水の中を、探るように歩を進めた。
 闇は深い、言いしれぬ恐怖が襲って来て、足がすくむ。思い直したように、気持ちに鞭打ち、彼は出口への道を探した。一度、通った道であるはずだが、まったくわからない。闇雲に歩き続けた。
 疲れて立ち止まり、大きくため息を吐いたときに、ユイマは愕然となった。その時、初めて気づいたのだ。自分の行動は、白い大理石の空間から、明かりの届く範囲だけを、うろつき回っていたんだと。足がすくんだ、恐怖が胸を締め付ける。
(ああっっっ!)
 足がすくんだ、恐怖が毛穴から吹き出した。それは、本能のつかさどる、生命に対する生理的恐れであった。
 出口のない暗闇。ユイマは絶望の中、完全に囚われてしまったことを、自覚せざるを得なかった。


 洞窟内の大気は優しい。風が吹くこともなく、肌を刺すような陽射しもない。緩やかに空気が流れているのを、蝋燭の炎の揺れで感ずる。
 炎の揺れを照り返し、白い大理石はきらめく。男は、相変わらず俯せになって、床を撫で続けている。
 いかに滑らかでも、硬い床はつらい。ユイマは、白い布を脱ぎ、床に敷いてその上に、仰向けに寝そべっていた。おそらく、言葉を話す力もないだろう。  
 柔らかい布の上に、全裸で横たわるユイマの碧眼は、虚ろであった。羞恥心などという社会的慣習は、すでに、彼の心に何らの影も落としていない。
 もうずいぶん食べるものを口にしていない。身体を動かす力もなくなったユイマに、男が、水を手ですくってきて飲ませてくれる。彼は、少しでも水分を取りたい欲求があるのか、水に濡れた男の指をなめ回した。
 虚脱感の中、ユイマは何も考えられない。もはや、恐怖も絶望も感じない。ただ、かすかに身体の生理的欲求はあるようだ。

「君の歯も素敵だね。何という硬質感だろう!」
 明らかに狂気に侵された眼で、男はユイマを見つめ、指で彼の歯を押したり摘んだりしてもてあそぶ。ユイマには男が何を言っているか理解できない。
 そのうち、男の唇がユイマの唇に重ねられた。男の舌が、ユイマの口腔を這いずり回る。彼の歯を一つ一つ、確認するように舐めていく。男の唾液、粘膜の感触が心地よい。感触だけは敏感になって行くのだろうか。
 男は興味深げに、ユイマの首に金鎖で繋がれた、琥珀を手に取った。
「綺麗だ、しかしこれは、君にしか似合わない。金髪と蒼い瞳、そして透き通るような肌をした、君にしか・・・・・」
 男が呟いているのが、遠くから聞こえてくる。ふと、ユイマの脳裏に幻想が浮かんだ。涼やかな風が吹いてきて、ドレーパリーが揺らいでいるのだ。
(あっ、アリウス様・・・・・)

 ユイマは、鏡のように磨かれた、大理石に映る自分の姿を見るともなく眺めていた。頬が痩け、あばら骨が浮き出て、肉が削げている。べつになんの感慨も湧いてこない。
 彼の感覚も異常を来し始めた。曲線に魅入られてしまったのだろうか、丸く磨かれた石で、身体を撫で始めていた。懐かしく、優しい、癒される感じに浸れる。床の曲線が彼の心をとらえて離さない。
(思い出した。そうだ、アリウス様だ。アリウス様の身体と同じ曲線だ・・・・・)
「ユイマ・・・・・」
 かすかに彼の名を呼ぶ声が響いた気がする。
(アリウス様・・・・・)
 虚ろな彼の感覚に変化の兆しはない。想念は拡がっていく。
「ユイマ!」
 遠くから何かが聞こえてくる。
「ユイマ!」
 何度目かの呼びかけに、彼は反応をした。ほとんど無意識のうちに、彼は手に持った石を、床に投げた。
 拡散し続ける想念と分離した腕の筋肉が、意志を喪失したまま、収縮と弛緩を繰り返しだした。手が別の石を掴むと、弱々しく床を叩き始めたのだ。
 男が呆然と立ち尽くしているのが、微かに眼球に映った。蝋燭の炎が揺れる。洞窟内の空気の流れが乱れた。
 そして、ユイマは意識を喪った。

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