第二章、情念の結界<7>
カスピ海に沈む夕日は、例えようもなく荘厳である。何処までも続く大海原は、人間がいかに卑小なものであるかを知らしめる。その感動が人を癒し、心を解放するから不思議なものである。
もう一刻もすると、橙色に膨れあがった太陽が、水面に接することになるだろう。ユイマは、岸辺の岩の上に腰を下ろしていた。側には、まるで儚いものを、いたわるように、アレスが寄り添っていた。
浜沿いの粗末な漁師の家から、煙が立ちのぼっている。並んだ同じような造りの家から同じように煙が出ている。夕食の準備を始めたのであろう。子ども達が駆け回る砂浜には、帆をたたんだ、多くの小さな漁船が砂浜に乗り上げてあった。
ユイマはもちろん知らないが、敷き網、刺し網による漁法等を含め、この漁村の風景は、約二千年間ほとんど変わることは無かった。漁村の風景を一変させたのは、動力舟の出現であった。動力による、ウインチ。人工繊維による網の強度と巨大化をまたねばならない。 ようするに、近代的な漁法が行われるようになったのは、たかだかこの百年のことである。
沖合に数頭のネズミイルカが、飛び跳ねている。ユイマには、イルカの家族が戯れているように見えた。
ユイマが洞窟から、命からがら帰還して十日になる。意識がすっかり戻るのに三日間を必要とした。
「ユイマ、具合はどうなんだ」
いたわるように、アレスが声を掛けた。
「もう、すっかりいいよ」
「本当に心配をかけるやつだよ、おまえは」
「・・・・・ごめん」
ユイマが、振り返ってアレスを見つめたとき、アレスの顔に驚きが走ったような気がした。
「綺麗だ!」
「えっ、何が? ああ、ほんとにこの海は綺麗だね」
「海じゃない!」
「えっ、どうして怒ったの」
「怒ってるもんか」
ユイマの長い金髪が陽を反射してきらめく。海風にあおられ、ばらけて額と首筋を撫でる。蒼い双眸は、まだ多少虚ろに焦点があわないところがある。
「ユイマ、あれほど洞窟に入るのはやめろと言ったじゃないか。しかも、ステントル様と一緒だったとは」
「どうしてだか、僕にも分からないんだ」
「無理やり連れて行かれたのか」
「ちがう。拒むことが出来ずに、ついて行ってしまったんだ」
「何なんだいそりゃ。まったく分からんよ。まあ、いい、ユイマが元気になったんだから」「ありがとう・・・・・ほんとうにありがとう」
「そんなに言われたら、照れるじゃないか」
アレスは、困ったような顔をして頭を掻いた。
「サティーに聞いたんだ。僕が意識を回復するまで、側について看病してくれたんだってね。それに、良く見付けてくれたよ。ありがとう」
「ああっ、そりゃあ大変だったんだぞ!」
アレスは、海に視線を送りながら、とつとつと話し始めた。
ユイマが聞いたアレスの話しによると、彼はユイマがいなくなって、狂ったように街中を探しまわったそうだ。やっとの思いで、白い布を羽織った二人が、鍾乳洞の方へ歩いていくのを見たという証言を得た。彼は、そのとき、ユイマに違いないと確信した。
彼は、一度、鍾乳洞に迷い込み生還した事があった。中の様子について、多少の知識はあった。アレスは、躊躇することなく、松明と目印になる黄色い紐を手に、洞窟に入っていった。
自然界において、一番眼につく色は、黄色である。彼は所々で、石筍に紐を結わえ、慎重に進んでいった。ずいぶん経った時、石が落ちる音を聞いた。そのあと、微かに響く石を叩く音を頼りに、なんとか、ユイマを見付けることが出来たと言っていた。
「アレス、気になっていることが在るんだけど」
「なんだ?」
「ステントル様は?」
「俺が、ユイマを見付けたとき、彼らしい白い衣が、洞窟の奥に消えていくのが見えた。さらに奥に入っていったことは間違いない」
「それから、どうなったの?」
「そのままだ。未だに洞窟から出てきてはいない」
ステントル様は、自分だけの世界に身を隠してしまったんだ。もう、決して現世に現れることは無いだろうと、ユイマは思った。
そして、そこだけが彼の休息出来る世界であり、彼は幸せになったのだと心から思えるのだった。
浜辺で駆け回っていた、子供の姿が見えなくなった。家に帰って、夕食が始まるのだろう。太陽は橙色をおびてきたが、まだそれほど大きくはない。陽が沈むまでにはまだ間がある。
「ユイマは海が好きか」
「うん、この海は本当は湖だそうだね。僕、本当の海を見たことがないんだ」
「本当の海? 聞いたことはあるが、俺も見たことはない」
「僕もアリウス様に、海の話しを聞いたことがあるんだ。まだまだ、僕たちの知らない世界がたくさんあるんだね」
「そうだ、ユイマ。君に俺の故郷を見せたいよ」
「アレスの故郷・・・・・どんなところなんだろう」
「そんなに遠くじゃない。馬で三日も走ればつく。綺麗だぞ、カラボガズゴル湾といってカスピ海の一部なんだけど、遠浅なんだ」
「遠浅って?」
「遙か遠くまで浅瀬が続いているんだ。イルカもチョウザメもいないが、コイやスズキが手当たり次第に取れる。そこに、親父が塩田を開発して、今では大変な塩の産地になっているという話しだ」
故郷の話しになって、アレスは、少し元気がなくなったように見えた。彼がしばらく故郷に帰っていないのを、ユイマは知っている。以前聞いたところでは、アレスは両親の止めるのも聞かずに、立派な軍人になると言ってダハイ城に来たという。一人前になる前におめおめと帰るわけには行かないのだろう。
「へー、じゃあ、アレスのお父さんは部族長なのか?」
「違う。皆に慕われてはいるけど、そんな気はこれっぽっちも無いみたいだ。とにかく面倒くさいことが大嫌いな親父なんだから」
「お母さんは?」
「会えば分かるよ、本当にやさしいんだぞ。俺なんかお袋が怒ったところも、声を荒げた所も見たことがない」
「いいなぁー、アレスは・・・・・」
アレスはハッとして息を呑んだ。
「あっ、ごめん。調子に乗って話してしまった。ごめんな!」
「いいんだよ。気にしないで。僕の両親も兄も殺されたことは事実なんだから。心の整理は出来ているから・・・・・だいじょうぶ」
橙色の夕日が眩しい。海面がキラキラ輝いてくる。ネズミイルカの家族は、飽くこともなく、飛び跳ねて遊んでいる。
「おい! ユイマどうした」
「うん・・・・・」
「ぼちぼち、帰ろう」
「うん・・・・・」
「いいか、暗くなる前に城門の中に入らないと、外で夜を明かすことになるんだ」
「うん、わかったよ」
陽の入りと共に城門は閉じられ、翌日の夜明けと共に開けらる。ダハイが本来の活気を取り戻すのは、実は、城門が閉らじれれてから後のことであった。
歓楽街に灯がともり、嬌声が飛び交う。妖しい香りに乗せて、女は化粧の鱗粉を巷間にまき散らす。羊や馬と共に、過酷な自然に翻弄されるステップ草原の遊牧民に取っては、まさに、甘い蜜の溢れる、地上の楽園であった。
真っ暗な大平原に、こつ然と現れる蜃気楼が、夜のダハイである。
暗くなる前に城内に入った二人は、王宮の方へ歩いていく。
「おい、ユイマ、まっすぐ帰るのか」
「うん、もうすぐ食事の時間だろ、サティーが待っているんだ」
「いつも二人でか」
「そうじゃないよ。カストル様、タンタロス様やオリオン様がいっしょのこともあるよ」
「そっ、そりゃすごいや!」
大声をあげたのも無理はない。アレスの尊敬する戦士が、勢揃いではないか。
「よかったら、アレスもいっしょに食事をどうだい」
「えっ、うーん・・・・・やめとくよ。俺はまだ騎兵の見習いだから、だめだよ」
「見習いだとだめなの、じゃあ僕は?」
「ユ、ユイマはオリオン様のお客様だ」
「ふーん・・・・・今度、オリオン様にお願いしてみるよ。食事と、それに僕の部屋は一人だと大きすぎて寂しいんだ。アレス、いっしょにどうだい?」
ユイマの言葉を聞いた、アレスの足が止まった。
「ほ、本当か、ぜひ頼むよ。俺の寝るところなんて、むくつけき男どもの、汗の臭いで気分が悪くなるぜ・・・・・いや、やめてくれ、そうはいかない。ユイマ、世の中には序列というものがあるんだ」
アレスは、興奮のあまり眼が輝いたかと思うと、すぐに落ち込んでしまう。
「僕とアレスには序列があるの」
「俺たちは別だ。親友だ!」
何となく疎外感を感じ始めていたユイマの心に、暖かいものが流れ込んできた。
(そうだ、アレスとは親友なんだ)
「ユイマ、親友の証にいいところに案内しようか」
「えっ、いいところって?」
「女のところだ!」
「女のところ? 王宮の中には、女性はたくさんいるけど・・・・・」
「ちがう、ちがう、そういう女じゃなくて・・・・・ひょっとして、ユイマ、女を知らないのか?」
「えっ、知ってるよ」
「おお、しってるのか」
アレスは意外とも、安心ともつかぬ複雑な表情を浮かべた。
「うん、一番良く知っているのがサティーだよ」
「ま、まいったな、お前という奴は。よーしまかしとけ、今度案内して・・・・・うーん、何でもない。何でもない」
「アレス、何を言っているか分からないよ」
「わ、分からなくていいんだ。ユイマは今のままでいいんだ」
ユイマには、何がいいのかますます分からない。勝手に頷いているアレスの横顔には、笑顔と安堵感が窺われた。ユイマには、アレスのことが同じ歳だとはとても思えず、彼の知らない世界をしっている大人に見えた。
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