ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第二章、情念の結界<8>




「ユイマ殿・・・・・」
 アレスと分かれて、王宮の入り口の階段を昇り、中に入ると天井の高い広間になっている。そこで、突然声が掛けられた。甲高い声であった。
「えっ」
 振り向いたユイマの眼に映ったのは、黒い人影、まさに影のようだった。首から下を、黒光りする布で包んでいる。直毛の黒髪を胸元まで垂らしている。ほっそりとした白い顔、切れ長の黒眼が、彼を見つめていた。
 敵意は感じないが、男とも女とも判断しがたい、異様な感じがした。 
「マゴイ・・・・・」
 思わずユイマの唇から言葉が漏れた。
「おお、ご存じですか。確かに私はマゴイです」
「な、何かご用ですか」
「突然、声を掛けて驚かれましたかな。しかし、お見受けしたところ私を嫌悪してはおられないようですね。考え違いをなさってる方も、大勢おられますが」
 マゴイはユイマと近づきになりたいらしいふうである。
「嫌悪だなんて、存じ上げている方が、あまりいらっしゃらないものですから」
「ほー、ご存じの方が、おられるんですな」
「ええ、エクバタナで、ラオメドン様とお会いしたことがございました」
「おおっ! あの偉大な、ラオメドン様をご存じなのですか。あの方はマゴイの尊敬を一心に集めておいででした。あの方とお知り合いだとは」
「そんなっ、知り合いと言うほどではありません」
 ユイマは、マゴイの大仰な驚きに恥ずかしくなって俯いてしまった。
「いえ、いえ、私どもに取りましては、ラオメドン様と言葉を交わされただけで、大したものなんです。思った通りでした。これは是非にでも、王宮の最上階にご招待したいものです」
 王宮の最上階、すなわち四階に上がることの出来るのは、ディオン王と、神託を司ると言われるイスメネ姫、そしてマゴイだけだとユイマは聞いていた。
「でも、最上階には・・・・・」
「大丈夫でございます。なにしろ、あのラオメドン様のお知り合いなのですから。他のマゴイも話を聞きたがるでしょうし、王も姫も大歓迎なさるはずです」
 マゴイの薄い唇が吊り上がり、瞳が光を放った。ユイマは疑念を持った。マゴイがユイマに声を掛けたのは、最上階への誘いではないのかと。
「ええ・・・・・その内に、機会がありましたら」
「今から、ちょっとだけ、いかがですか」
 マゴイの顔がユイマに近づく。
「あっ、あの、サティーが待ってますから、失礼します」
 そう言うと、ユイマは後ずさった。
「何時でも結構です、おまちしていますよ、ゆっくりとお話を致しましょう」
 マゴイの言葉を聞くのも程々に、ユイマはその場を立ち去った。なぜだか、胸がどきどきしている。不安の中に妖しい期待が芽生えているのを彼は自覚してはいなかった。


 ユイマは中庭に出て、しゃがみ込んで黄色い花を見つめていた。考え事をするには、部屋の中より中庭の方が思考が拡がり、心地よくなるのが常だった。しかし、今日は何時もと違い、気持ちが落ち込んでいる。
 ユイマはアレスと同居することを、オリオンに頼んだが許されなかった。アレスはまだ見習いの身で、他の者に示しが付かないと言われた。それなら自分を見習いの扱いにして下さいと言ったが、これも拒否された。オリオンにとってユイマは、客分であり、アリウスの兄弟弟子にあたると言われた。
「客、お客様か・・・・・」
 十四歳の時から、自分はいつも、お客様ではなかったのか。どうすれば、一人前の男として自立でき、確固とした位置を占めることが出来るのだろうかと、取り留めもなく思っていた。

「ステントル様は、ここで花を見ていたな。いつまでも、いつまでも・・・・・何を考えていたんだろうか。考えるのが厭で花をみていたのかもしれない」
 ユイマの唇から、無意識に言葉が漏れた。あの日と同じ、やさしい陽射しの中、黄色い花が咲いている。中庭は何の変わりもなく、ゆるやかに時が流れていく。
 ステントルとの出来事が、うつつのようで現実感をともなわない。あれほど彼の精神に衝撃を与えた事件だったはずなのだが、実感を伴えるのは、今、この場所だけだった。
 ステントルが人々の意識に昇ることは、次第に無くなり、忘れ去られていってしまうのだろう。
 ユイマは思う。ステントルにとって、唯一、気持ちが通じていたのは自分だったかもしれないと。しかし、ユイマは彼の気持ちが分かるわけではなかった。
 膝を折り、黄色い花を見続けているユイマの心に、あの事件はどの程度の影を落としたのだろうか。
「いくら見つめても、動かないよ。のびないよ」
 またもやユイマは、独り言を漏らした。
 まさにその時、突然の出来事がおこった。弾かれたように立ちあがったユイマの身体は、凍りついてしまった。

「あっ!」
 と言ったきり、次の言葉が出てこない。粟だった背筋を、冷たい水が下半身の方に流れていく。上から落ちてきた水がうなじに当たり、背筋につたわって行くのだ。 
 考えられない突然の出来事に、凍りついてしまった身体が溶けるのに暫くの時間を必要とした。
 ユイマは振り返ると、建物の上を仰ぎ見た。窓から身を乗り出した少女が、陶然と笑いかけていた。彼には、その笑顔は狂気を含んでいるように見えた。
 イスメネ姫だった。ダハイに到着した時の宴会で紹介されたディオン王の娘で、歳はユイマより一つ年上の十八歳だと聞いている。
 彼女の、四階の窓からユイマを見つめる引き吊れた笑いが、彼の心を不安にさせた。
 呆然と仰ぎ見るユイマをおいて、イスメネは窓を閉じた。なぜ水滴を落としたか、彼には理解できない。ただ、背筋を這う水滴の気持ち悪さだけが残った。

 ユイマは訳が分からず、中庭を後にして自室に向かった。彼に用意された部屋は、王宮の三階にあった。階段を昇るユイマは背に何とも言えぬ、水滴の這った跡の違和感を感じている。
(イスメネ姫か、変な人だな・・・・・あっ!)
 ユイマの部屋の扉に寄りかかりながら、陶然と笑いかけながら、イスメネは彼を見つめているではないか。
 彼は面食らってしまった。自分に何の用があるのか皆目見当が付かない。恐る恐る近づくユイマを、じっと見つめたまま話しかけようとはしない。
「な、なにか・・・・・」
 気圧されたユイマの口から言葉が出た。
「ちょっと、お話ししたいと思ったの。いいでしょ」
「うん、別にかまわないけど」
「じゃあ」
「えっ!」
 彼女は突然ユイマの腕を取った。背はユイマより少し低く、しなやかな体つきであることが衣服をとうしてでも解る。床に引きずる長いキトンを、細い帯でウエストを縛っている。肩には黒いレースのショールのようなものをまとっていた。
「行きましょう」
「ど、何処へですか」
「いいものを見せてあげるわ」
 イスメネは、ユイマの腕をかき抱くと歩き出した。強く掴んでいる訳ではないが、有無を言わせぬ意志が感じられた。彼女の長い赤毛の髪が、ユイマの首筋を撫でる。

「ここよ、どうぞ入って。もうすぐ来る時間だから」
 そういって、イスメネは扉を開け内部に誘った。部屋は一間ではないようで、ユイマのあてがわれた部屋の数倍の大きさがあった。
「なにおどおどしてるの、いいから入って」
「ここ、君の部屋じゃないよね」
「何か期待してるの?」
「えっ!」
「冗談、冗談よ、ここは母上の部屋なの」
「お母上といったら」
「そうよ、王妃デメテルの部屋という訳なの。気にすることはないのよ、私も時々見物に来るの」
 イスメネの感じはがらりと変わり、ユイマには年下の活発な女の子に見えた。
「見物? 何を?」
「いいの、すぐに分かるから。さあ、早く入ってよ」
 イスメネはニコニコ笑いながら、ユイマの手を引く。部屋の内装は何とも豪華な物であった。壁を埋め尽くすように飾り棚が置かれ、高価そうなガラス製品がならんでいる。床は鮮やかな絨毯が敷き詰められ、窓には色鮮やかに刺繍された布が下げられていた。大きなテーブルの上には色とりどりな生花が乱れている。
「こちらよ、こちらの部屋に来て」
 イスメネに誘われるままに、ユイマは隣の部屋に入って行った。

「こ、これは・・・・・」
 ユイマは思わず息を呑んだ。部屋全体が暗く、壁には巨大なネズミイルカとチョウザメの剥製が飾られている。大な磨き抜かれた鼈甲が、燭台の光を照り返す。いささか不自然なぐらい大きな、天蓋の付いた寝台が目をひく。
「驚いたかしら、私もあまりいい趣味だとは思わないの、でもまぁーこんなものよ。さあ、こちらよ、早くしてね帰ってくる頃だから」
 そう言うと、イスメネは寝台の奥に連れて行く。棒が渡され衣服が掛かった側の棚の裏にユイマを導いた。
「何時もこの場所にいるの」
 二人だと、かなり窮屈な場所だった。
「静かにしてるのよ」
「こ、こんなところで、な、何をするつもりなんだ。僕はかえるよ」
 ユイマがそう言ったとき、入り口の扉が開いた音がした。
「もう、遅いわよ。見つかると殺されるかもよ、静かにしようね」
 イスメネはユイマの耳元で囁くと、彼を見つめた。彼女の眼はつい今しがたとは違い、妖しく潤んできていた。身体を密着せねばならない狭い場所で、彼女の耳殻をくすぐる吐息は、ユイマの心身に微妙な変化をもたらした。

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