ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第二章、情念の結界<12>




 翌朝からの練兵は、今までとは明らかに違ってきた。大平原を疾走する騎馬の訓練は中止になり、城の近くで騎馬を走らせることがある程度で、城内での武器による訓練が主流になった。
 兵の訓練を束ねるのは、タンタロスであった。オイクレス一派も、むろん参加している。胸中はいざ知らず、あくまでも表面上はいさかいを起こす気配はない。
 その最大の理由は、余人が口を挟むことが出来ないほどに、背が高く鋼の肉体を持った、タンタロスの武術と用兵に関する技術には、卓越したものがあったからである。
 有能な兵士は、ある意味で技術者であり、職人である。技能、技術の優位さは絶対的なものがある。文字通り生死を賭けた戦場においては、合理的かつ冷徹な判断が不可欠となる。感情の入り込む余地はない。歴戦の兵士は誰でもがそのことを肝に銘じている。何より自分の命が掛かっているのだ。下手な妥協は出来るものではない。
 よって、オイクレス一派の兵士も、感情の部分とは別に、タンタロスを崇め、従っているのだろう。

 訓練を受ける兵士の中には、ユイマとアレスの姿もあった。サティーの昼間の身辺警護は、彼らの任務ではない。昼間は、サティーに気づかれないように護衛官が見守っている。
「アレス、オリオン様とカストル様が今日は顔をださないね」
「ああ、きっと何処かで作戦を練っているんだと思う」
「カストル様は髭面の大男だけど、優しい眼をしているね」
「ユイマ、まったくお前は・・・・・何処を見ているんだ。あの人の知謀はすごいぞ」
「へぇ、アレスはどうして、そう思うんだ?」
「いや、なに、オリオン様が言ってたんだ」
「なぁんだ!」
 最近では、直接兵を指導するのは、タンタロスの役目であったが、以前は、オリオンもカストルも必ず顔を見せたものだが、今日は姿を見せない。
「オリオン様にあの二人が手を組んだんだ、もう怖いものなしさ。ダハイも良くなるぞ」「怖いものって?」
「ビーマ爺さんが言っていた。本当に悪い奴は、王宮の四階に住む黒い奴らだと」
「黒い奴らって、マゴイのこと?」
「ユイマ、お前知っているのか」
「一度話しをしたことがあるよ。四階に遊びにおいでと誘われたんだ」
「バカ! 絶対に行くんじゃない。あんなところなんか!」
 アレスは手に持った剣を投げだし、両腕でユイマの肩を掴むと激しく揺すった。
「わ、分かったよ」
 思わぬアレスの剣幕に、ユイマは少し驚いたが、今ひとつマゴイに対して悪感情が湧いてこないのだった。
「いいか、あそこに行けるのは、ディオン王とイスメネ姫だけなんだ。そして、二人はマゴイに薬で骨抜きにされ、毎日、淫らなことが行われているんだ」
「淫らなことって」
 ユイマは、デメテル王妃の部屋でみた、イスメネの振る舞いを思い出した。
「そ、それは・・・・・」
 アレスは眉間に皺を寄せ、話して良いものかどうか迷った顔をした。彼はユイマに対し保護者に近い心情を持っているのかも知れない。
「言ってよ。それとも、ビーマ爺さんに聞いただけなの」
「と、とにかく、そんなところにユイマを行かせられるか! 絶対駄目だ!」
「わかったよ」
 ユイマの返事を聞くと、アレスは両肩の手を離した。強く握られたらしく、ユイマの肩はまだ痛みを感じている。紅痣になったかなとユイマは思った。しかし、自分のことを心配してくれる、アレスの気持ちは嬉しかった。

「こら! 何をグダグダ話してるんだ。稽古を続けろ」
 モリオネの叱責が飛んできた。彼は、タンタロスの補佐として、張り切って兵士の指導に当たっている。
「はい!」
「いいか、戦場に於いては、一瞬のためらいが、命を落とすことになる」
「はい!」
「剣を手放すなんて、死にたいとしか思えないぞ」
 モリオネはそう言うと、彼らの足下に落ちた剣を指さした。
 二人は慌てて剣を拾うと、革の握りを掴む手に力を入れ、戦闘の間合いに入った。モリオネは頷くとその場を後にした。
「アレス、あの人が・・・・・」
「そうだ、間違いなく、将来の指導者だ。さあ、稽古をしよう」
「やろう」
 アレスの予言は当たった。数年後には、ダハイの地を含む、カスピ海の東岸のみならず、ヒュルカニア地方から、遠くサカ族の支配する中央アジアの平原にまでモリオネの名前は轟き渡ることになる。オリオン旗下の若武者として。 

 ユイマとアレスの、寝ずの番は一週間は続いている。二人とも当初の緊張感が緩んで、楽しく任務に励んでいるように見える。
大きな変化と言えば、オリオンとカストルが練兵の謁見のみならず、夕食にもあまり顔を出さなくなったことだ。今日の食事も、サティーを含めて三人だったが、楽しい食事だった。ユイマは最近、サティーの美貌にますます磨きがかかったように感じている。
 食事を口に運ぶ何気ない動作にも、ドキッとさせられることがある。なぜ、そんな感じを受けるのか、多少の戸惑いがある。自分では強く否定するのだが、ひょっとしたら、イスメネから言われたことが、気になっているのかも知れないとの思いが掠める。
「サティー様は、ほんとに綺麗だ。ユイマもそう思うだろ、肌なんてまるで透き通るようだぜ」
「うん、でも時々、下を向いて寂しそうな表情をすることがあるんだ」
「お前の言うとおり、確かにそんな表情をすることがあるな。でもそれって、すげぇ魅力的だと思わないか。オリオン様が夢中になるのも無理はないな」
 アレスは、右手で顎を少し摘みポーズを取る。大人ぶっているところが、ユイマには可笑しかった。
「魅力的? そうだよね。でも、何か思い詰めている気がするんだ」
「いいって、俺たちが守るんだから心配は何もないよ。それより、ユイマは幸せだなぁ、あんなに綺麗な姉さんがいて」
「姉さんじゃないよ」
「みたいなもんだろ」
「まあそうだけど」
 ユイマの心には、なぜだか腑に落ちないものがある。何だとはっきり言えないもどかしさに、下唇を無意識に噛んだ。

「さぁ、今夜も交代で見張りだ。ユイマ、先に浴場へ行ってこいよ。俺は後で良いから」
「えっ」
 ユイマは考え事をしていた。アレスが何を言ったか、一瞬、理解できなかった。
「何を、ぼぉーとしているんだ。浴場だよ、水浴びをしてきたらと言ったんだ」
「あっ!」
 ユイマの口から小さな悲鳴が漏れた。アレスの呼びかけが引き金になったしい。ユイマの背筋に電流が走った。彼は目を剥き、呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
「お、おい、どうしたんだ! 何が起こったんだ」
 アレスが何か言っている。しかし、ユイマの耳には意味を持った言葉として捉えることは出来ない。
(そうだ、アリウス様と同じだ! エクバタナを追われて、農家に身を潜めていたときの、アリウス様と同じ眼だ。なんで気づかなかったんだろう。でも、何故? 廻りの状況も立場もまったく違うのに)
数日来、胸に拘っていたものが、今や、はっきりユイマに理解できた。しかし、それが何を意味するのか、今の彼には分からなかった。


 早朝からの訓練を、午後までぶっ続けでやると、肉体は疲労困憊してしまう。アレスとユイマは、三階の自分たちの部屋に行くべく、王宮の長い階段を上っていた。
「まったく、なんだってんだ。ここんとこ訓練が激しすぎないか?」
 アレスが不満そうに呟く。彼の褐色の巻き毛が、濡れて滴が垂れている。訓練が終わった後、二人は水浴びをしたばかりであった。
「僕もそう思うよ。タンタロス様は何かに取り付かれたように、厳しいし」
「そうだよな。早く行こう、部屋に行って、寝台に寝っ転がるぞ!」
 日が落ちるまでには、まだ間がある。夕食までに一眠りできそうであった。

 部屋の前にたどり着いた。アレスがまさに、扉を開けようとしたとき、背後から声が掛かった。
「あのぅ・・・・・」
 ユイマが振り向いたときに、若い女性が前に手を組んで立っていた。、おずおずと何かを告げたそうである。
「何ですか?」
「ちょっと心配になってきたものですから」
「どうしたんです?」
 ユイマは穏やかに尋ねる。背後から苛ついているアレスの気配が伝わってくる。
「サティー様のお姿が、見えないんです。いつもならお昼過ぎには一度帰っていらっしゃるんですけれど・・・・・」
「えっ、今日は絨毯織りの会じゃなかったの」
 ユイマの胸に不安がよぎった。
「そうなんですけど」
「お付きの人は?」
「親族に不幸があったとかで、お暇をもらったと聞きました」
「なっ、何だって。ユイマ、もしかしたら・・・・・おい、しっかりしろ」
 アレスが、驚いたように大声をあげた。
「ぼ、僕は大丈夫。それより・・・・・」
「分かった。あんたは、このことをオリオン様に知らせてくれ、俺とユイマは直ぐに探すから。分かったな!」
「は、はい・・・・・」
「どこかの部屋に居られるはずだ、急げ!」
「あ、アレス!」
「大丈夫だ! まだ半日しか経っていない。取りあえずこの階を探すんだ、サティー様が宮殿から外に出ることは滅多にないはずだ」
「そうだよね。それに、デメテル王妃とオイクレス様は、昨日から、山の避暑地に行っていて留守のはずだし」
 二人は、三階の各部屋の扉を、手分けして片っ端から叩いて廻った。回廊は入り組んでおり、この階だけで部屋数は数十はある。
 二人は、「サティー!」と叫びながら走りだした。

次ページへ小説の目次へトップページへ