ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第二章、情念の結界<13>




 微かに、遠くからの声が聞こえてきた。「サティー!」と叫ぶオリオンの声のようだ。ユイマは声の方に走った。回廊に反響する声は、確かにオリオンのものだった。ユイマは息を荒げて駆け寄る。カストルとタンタロスの血相を変えている姿が眼に飛び込んできた。
「ユイマ!」
「オリオン様!」
「話は聞いた。サティー様にもしもの事があったら・・・・・」
 精悍なオリオンの声が震えている。
「二人で、向こうは調べました。後は、こちらから先です」
 アレスは褐色の眼を見開き、顔を突き出さんばかりに、オリオンに報告する。カストルとタンタロスが目配せをして駆け出そうとしたときだった。
「何ごとでございます!」
 二人の衛兵が、短槍を小脇に抱え駆け寄ってきた。
「サティー様を見なかったか! 不審な者は居なかったか!」
 立て続けに、オリオンは質問を浴びせた。緊迫したこの場の雰囲気に圧倒されるように身を引きながら一人が答えた。
「午前中にお見かけ致しました。イスメネ姫と微笑みながら歩いてお出ででした」
「私が、声をお掛けいたしましたところ、と、トンボ玉、確かそうです。蜻蛉玉のお話だとか・・・・・」
「い、イスメネだと! しっ、しまった!」
「オリオン様、如何なされました!」
 オリオンの動揺に、沈着なカストルの声も上ずる。
「よっ、四階だ! サティー様は四階だ!」
 オリオンは、腰の剣に手を当て、髪を振り乱しながら走り出した。ユイマも思わず腰の短剣を掴み後に続いた。長い回廊を必死に賭けた。訓練の疲れなど、まったく消え失せてしまったように。

「オリオン様!」
 ユイマは、必死に駆け寄ると、オリオンに呼びかけた。
「ユイマ! 最悪の事態かも知れぬ!」
 何時も静まりかえっている、回廊の空気が一変する。ユイマ達の後を、二人の衛兵も続き、けたたましい足音と共に、奥まった場所にある四階への上り階段に殺到した。
 四人が横になって通れるほどの、大きな階段の登り口には衛兵が二人立っていた。
「おっ、お待ち下さい!」
 衛兵は、形相も険しく駆けつけた集団を、必死に遮ろうとする。
「どけ!」
「オリオン様! 上へ昇ってはいけません!」
 衛兵は、一気に駆け上ろうとしたオリオンを、必死に引き留めようとした。
「緊急である、説明しているひまはない! まかり通る。そち達も後に続け!」
 オリオンの剣幕に圧倒された衛兵は、遮る気もなく最後尾に続いた。ユイマは、襲ってくる不安に胸を締め付けられながら、オリオンに引きずられるように後に続く。隣を見ればアレスも何かに憑かれたように、階段を駆け上って行く。

 踊り場のところで方向を変えた一団は、巨大な扉を開け、中から出てきた三人の男を認めた。異変が起こっているのに気づいたのか、黒い頭巾を被り、黒ずくめの踝まである長い衣を身にまとった男達は落ち着かないように見えた。
 マゴイだ! その瞬間、ユイマの心は、驚愕に打ちのめされて真っ白になった。この感覚は何時か経験したことがあったはずだ。不安は次第に大きな塊になり、彼の心を占領してしまったのだろうか。
「あ、上がってはならぬ!」
「ここを、何処だと心得る!」
 悲鳴のような、男とは思えぬ甲高い声で、二人のマゴイが叫んだ。オリオンは返答をしない。後ろから見える彼の肩は、小刻みに震えている。その眼は憤怒のの炎と化していることだろう。
 オリオンは、駆け上がりざま、腰の短剣を抜刀すると同時に、有無を言わさず、逆袈裟に斬りつけた。
「ギャーッ!」
 胸を下から切り裂かれたマゴイの、血潮を浴びるのも構わず、返す刃で、次の黒い頭巾に真っ向から斬りつけた。オリオンの、長年蓄積されてきた恨みを吹っ切るかのような、凄まじい惨劇であった。
 それは、ユイマが耳にしたことのあるオリオンの母の死。彼の心にわだかまっていた、不審死にかかわる怨念が乗り移ったかのようであった。
 瞬間の出来事であった。血を吹き出した二人のマゴイの骸が倒れている。
 殺戮場面に何度も立ち会ったことのあるユイマをして、その凄まじさには、圧倒されるものがあった。
「ヒッ、ヒェーッ!」
 もう一人のマゴイは、かろうじて扉の中に逃げ込んだ。中から鍵を掛けようとするのか、ゴトゴト、扉から音が響いてきたが、オリオンは、凄まじい勢いで扉を、内部に蹴り込んだ。
『バタン!』と大きな音をたてて扉が弾け飛ぶ。扉を支えていたマゴイが吹き倒れる。オリオンを先頭に男達は、部屋の中に飛び込んだ。目の前が真っ暗になった。黒い緞帳が張り巡らされ、燭台の炎が揺れている。広い空間には窓がない。正面の巨大な金属製の容器が炎を反射して黄金色に輝く。人の背丈もある、容器の広い開口部から、微かに紫煙が立ちのぼっている。
 その時、ユイマの鼻腔がある種の匂いをかぎ分けた。彼の記憶にある香りだが出せない。いや、思い出すのを彼の意識が拒否をする気がしてならない。
 無理もない。その香りは、彼の忌まわしい記憶と共に抑え込んだ匂いである。拐かされて、エクバタナの奴隷市場の奥にひっそりと位置していた去勢の部屋。その薄暗い湿った部屋に連れ込まれる前に、無理やりかがされた香ばしい枯れ草の匂いだったのだ。

 タンタロスが緞帳に駈け寄った。鞘走る短剣を横に払い、肩の高さに大きく緞帳を切り裂いた。眩しい光が奥の部屋から差し込んだ。躊躇せず、血刀を携えたオリオンは、光の中に身を躍らせた。一同が後に続く。ユイマも飛び込んでいく。
 なだれ込んだ一同の動きが凍りついた。
 そこには、床に敷かれた厚手の絨毯の上に、大きく両手を投げ出した、白い裸身が横たわっていた。サティーだった。
 大きく開かれた窓からの陽光が、ばらけた金髪に反射し、キラキラ輝いている。力無く伸ばされた両腕。横向きの細いうなじから、乳房にかけての白い肌は、透き通るように光を吸い込み、見る者眼を釘付けにする。
 微かに開かれた蒼い瞳は、焦点が合っていない。明らかに彼女の意識は飛んでいる。
 ユイマだけではない。オリオンを始め、飛び込んできた全員が金縛りにあったように動けなくなっている。呼吸をするのを忘れてしまったのか、ユイマは苦しくなった。
 巨大な絨毯にしるされた一円相が何を意味するのかは解らない。結界のようにしるされた円相の中に、サティーの意識の飛んだと思われる裸体が、横たわっている。
左右に開かれた、細い足の付け根に、異様な生物が貼り付いて“ピチャピチャ”音をたて吸い続けている。禿げあがり、上気した後頭部が蠕動している。オリオンの父、ディオン王の卑俗な姿であった。
 脂肪の塊とも見紛うばかりの醜悪な姿は、意外にも、サティーの高貴さを際だたせる役目しかしていないようにユイマには思えた。
 そこには、陵辱の後の悲惨な光景は何処にもなかった。ただ、美・・・・・、そこに現出していたのは、壮絶な美の世界であった。

 黒い衣が動き出した。マゴイの手から刃物の鋭い光が漏れている。十数人近くのマゴイがその場に蠢いている。身を屈めながら、彼らが彫像のように固まったユイマ達に、にじり寄ってくる。
 部屋の隅で、嬌声を発し数人のマゴイと戯れている女は、イスメネのようだ。ユイマには、それらの景色が自分とは切り離された世界のように思え、なんの感慨も湧いてこない。 最初に動いたのは、オリオンだった。サティーの股間に顔を埋めている、ディオン王の頭蓋骨を蹴り飛ばしたのだった。
「ぎぇーっ!」
 異様な悲鳴を挙げて、脂肪の塊がサティーの身体から剥がれた。どうやらディオン王の精神も普通ではないようだ。事態を認識しているとは思えない。
 一切躊躇を見せず、オリオンは王の身体に飛び乗ると、手にした短剣で彼の頸動脈を断ち切った。
「あっ!」
 ユイマは思わず声を挙げた。吹き出した血潮が、白いサティーの身体に降りかかるのだけを恐れたのだ。幸い、血潮はサティーの裸身とは反対の方に飛び散った。
 均衡は崩れた。ユイマの視界の片隅で、タンタロスがマゴイに躍りかかるのが見える。 悲鳴があがる。何かを切り裂く音が聞こえる。場の空気は一変し、マゴイに取っての神聖な場所は殺戮の現場となってしまった。
「ユイマーっ!」
 アレスの声が、ユイマの耳に入る。ユイマの近くで、人の倒れる音がした。彼に襲いかかろうとしたマゴイがアレスに倒されたようだ。しかし、彼は動けない。彼の眼は、サティーの白い裸身に釘付けになったままである。
「ユイマ・・・・・ユイマ」
 甘い爛れるような、声が近づいてくる。イスメネの声であることは解るが、ユイマの心は反応しない。

「ユイマ!」
 女の薫香がユイマを包む。イスメネがユイマの首筋に抱きつこうとしている。ユイマは無意識に腰の短剣を抜くと、彼女の胸に突き刺した。眼を見開き呆然と見つめる彼女の身体をユイマは横に投げ出した。彼の眼には、サティー以外、何も見えていない。
「あっ!」
 ユイマの喉から息が漏れた。血潮が飛び交い、悲鳴の上がる騒然とした部屋の中で、サティーの裸身が動き出したのだ。手を突き、膝を立てゆっくり立ちあがっていく。長い髪が背中で揺れる。
 窓からの光を浴び、逆光の中に立ち尽くすサティーの身体は、内部から発光するようにユイマの眼に映った。
 細いうなじ。縊れた腰から延びたしなやかな足。ユイマに向き合ったサティーの碧眼は、燭台の光を照り返したのか、深く煌めき、清逸さが際だっている。
 大麻に侵されているのだろうが、狂気の陰は微塵もない。この半日の間に、サティーの身の上に生じた出来事は、ユイマにも想像できる。しかし、目の前のサティーには、身に襲いかかったであろう陵辱の痕跡は全く見られない。彼女の瞳は清楚な透明感に溢れている。彼女の心中に何が生じたのであろうか。意識を揺るがす、何が起こったと言うのだろうか。何かを契機に、彼女の精神は、至高の高みにまで駆け上ったとでも言うのであろうか。ユイマには解らない。
「サティー・・・・・」
 ユイマの口から、彼女を呼ぶ溜息が漏れた。ただ、例えようもなく綺麗なサティーが網膜に焼き付いていく。彼は自らの瞳が滲んでいくのを感じた。溢れた涙が一筋、頬を伝わっていく。

「・・・・・ユイマ・・・・・」
 サティーの薄い唇が微かに動き、彼の名を呼んだ気がした。微かに微笑むと、彼女は踵を帰し、ゆっくりと窓にむかって歩き出した。
 窓際に到達すると、彼女は桟に足をかけ立ちあがった。両手を広げ天に向かって突き出すと、彼女は桟を蹴り、天に向かって飛び出した。ユイマの眼には、美の結晶が天に向かって飛び立って行くとしか見えなかった。
 それは、極ゆっくりした動きだった。窓辺に駆け寄ったユイマが眼にしたのは、サティーの裸身が、大気を滑空している姿であった。ゆっくりと、あくまでゆっくりと地上に落下していった。
「しまった! 下だ!」
「殺せ! 皆殺しだ!」
 オリオンや、カストルの叫びが聞こえる。何名かの衛兵も階段に向かって駈け出した気配がする。
「ユイマーっ!」
 窓辺に駆け寄ってきたアレスが、ユイマの腰をきつく抱きしめた。どうやら、彼が、サティーの後を追い、窓から身を投げ出すとでも思ったらしい。
 ユイマの心は、彼の名を呼びかけたサティーの唇と、深い清らかな碧眼以外のものを寄せ付けようとはしなかった。彼の意識は、現世から隔絶された“美”のみを見ていたのだった。

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