第三章、平原の月と狼<1>
「ユイマー・・・・・」
遠くから声が聞こえてくる。
「もうすぐ夕食ですよぉー」
包み込むような優しい声だった。ダハイの城を後にして、三ヶ月は経っていた。声の主はアレスの母親、テアノだ。場所はダハイ城の北方、カスピ海の一部、カラボガズゴル湾を望む小高い丘の上であった。
「はぁーい」
ユイマの返事も軽やかだ。
テアノが、ユイマの側にやって来た。小太り気味のの身体には、長い丈の上着にズボンといういでたちの民族衣装を身に着けている。黒っぽい灰色の生地に、胸と袖には暖色系の刺繍がカラフルに縫い込まれ、褐色の髪はスカーフに覆われている。
ユイマの側までやって来た彼女の呼吸は、少し乱れていた。
「ユイマは本当にここが好きね。この丘の上で毎日、海を眺めているわね」
彼女はユイマの側に腰を降ろすと、彼と同じ方向を向いた。ユイマが首を巡らすと、満面に善意に溢れた、横顔があった。
テアノが海と言ったように、カスピ海は陸封されているが、確かに文字通り、湖ではなく海であった。ユイマは時間が取れれば必ず、低い樹木が影を作っているこの丘に来るのを日課としていた。
カラボガズゴル湾の水は淡く、キラキラと眩いばかりに光っていた。
「ここから見える光景は、本当に素敵ですね。僕は何時まで見ていても飽きませんよ」
「ユイマの大切な人だったという、アリウス様は貴方の年頃、毎日、地中海とやらを見ていたんですよね」
「うん、そう言っていた」
ユイマの双眸が、遠くを見つめるように細くなった。
「なんども聞きましたよ。それとサティー様という女の方のことも」
「えっ、そんなに何回も言いましたか?」
「そうですよ。最近こそ話さなくなったけれど、ここに来た当初は、うわごとのように毎日その名前を叫んでいましたよ」
ユイマの白い頬が僅かに紅くなる。
「お父さん、お母さんを始め、つらい事が多かったのね」
「そ、そんなことまで・・・・・」
「べつにいいじゃないのよ、ここには私という母親もいるんだから。それから、ソコスという父親も居るじゃないの。無骨で愛嬌はないけどね。ホホホっ・・・・・」
「確かに無骨だね、ハハハ・・・・・」
ユイマにとって、こんなに穏やかな日々は何時以来だろうか。
「おばさん、今日は食事時間が少し早いんじゃないの。まだ夕日が落ちるまでには時間があるよ」
ユイマは、この湾に沈む夕日を見るのが大好きだった。橙色に燃えさかる夕日と、影のコントラストは、彼の心に染みいった。大自然の営みに圧倒される。身につまされる、不思議な予感に、鳥肌が立ち、魅入られてしまうのだった。
「今日は、お客様があるのよ」
「お客様?」
アレスの父親、ソコスはこの地の有力者であり、人の出入りの激しい家庭であったが、テアノが、お客様と改まった言いかたをしたのは初めてであった。
「そうよ、大事なお客様。お父さんが、ぜひユイマに紹介したいらしいの」
「僕に?」
「そう、私はずっとここにいて欲しいのだけど。お父さんは、ユイマはここを出て行く者だというのよ。遙かに羽ばたいていく人間だからという理由で、今日のお客さんには、わざわざ来てもらったんじゃないかと思うほどよ」
「僕、どこかへ行きたいなんて思った事もないのに、ここへ来てしまった。自分の意志で羽ばたく日が来ることがあるのだろうか?」
「そんなに、考え込まないでいいのよ。私たちの子供として、ずーと、ここにいていいんだからね。アレスはあんな性格だから、ここには居着かないし」
テアノは、そう言うとユイマの金髪をそっとなで、頬を寄せた。上背は遙かにユイマの方が高いが、優しい包容力は彼を包んであまりあるものがあった。
三ヶ月前のことだった。ユイマは、オリオンの命令でアレスの実家に、移ることになったのだ。サティーの死に直面した彼は、茫然自失し精神に異常を来していた。オリオン一派と義弟オイクレス一派との血で血を争う混乱の中、アレスに抱えられるようにして、この地にやってきたのだ。ユイマはその間の記憶をまったく喪失しており、あとで、アレスに聞いて知ることになった。
彼は、アレスの献身的な看病と、ソコスとテアノの善意に支えられ、幾分良くなるのに一ヶ月を要した。そして、彼がかなり良くなった二ヶ月目には、やも堪らずアレスは父母にユイマを託し、オリオンと共に戦うべく、戦場に戻っていった。
ソコスの天幕は、湾より少し離れた草原にあった。十人は入れそうな天幕三つがソコスの持ち物である。その廻りには二十近くの天幕が、ソコスの天幕を囲むように点在していた。彼らはもともと遊牧の民であったが、この地に定住しつつある。
ソコス所有の三つの天幕のうち、一番大きく立派なものに、テアノはユイマを連れて行った。背の低い草が、すり切れたように生えている中に、重量感を感じさせる、灰黒色の天幕が張ってある。普段は、ここに家族が集まり過ごすことが多い。ただし、来客が会ったとき、会合の時は、この天幕が用いられている。
内部は、明るく灯明がともり、外から入ってきたユイマもすぐに目が慣れた。色とりどりのフエルトが敷き重ねられた上に、二人の男が座っていた。短く切りそろえた髪に、赤銅色の顔。背丈はないが屈強な体つきの男が、アレスの父親、ソコスである。
「おお来たか。ユイマに紹介しよう、デモレオンさんだ」
「デモレオンです」
落ち着いた声だった。黒い髭面の大男だが、褐色の優しい眼をして、ユイマを見つめている。年の頃は四十代半ば位でソコスと同年代だろう。
「ユイマです」
ユイマは、お辞儀をした。肩ほどある金髪が揺れる。
「ユイマ、立っていないで座りなさい」
ソコスは、手招きしてユイマを自分の横に座らせた。円卓には、肉料理、魚料理、果物、がテアノによって、次々と運ばれてくる。
「どうぞ、ごゆっくり。私は子ども達のところへまいりますから」
そう言うと、テアノは、馬乳酒の大きな壺をソコスに渡した。すぐ側の天幕には、十歳を頭に、四人の子ども達がいる。子供好きなテアノが、身寄りのない子供を引き取って育てているのだった。
「まずは、乾杯といこう」
ソコスは、伸び上がって、各自の前にある碗に馬乳酒を注いだ。
「デモレオンさん、長旅、お疲れ様。乾杯!」
「乾杯!」
ユイマとデモレオンが唱和した。アルコール度の低い馬乳酒は、遊牧民にとって食事の時は必ずと言っていいほど飲まれているものだ。白濁し、少し酸味のある馬乳酒は、ユイマも好きな飲み物だった。
「ソコスさん、旅は、私たちアラムの商人にとって日常のことで、疲れはありませんよ」「確かにあんたは、旅に明け暮れているな」
ソコスは、多少あきれたような顔をしながら、話しを続けた。
「今度は、どちらから回って来られたのかな?」
「バビロンにしばらく滞在し、故郷のダマスカスから、こちらにやって来ました」
「ほぉー、バビロンとな。それは、それは、大変に栄えていると、辺境の地に住む儂の耳にも届いているが」
「その通り、大変に盛んな都です。バベルの塔、空中庭園と想像することすら出来なかった建造物が次々と建ち、今が最盛期でしょうな」
「と申すには?」
「何となく、今後、衰退していく気がするのです。浮かれすぎて足に地が付いていないというか……そんな気がするのです」
デモレオンの言うとおり、この時から二十年余りで、さしもの栄華を誇った、新バビロニア帝国は、滅びてしまうのだった。キュロス大王の手によって。
「今回は、小麦を商いながらここまでやって来ました。この地で塩を積み込みバクトリアに向かいます」
デモレオンは、日焼けした髭面で胡座を組み、鷹揚に言った。
「そして、バクトリアで綿を仕入れ、ペルシスへ向かうわけか。まったく、あんたは大したもんだよ」
「いやいや、大したもんはソコスさんですよ。ここまで立派な塩田を築き上げられたのですから。今回は百頭のラクダですが、つぎに此方へ参るときは、その倍の隊商でやって来ます」
「しかし、それほど塩が回せるかな」
「なことを言わずに、どんどん作って下さい。この地の塩は、すこぶる評判が良く、いくらでも買い手はありかすから」
塩田で精製された塩の結晶は、厚い板状に固められ、縄で縛ってラクダの背中に振り分けにして運ばれていく。
「いや、これ以上は塩田を増やしたくはない。皆にもそのように指導している」
「なぜですか?」
「あんたも承知だろうが、ここから、十日ほど東に行ったところに、アラル海という塩湖がある。今は、サカ族の割拠している土地で混乱しているが、いずれ隊商も入っていくことになるだろう。いくら塩を造っても売れるという保証はない。やはりあくまで我々は、遊牧の民なんだ。そのことを肝に銘じなければ、足下を掬われることになりかねない」
ユイマの眼が輝いている。二人の話の内容は興味が尽きないものがある。彼にとって、生産、商業に関することは、未知な知識であったのだ。
|