ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第三章、平原の月と狼<2>




「我々は、交易経済に組み込まれてしまった。豊かな物資、安楽な定住生活、もう以前のような、羊と共にさすらう遊牧生活には帰れない。しかし、我々の魂は草原にこそあるのだ。現に天幕も、敷物も、衣服も、食物も、生活のほとんどが、羊に負っている」
 ソコスは、ごま塩頭を振りながら、ぼそりと話した。その声には、寂しさと、後悔の念が混じっているように見受けられる。 
「ソコスさん、あなたの仰る通りだと思います。交易経済に浮かれて没落していった民も数え切れません。貴方のような指導者がおられるこの地の民は、安心して見ておれます。それでこそ、我々も長くお付き合いできるのです」
「デモレオンさん、そんなに褒めても塩は安くならないぞ」
「いやいや、安くしてもらわねば困ります」
「ユイマ、よく気を着けるんだぞ。商人ときたらこれだからな。油断も隙もあったもんじゃない。ハッハハハ……」
「まいったな、ソコスさん、若者に妙な先入観は罪ですぞ」
「まあ、まあ呑んで下され。ユイマお前も呑めよ」
 ソコスは、そう言いながら馬乳酒を二人に注いだ。

「あんたの言われることは、ようく分かります。でも、豊かな生活を望むのは、人情として、ごく自然なことではないでしょうか」
 そう言いながら、デモレオンは馬乳酒の碗を傾けた。
「それを、否定するほど、俺は頑固者じゃない。それが証拠に、あんたとこうして、肝胆相照らしているだろ」
「全くだ。そこで一つ提案があるんですが」
「ほーっ、なんです?」
「塩田の拡張はやめにして、塩で加工品を造られたらどうでしょう」
 デモレオンは、組んだ胡座の膝に手を置き身を乗り出した。
「加工品?」
 ソコスには、すぐに飲み込めない言葉らしい。
「食品の加工をするのです。常々思っていたのですが、我々が旅立つとき、貴方は食料として、魚と肉の塩漬けを持たしてくれるではありませんか」
「ああ、保存食料か。あんなものは別に大したものじゃない」
「そんなことはない。あれは大したものです。上等な塩と、香草で処理された魚と肉は、我々、隊商がこの地に来る、楽しみの一つなんです」
「そうか、それであんなに欲しがるのか。今度からはただと言うわけにはいかないな、ハハハ……」
 ソコスは、嬉しそうに笑った。デモレオンは、微笑みながらさらに続けた。
「ハッハハハ、お支払いしますとも。その代わり欲しいだけもらいますよ」
 金属片を貨幣として使用することは、遙か古バビロニアの頃より行われていた。鋳造貨幣が出現したのは、この当時(紀元前六世紀半ば)から遡ること、百数十年前のリディアであった。その後、主としてアラム商人のよって、交換価値の裏付けとしての金貨は、オリエント世界にひろめられ、カスピ海の東岸でも売買に用いられるようになっていた。現代より遙かに交通不便な紀元前の世界にあっても、生活上、必要とされるもの伝搬は思ったより早いものである。

「ソコスさん、私は本気ですよ。造って下さい。我々が責任を持って売りますよ。いくらでも引き受けます。すでに、貴方にいただいた魚と肉は、方々で配り、反応をみています。これは、絶対いけますよ」
 デモレオンの言葉に熱が入ってきた。
「魚? あのスズキが売れるのか?」
「スズキの乾燥した塩漬けは、大好評ですよ」
「いくらでも取りほうだいな、スズキがな……」
 ソコスが戸惑うのも無理はない。ガラボガズコル湾においては、スズキの魚影は濃く、一部では、銀色の鱗によって水の色が変わるほどであった。まさに、湧いて出てくるという表現が適切な程である。
「我々、アラム商人は、物資が有り余る場所から希少な場所に、物を運びます。要望があれば、新しい産物を適した土地で栽培してもらい、不毛の地に運びます。不毛の地にも、他で求められる物が必ず在るのです。それを、我々は発見します。私たちは、物とともに、それに付随する知識をも運んでいるのです。そして、みんなが豊かになることによって、我々も潤う、これが、理想です」
 ソコスは感じ入ったように、頷いた。
「何となく、分かる気がする。あんたは、とんでもない知恵者だな」
「そんなことはありません。受け売りですよ」
 デモレオンは、髭を手で撫でると、笑いながら、心地よさそうに馬乳酒の碗を傾けた。
 ユイマは、真剣な眼つきでデモレオンの口から漏れる言葉を聞いていた。そういった考え方は、たしかに以前聞いたことがある気がしてならなかった。

「じゃ、あんたが考えた事じゃ無いのかい?」
「もちろんですよ。私は商人で賢者ではありませんから」
「いや、いや、そんなことはない。大したもんだよ。それでこそ、この少年をあんたに紹介する価値があるというもんだ」
 ソコスは、ユイマの肩を軽く叩いた。
「この少年は、ユイマという名だ。あんたに頼んで商人にしようと言うんじゃない。この子には、何かを感じる。きっと遙かに飛び立つ気がするんだ。この広い世界を知っていると言ったら、あんたのかなう者はない。きっと、この子の力になってくれるはずだ」
 ソコスは、真剣にデモレオンの眼を見て話した。ユイマの何が、ソコスをしてそこまで思いこませるのだろうか。人を惹き付けてやまない、天性のものが備わっているとでも言うのだろうか。
「ソコスさん、なるほど分かるよ……金髪に碧眼、ぬけるような白い肌、スラブ族にときおり見かけられる美形だ……しかし、それだけではないものを、間違いなく持っている」
「スラブ族?」
 ソコスには、馴染みのない言葉だった。
「ああ、遙かなアルメニアのさらに、その北方の草原に住む民族だよ。そうだよな」
 デモレオンは、ユイマを見つめた。
「そうです」
 話しは、ユイマのことになってきた。そういえば、先ほど丘の上でのテアノの言葉を思い出した。“今日のお客さんは、ユイマに紹介するためにわざわざ来てもらったとも思える”たしか、そのように言ったはずだった。

「ユイマ君、久しぶりだね」
 デモレオンは、突然そう言い放つと、意味ありげに微笑みかけた。
「えっ!」
 ユイマの口から驚きの声が漏れた。ソコスも急に首を巡らしユイマを見つめる。
「憶えていないのかい」
「えっ、ええっ……」
 ユイマの戸惑いは、ひどくなるいっぽうだ。 
「エクバタナでだったな……紅い薔薇が咲き乱れていた。春だったな……アリウス様に拝謁させて頂いたのは……あれから、何年になるかな。ユイマ君と言ったな、君も大きくなったものだ」
 デモレオンは、遠くを見つめるような眼をした。懐かしい記憶を探っているのだろう。驚いたのは、ユイマである。
「あ、アリウス様! アリウス様を、ご存じなんですか?」
「憶えているとも……。エクバタナの王宮へは何度もおじゃまをした。あの御方が、今日のアラム商人に活躍の場を与えて下さったのだ。流通、情報の自由往来こそが、民を豊かにし、文明に連帯感と秩序をもたらす。決して強権でそれを実現することは出来ないという、理想に燃えておられたんだ。“朱色の獅子”パルコス閣下に拝謁したこともある」
「そ、そんなことがあったのですか……」
 ユイマは、改めて、デモレオンという赤銅色に日焼けした、アラム商人を見つめた。
「そうだとも、そして、王宮の広場で君にあった。アリウス様と連れだって宮殿に入って行くところだった。なんでも君は……そうユイマ君は、正しいギリシャ語の勉強のために、“イリアス”の講義を受けるのだと言っていた。その時、もう一人、とても綺麗な女性がご一緒しておられましたな」
“サティーだ!”
 ユイマの記憶に、懐かしいエクバタナでの日々がよみがえってくる。人々の顔も。包容力のある巨大なパルコス閣下、優しく美しいサティー、そしてアリウス様……もう、みんな遙かな遠くへ行ってしまったのだ。

「これには、見覚えが在りますぞ!」
 そう言うと、デモレオンは手を延ばし、ユイマの首に掛かっているペンダントに軽く触った。
「これは、アリウス様の胸にいつも掛かっていた物だね?」
 デモレオンは真剣な眼でユイマを見つめた。
「そ、そうです」
「これは、琥珀といって、極めて貴重なものだよ」
「はい、そのようにアリウス様から伺っております」
「アリウス様は、あのような最期を遂げられたが、君に託しておられたんだ。あの方の願いと魂を。ソコスさん! 奇遇です、運命的なものを感じてしまいます。我々アラム商人は、全力を挙げて恩人、アリウス様の忘れ形見、ユイマ君の後ろ盾になりますよ」
 今まで、黙って二人の会話を聞いていたソコスが呟くようにいった。
「なんだか、大変なことになってきたようだ。しかし、この少年は何か尋常でないものを持っていると思って、あんたに紹介したんじゃが、そんな因縁があったとは……」
「ソコスさん、この少年を見て、たぶん私も貴方と同じようなものを感じているのだと思います。きっと、アリウス様も、そう思われたにちがいありません」
「なんか、興奮してきたな。とっておきのものを、振る舞うことにするか」
 ソコスは、ニヤリと笑って立ちあがり、隅の方に歩いた。
「ほぉ、とっておきですか。そりゃ楽しみだ」
 しばらく、ごそごそやっていたが、ソコスは小さな壺を大事そうに抱えて戻ってきた。

「これだよ」
「なんです?」
「アルヒという、酒だ」
「アルヒ?」
「聞いたことがないだろう。まあ一杯飲んでくれ。なんだか今日は嬉しくて仕方がない。ユイマ、お前も飲んでみろ」
 そう言うと、ソコスは三つの碗に、アルヒを注いだ。
「むっ、こっ、これは……」
 デモレオンは、むせて驚いたように言った。
「ハッハハハ……馬乳酒を煮て、酔いの精分を取り出したものだ。そのように流し込んだら堪ったもんじゃない。味わうように、チビリチビリと飲むんだ」
「し、しかし、これはきつい酒ですな」
「最初はそうだろうが、飲んでいるうちに、アルヒでなければ、もの足らなくなってくるから不思議だ」
「ふーん……」
 デモレオンは、考え込むように、アルヒを味わっている。
「ソコスさん、これの造り方を教えてくれませんか」
「いいとも、俺も教わったんだからな」
「誰にですか?」
「サカ族にだよ。サカ族との間にはいさかいが多いいが、いつもという訳じゃない。僅かながら交流もあるんだ。それより、お前さん、このアルヒも商おうってのか? まったく油断も隙もあったもんじゃないな。ハッハハハ……」
「まあね、人の欲しがるものなら、なんでも扱いますよ。ハッハハハ」
 二人は、少し酔いが回ってきたのかも知れない。楽しそうに歓談している。ユイマは、碗を見つめた。透明な液体が揺れている。彼は、そっと碗を顔に近づけた。経験したことのない、刺激臭が鼻腔に刺さった。少し飲み込むと、口の中が、かぁっと、燃え拡がった。

 確かに、アルヒは馬乳酒を蒸留したもでモンゴルでは普通に飲まれている酒だが、この当時、存在したという証拠は全くない。蒸留酒の起源は十世紀の錬金術師によって、偶然に造り出されたというのが定説のようであるが、反対に、絶対存在しなかったという証拠も当然ながらない。

 アルヒのせいで、顔が火照る。身体が軽くなるような気がする。決して気持ちが悪いものではない。強い酒のせいか、頭が冴えてきた気がする。
 ユイマには分からない。自分が何をしたいのか? 何が欲しいのか? 今までの日々は、ひたすら流れに翻弄されたと、言っていい運命だったような気がする。廻りが自分を放っておいてくれないのだ。
 彼は、左手で胸の琥珀のペンダントを軽く握った。その左手首には、色とりどりの、小さな蜻蛉玉の数珠が巻き付けられていた。それは、サティーの形見であった。

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