ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





第三章、平原の月と狼<4>


「ネストルの情勢判断は的確だと私も思う。今の、オリエント世界において、最も重要な人物は、アルメニア、カッパドキアを睥睨しているクレオン将軍であることは衆目が一致するところだ。兵の動員力は十五万に達するだろう。しかも、オリエント随一の精鋭軍を指揮するのが、あのクレオン将軍ならば、なおさらである。大国のメディア、リディア、新バビロニアであろうとも、兵の動員力ではクレオン将軍に勝ろうが、単独では勝てないと承知している。よって、三国は、婚姻関係を結んで、互いの利益を守ろうとしておる。かく言う我が母上、マンダネは、メディアの、キュアクサレス前王の長女だがな……そうだろう、ネストル!」
 キュロスは、ここまで言うと微笑んだ。あたかも、婚姻による結合は、いかにも危ういものかとでも言うように。
「仰せの通りであります」
 ネストルは頷く。
「皆も、良く聞いてくれ。確かに、ネストルの言うように、クレオン将軍と我がペルシャは、密かに同盟を結んでおる。そして、クレオン将軍と、ネストルは個人的な信頼関係が強固であり、将軍は私を統領として崇めようとさえされておる。何故だか分かるか」
 キュロスは、そこで言葉を切った。しばらくの沈黙の後、キュロスの意を察した、ネストルが静かに口を開いた。

「殿下、それに関しては色々分析も可能でしょうが、詰まるところ、クレオン将軍の性格に寄るところだと考えます。彼は、パルコス将軍の最も忠実な部下であり、将軍の精神を最も強く、引き継いでおります。彼の野心は、王国を築くことではございません。帝王を頭に抱き、軍事的覇権で世の中を平定することにあると言えましょう。パルコス将軍は、出自によって、キュアクサレス王を担ぎました。クレオン将軍は、自らの意思で殿下を担ごうと為されています。両将軍は、自らの役目を軍人と規定されておられます」
「ネストル、お前の申すとおりだ。クレオン将軍は自らの意思で、この私を選ぼうとしていることには違いない。そこが問題である。自らの意思で選択するならば、他のものを選ぶことも可能だ。そうではないかな、メムノン」
「さようなことは、まずございません。クレオン将軍の、殿下を頭にいただくと言う意思は堅牢だと思います。将軍の近辺にもわたくしの手の者がおり、情報は常に取っております」 
 メムノンは、自信をみなぎらせた眼で、キュロスを見つめた。
「メムノンの言うことは正しい。しかし、考えても身よ、私が現在動員できる戦力は、せいぜい五~六万人というところだろう。将軍からみれば、わずかなものだ。私は、独力でメディア王国と戦い。戦術的勝利を収めねばならない。そうであってこそ、クレオン将軍の最後の懸念を払拭できるのだ」
 そう言うと、キュロスは、わずかに視線を動かしネストルの方を向いた。
「その為には、ダハイのオリオン王の援助も仰がぬと申すのですな」
 デュマスは、こめかみに手をやり不安そうな眼をする。
「左様だ、オリオンはダハイを支配し、ヒルカニアにも勢力を伸ばしつつある。総兵力は三万人近くになるであろう。共同すれば、今回の、メディア軍の鎮圧部隊との戦いは、間違いなく勝てるだろう。しかし、同じ理由で援助は仰がぬ。デュマス、お前が心配してくれるのは嬉しいが、私は決定したのだ。私は勝つ、必ず勝ってみせる」
 キュロスは、再びネストルを見つめた。彼こそ、オリオンが師と仰ぐ人物であり、ある意味で、ネストルは、群雄割拠するこの時代において、重要な鍵を握っている人物であった。メディア王室、親衛隊の中にも彼と気脈を通ずるものも少なくはない。

「ネストル、今回のメディア鎮圧部隊はどの程度になるとお前は考えるか」
「殿下、今までの単なる鎮圧部隊と考えては不覚を取ります。おそらく十万人を越える兵力が動員されるでしょう」
「な、なんと、十万を越えるとな!」
 ディマスが驚いたのも無理はない。そもそも、鎮圧部隊という名は相応しくなく、これでは、メディア国を挙げての戦争である。
「デュマス、驚くことはない、私もそう思う。総指揮管はオロデスがやってくるに違いない」
 キュロスは、口の両端を吊り上げ、不敵に笑った。メディア王国の実質的支配者のオロデス執政官を引き出す、まさにそれこそが彼のたくらみであったのだ。
「殿下、な、何と言うことを申されますか!」
「デュマス殿、まさしく戦争です。この戦いに破れれば、ペルシャは滅亡致します。でも殿下は勝つと申されました。おそらく勝利の女神は、我が方に微笑むことでしょう」
 ネストルは穏やかな口調で淡々と話す。
「私が勝つと言えば、勝てるとでも申すのか、ネストル」
「さようでございます」
なんの拘りも見せず、爽やかにそう言うと、ネストルは発言をうながすようにメムノンを見た。
「デュマス殿、十万の軍勢が攻め寄せることはまず間違いないと、自分も存じます。リディアに潜伏中の手の者から、報告がまいっております。リディア軍はカッパドキア国境に兵を集結し、クレオン将軍を牽制しつつあります。いかに今度の戦いにメディアが力を入れているかの、証拠とも言えるでしょう。また、第二軍管区、第三軍管区に動員命令が出されたという、信頼できるべき報告も受けております」
「軍、軍が出てくると申すのか!」
 デュマスの顔は歪んだ。彼にとっては、オリエントの覇権よりもキュロスの身の上が最優先事項であるらしい。
「左様です。しかも、二つの軍団であります」
 メムノンは、平然と言い放った。

「メムノン殿、メイナー城の手配の方は如何ですかな」
 ネストルがさらりと言ってのけた。涼やかな目元に感情の変化は見られない。キュロスは、頼もしげな視線を彼に向けた。ともすれば激情に駆られることもあるキョロスにとってネストルは得難い人材だ。
 父である、先代のカンピュセス王が三顧の礼を尽くし、息子、キュロスの教育係として、エクバタナより彼を招いたのは、まさに慧眼であったと言える。
「我らが手の者が、数年がかりで工作をしてまいりました。このままメディアの属領に留まれば、いずれはすべての権限を奪われ、奴属の地位におとしめられると信じ込ませたのです。現に、それはメイナー城の、近い将来いおける結末になることは間違いはなく、その例は枚挙にいとまがありませぬ。策略の王道は、誠であります。意外に巧く行きもうした」
「ほぉ、メムノンが誠と申すか」
 キュロスは嬉しそうに微笑んだ。
「殿下、からかわれては困ります」
「いや、メムノン殿ほど誠と言う言葉が似合う御仁はおられませぬぞ。さらに、人の心を掴むのは誠以外に方法はござりませぬ」
「ほぉ、ネストルまで、私を責めるのか、ハハハハ…」
 宮殿の三階の会議室は、笑いに包まれた。デュマスだけは、額に皺を寄せ深刻な顔をしている。四月の爽やかな風が、キュロスの紅褐色の細い髪を撫でていく。ペルシャ存亡の危機にある現在、心地よい高ぶりが彼の心を包んで行くような気がした。

「メムノン、クーパェー城、アバデー城の手配も進んでいるであろうな」
「抜かりはございませぬ」
「よし、これで、メディア軍の進路がかまったわけである。この三城を落としながら、進軍せねば、彼らは背後を突かれる恐れにかられるはずだ。ネストル、メイナー城における非戦闘員の避難はうまくいっておるか」
「大丈夫でございます。明後日にも第一陣が、このパサルガダエに到着するでござりましょう」
「あいわかった。戦闘員と非戦闘員の区別を明確にしなければ、無用の悲劇が生ずることは火を見るよりも明らかなことだ。戦術的有利を保ち、一時的な勝利を収められることができても、それでは人心を掴むことは出来ない。念には念を入れて申すが、我がペルシャは民の生命、慣習には一切手を触れず、秩序をもたらすことが使命であると心得よ。それでこそオリエント一帯を支配出来るというものだ」
 後日、キュロス大王のもと、アケメネス朝ペルシャは、歴史上はじめて、古代オリエント世界を統一する大帝国を打ち立てた。その国体を、一部の歴史家は、“民主主義専制帝国”という、不思議な概念で説明するようになっていく。

 入念な打ち合わせ会議が終わったのは、日も傾き掛けた頃であった。キュロスは自室に戻ると、華奢な身体を椅子に預け、静かに眼を閉じた。足下までの長いチュニックにゆったりしたオレンジ色のカンデュスを羽織って、頭をかしげる。紅褐色の長い髪が、頬のきめ細やかな肌に掛かっている。
 さすがに、国家存亡の危機を迎えた会議であった。キュロスは珍しく心労を憶えたのかうつらうつらと、心地よい感覚に身をゆだねていた。こういう場合、興奮に身を焦がし、神経が高ぶるのが、普通の感情のはずだ。しかし、希代の英傑はどこか常人とは異なるのであろう。おそらく、このへんにも彼が、人を惹き付けてやまない魅力の一部がある。と考えるのは、穿ちすぎであろうか。
 軽く眼を閉じたキュロスの、細い身体と白い肌は、婦人のように見えるほど、たおやかに椅子に寄りかかっている。

 彼はまどろむ。少年の日々、メムノンと共に各地を旅した思い出がよみがえって来る。
リディアの都サルデス、交易の十字路スーサ、繁栄の極みとも言えるバビロン、それらが網膜の裏側にくっきり浮かんでくる。窓辺から入ってきた四月の風が、そっとキュロスの頬を撫でた。彼の鼻腔を微かに何かを感じた。あっ! 小さな呟きが、彼の紅い唇からもれる。
 ほんの僅かな薫りであった。しかし、彼は確信した。薔薇の薫りであることを。
(エクバタナ、そうだあの街だ! いまはちょうどあの街に、薔薇の花が咲き乱れる季節なんだ!)

 そのとき、ふいにキュロスの脳裏に、黒いしみのようなものが浮いてきた。何とも言えぬ苛立ちのようなものが拡がる。心に影を落としたものが神経を刺す。閉じた眼の奥に、金髪碧眼の少年の風貌が浮かんできた。ユイマであった。キュロスはこの少年を想うたびに、何とも言えぬ胸を締め付けられるような、不安に襲われるのだった。エクバタナで、二度会ったことがある。メムノンに紹介されたが、満足に言葉を交わしたこともなかった。しかし、キュロスの心をとらえて放さない何かが少年の風貌にはあった。
 キュロスは、カッと目を見開いた。瞳は紅色を強くしている。両の手の平は強く握られている。彼は、自分の感情を理解しるつもりだった。足がすくんでしまうようなこの感覚は、ユイマに対する劣等感情であるに違いないと……でも、何故に! 彼は、揺らいでしまう自分の感情が許せなかった。

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