第三章、平原の月と狼<5>
「ユイマー! ユイマーっ!」
外の陽射しは照りつけている。しかし、カスピ海の東岸に位置するダハイ城の二階には、海辺からの爽やかな空気が流れてくる。あたかも日光を避けるように。ほの暗い部屋で執務しているユイマの耳に、彼を呼ぶ声が聞こえて来た。彼が執務する部屋は、軍関係の一画に位置している。彼も一部屋を与えられるような身分になっていた。幾多の抗争の末、いまや、ダハイ地方は完全にオリオンの支配地になり、一時の平和を保っていた。
「ユイマー!」
足音も高く、階段を駆け上がりながらの大声が響いてきた。ユイマは、見つめていた書類から、ゆっくり面を上げた。サラリと肩まで伸びた金髪を、白いヘヤーバンドで額から後頭部に掛けてまとめている。碧眼が羞恥と喜びに複雑に輝いた。ユイマは十九歳の青年になっていた。
「今帰ったぞ!」
執務室の扉を乱暴に開け放つと、上背のある身体を反らし、赤銅色に日焼けした精悍な男が入ってきた。褐色の短い顎髭から満面の笑みがこぼれている。アレスであった。
ユイマは、苦笑した。今帰ったぞと言う挨拶が在るのだろうか。まるで、帰りを待ちわびている恋人に対する挨拶じゃないか、と思ったが決して不愉快ではなかった。
「お帰り」
ユイマは、椅子から優雅に立ち上がると、穏やかに返事を返した。身体に密着したチェニックの上に羽織った長いケープが下肢まで垂れている。
「おおっ!」
返事を聞くやいなや、アレスは掛け寄りってきた。両肩を逞しい手で掴み、荒々しい挨拶をする。ユイマの目の前で、精悍な戦士が嬉しそうに白い歯をむき出して、高笑いをした。二ヶ月ぶりの再会であった。
アレスの瞳が、ユイマを見つめている。明らかに言葉が発せられるのを、待って居るように思えた。
「鎮圧戦はどうだった?」
と、アレスの期待に応えるように、ユイマは話しかけた。
「ああ、もちろん巧くいったさ。しばらくは、サカ族もおとなしくしているだろう」
アレスの頬が緩み、小さい吐息の音が聞こえたような気がした。
「まあ、腰掛けなよ」
ユイマは、執務机の側にある椅子を促した。ドシンとばかりに腰を降ろし、手足を伸ばしたアレスは、革製の上下を身に着け戦場から帰ったそのままの姿だった。埃を落とす暇も惜しんで駆けつけて来たのが分かる。
平穏な日々を迎えたダハイの平原にも、時々、サカ族の侵入と略奪が行われたが、それは珍しいことではなく、ステップ平原に於いては、極めて日常的な出来事だと言える。遊牧民にとっては生活の一部なのだ。しかし、王国としてダハイの地に秩序を行き渡らせようと計る、オリオンに取っては許されることではなかった。
と同時に、軍の最高司令官で、今や王となったオリオンは、サカ族の鎮圧を、兵の訓練の良い機会だとも捉えていた。
「結構疲れたぞ。兵の錬度はなかなか良くなったがな。何と言っても、やはり騎兵は乗馬が、基本だ。集団としての騎兵の動きとなると、まだまだ不十分だ」
「カストル様から、騎兵を二つに分けたと聞いたが?」
「ああそうだ。俺は、軽騎兵の千騎を預けられている。騎兵隊の隊長は、モリオネ隊長で軽騎兵、重騎兵の合計七千騎の長だ。今回の鎮圧戦は、その編成の効果を試す良い機会だった」
モリオネは、オリオンがダハイを離れエクバタナに留学していた間、敵対する勢力から彼の意思を必死に守り続けていた若者である。その後、時が彼を育て、今やモリオネの名は、精悍な騎兵隊長として、サカ族に恐れられるほど轟いていた。
歩兵も含めた二万人の頂点に立つ将軍には、タンタロスが就任しており。もう一人のアッシリア残党であったカストルは、軍師の役割と兵站を掌握している。
いまやダハイの地は、地縁、血縁ではなく、オリオンの同士的仲間が権力を掌握していた。ユイマは、カストルの配下で、兵站、物流を担当している。
「軍隊の花形は騎兵だぞ。お前ほど、乗馬に堪能な人間は先ずいないのに、惜しいもんだ。兵站と物流何ぞを担当しているのだから」
「兵站を重要視しない軍隊は、いずれ滅びる」
笑みを浮かべながら、ユイマは言った。
「ほー、これは、これは、誰の受け売りかな?」
「カストル将軍の言葉だ」
ユイマの表情に悪びれた風は見られない。
「そうか……しかし、惜しいもんだな……でもしかたないか」
テーブルを挟んで腰掛けた二人は、向かい合って話している。ユイマは背筋を伸ばし、浅く座っている。アレスは足を投げ出し、椅子の背に寄り掛かっている。
「何がしかたないんだ?」
「剣や槍、個人格闘術も優れて、最高の軍人になれる資格をもっているが、お前は人と戦闘する気持ちに欠けている。無理もない気もするがな」
「何故そう思うんだ? 私の外見を見てそう思うのか?」
ユイマの眉間に皺が寄った。
「いや、そうじゃない。一年前まで、お前は毎日のようにうなされていた。そう、いつも死んだ人の名前を叫んでいたじゃないか。この一年は修まったようだが、無理もないよな、親しい人がみんな死んでいったんだからな……」
「うなされる?」
「そうだ、気づかなかったのか? 眠っているときは、何時もうなされて居たではないか。最近はそうでもなくなったが、一時は大きな声をあげ、名を叫んでいたぞ。隣の俺の部屋に聞こえるほどにな」
「そ、そうか……」
面と向かっては、初めて聞いた言葉であった。そうであったという自覚はユイマにもあった。そして、アレスの言うとおりだとユイマは思った。親しく、ユイマを愛してくれた人々は、みんな非業の死を遂げてしまった。いや、運命に従順だったのかも知れない。悲しみは、時がすべてを癒してくれるのだろうか。耐え難いことも、生きていく限り慣れていく。そして、強くなると同時に、感性が摩耗していく気がしてならないのだった。
「ところで、お前のところに情報は入ってないか? メディア王国が、反乱を起こしたペルシャ征服の為に大軍を集結しているという噂を聞いたが」
アレスは身を乗り出した。
「ああ、私も聞いたよ。しかし、詳しいことは知らない」
「そうか、部隊内ではその噂で持ちきりだがな……お前が知らないという事は、カストル様も知らないということか」
「多分そうだと思う。カストル様もオリオン殿下も詳しいことは知らないらしい」
「おかしいとは思わんか? ペルシャに取っては大変な危機の筈だ。我らダハイが、ヒルカニアを抜き、エクバタナに迫る行動をすれば、さしもの大国のメディアも、危ういことになろうに。しかもだ、オリオン殿下は、ペルシャのキュロス王を尊敬し、付き従うことを表明されているではないか」
オリオンが、師として薫陶を受けたネストルを通じてキュロスを知ったのは、二年前のことであった。アレスの言葉は熱を帯びてきた。ダハイ軍は、その話しで持ちきりなのはユイマも知っている。どうやら、アレスにも熱気が伝染しているらしい。
「戦略的には、まったく理解できないとカストル様も申されている。我らのみならず、カッパドキアの、クレオン将軍にも何の相談もないそうだ」
「ほー、クレオン将軍にも助けを求めないとな」
「そうだ、カストル様の話しによると、どうも、キュロス王は、独力で大国メディアと当たるそうだ」
「独力で? 十倍近い戦力差があるぞ……」
アレスは考え込んでしまった。ユイマにはよく分かる。彼は、サカ族の掃討などでは満足できず。来たるべく大会戦を望んでいるのだ。アレスは勇敢さをユイマに見せたくて堪らない様なのだ。
「私は、カストル様の指示で、アトラク河畔に物資を集結している。来るべき時にそなえて、造船の資材には特に力を入れている。あの川を渡り、ヒルカニアに攻め入るのが、オリオン殿下の長年の夢なんだ」
「それは、俺も殿下より聞いている。エクバタナからの逃避行の時、あの川を渡るときに誓ったそうだ。カストル将軍、タンタロス将軍、お前も側にいたそうではないか」
「ああ、その通りだ。そして、サティーも……」
苦難の逃避行であった。ユイマは、その時の情景が目に浮かんできた。幌を被ったに馬車の支柱を掴んだサティーが微笑んでいる。ユイマは、身体が浮遊して行く気がしてきた。彼は、視界がぼやけるのを感じた。アレスが、慌てたように身を乗り出し何かを話し出している。しかし、ユイマの耳に言葉となって入っては来ない。
「ユイマっ!」
アレスが、二の腕を掴んで揺すぶっているのに気づいた。彼の眼が困惑の表情を浮かべている。
「……ああ……」
「大丈夫か! ユイマ!」
「だ、大丈夫だ」
「まったく、お前ってやつは……」
アレスが、大きく溜息を漏らした。
「久しぶりの発作か、まったくお前と来たら……ちょっと待て。良いものを持ってくる」
そう言うと、アレスは部屋を出て行った。ユイマは、椅子の肘に手を乗せ、うつむき加減に、手の甲で頬を支えた。長い金髪がヘヤーバンドからほつれ、額にばらけているが、直す気にならない。眼の焦点は、まだ少し合っていない。
ユイマは、ゆっくり呼吸を数え始めた。その事に神経を集中する。何時の頃からか、彼は心の動揺を抑える為に、この方法を用いるようになった。
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