ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





第三章、平原の月と狼<6>


 アレスが足音を忍ばせながら、部屋に帰ってきた。小さい壺と少し大きい壺を両手に提げている。彼は、卓の上に壺をそっと置いた。ユイマの瞳を穴の開くように見つめる。アレスの深刻そうな顔をみて、ユイマが、思わず頬を緩めた瞬間。ホッとしたのかアレスは大きく吐息が漏らした。
「ユイマ、何と言ってもこれが一番だ」
 そう言うと、アレスは椅子に腰を降ろすと懐に手を入れ、ごそごそ始めた。取り出したのは、二つの陶器製のコップであった。彼はフゥーとコップに息を吹きかけると、ユイマの目の前に突きだした。
「あまり好きではないんだ」
 ユイマには、アレスが何を勧めているか分かる。
「そう言うな。これが一番効くんだから、戦場で気が動転した部下に、よく飲ませるんだ」
「私は、君の部下では無い」
「まあ、いいから飲めよ」
 そう言うと、アレスは小さい壺の蓋を取り、ユイマのコップに、半分ほど液体を注いだ。
促されるままに、ユイマはコップを口もとに持っていった。強い薫りと、刺激が鼻腔を刺す。彼は少し顔をしかめながらも、思い切って口に含んだ。
 口の中に熱風が吹き荒れる、細胞に熱がしみ込んでいく、白いユイマの頬が微かに赤みを帯びた。

「何と言っても、気付け薬にはこれが一番だ。騎兵隊でも馬の鞍に着け、これを携帯するものが多いんだぞ」
 琥珀色の液体が、ユイマの持つコップのなかで、小さく波打っている。アレスは自分のコップにも注ぐと、一気に飲み込み大きく息を吐いた。液体は、馬乳酒から蒸留した、アルヒであった。アルコール度はかなり強い。
 いまや、カラボガズゴル湾一帯は、アルヒの主要産地として知れ渡っていた。アルヒ生産の中心人物は、アレスの父、ソコスである。そして、それを各地に広めていったのは、アラム商人のデモレオンであった。
 アレスに勧められもう一口飲んだ。その時、ユイマは、むせて咳の発作を起こした。苦しい、発作は修まらない。アレスが笑いながらコップを取り上げ、背中をさする。
 発作が落ち着いたとき、アレスは空になった自分のコップに、大きな壺から別の液体を注ぐと、ユイマの手に持たせた。それは、葡萄酒であった。

「やれやれ、男はアルヒだぞ! 葡萄酒なんぞは、戦士の飲み物ではない」
「私は、戦士ではない。先ほどお主も言ったではないか、私は戦闘にむかないと」
「そう、怒るなよ。葡萄酒でも飲んで落ち着けよ」
 そう言うと、アレスはユイマから取り上げたアルヒを一気に飲み干した。ユイマは、葡萄酒を飲むと落ち着いた。彼は分かっていた。葡萄酒は単なる酒ではない。サティー、アリウスに繋がる記憶であり、彼にとっては、大切なものだったのだ。
 イオニアの海は、葡萄酒と同じような色をしていると、アリウスが言っていた。見たこともないイオニアの海が、飲むたびに眼の前に拡がっていく気がする。本当の海を知らないユイマにとっては、潮風の薫りすら感じられるような気分になる。そして、人には言えないが、身体の中心から疼くような、記憶が拡がっていく。

 今日でこそ、イスラム教の影響もあり、この地方で葡萄酒を醸造することはあまり行われていないが、紀元前の世界ではそうでは無かった。ブドウの栽培に適した地はいくらでもあり、げんに幅広く造られていた。古代において酒と言えば、やはり葡萄酒である。

「私には、やはりこちらの方が良い。ソコス様には悪いが」
 椅子に寄りかかり、ゆったりした気分でユイマが言った。
「ああ、親父のことか。あんな奴は気にすることはない」
 アレスは、皮肉そうに微笑み、アルヒを注ぎ足した。
「なぜそんな事を言うんだ? ソコス様は本当に立派な方だぞ、そして、テアノ様は本当にお優しい」
 ソコスの経済力が豊かになったせいもあり、テアノは今や、二十人に及ぶ身寄りのない子供の世話をしているのだった。
「まあ、その通りかも知れない。しかし、立派すぎて困ってしまうんだ。塩もそうだが、アルヒだって巧くやれば、巨万の富を築け、王国だって夢ではないのに。それを、みんなに教えてしまって。何時までたっても、勢力を築けやしない。いや、その気持ちが全くないんだから、どうしようもない」
「アレス、君は間違っている。ソコス様が、製法を惜しげもなくみんなに指導したおかげで、あの地の人々は裕福になり。ダハイやペルシャにおいても、皆が口に出来るようになったではないか。アルヒも塩も庶民の手に入りやすくなっているのは、ソコス様のおかげだ」
「それは、分かるが。俺は、親父のようにはなりたくない。オリオン殿下のもとで、一国を支配できる大人物になってやる。それが、俺の夢だ」
 アレスが、グイとばかりにコップを干した。その仕草に大物を気取る邪気が見え、ユイマは可笑しくなった。アレスの今の態度が身に付くまでに、あと何年を要するのだろうか?

塩や、アルヒだけではない。綿、麻から金属に至るまで、この数年で人々の暮らしは眼に見えるように豊かになって来た。民族や国境を越えた交易網が築き上げられつつある。 その担い手は、アラム商人であり、その頂点に立つ男はデモレオンであった。決して表面に出ることは無いが、デモレオンは、いまやオリエント地域一帯の物流を支配する力を持ってきている。
 パルコス、アリウスを通じて、デモレオンとユイマは不思議な縁で結ばれていた。


「おお、盛んにやっているではないか」
 大男が、いつのまにか部屋の中に入っていた。ユイマも気が付かなかった。黒い髭を蓄えた顔に、優しそうな眼がある。上背もあり、腕は太く普通の人間の足ほども有るように見える。腹部はチェニックがはち切れそうに膨らんでいる。
「カストル将軍!」
 よほど驚いたらしく、アレスは跳ね上がった。ユイマも立ち上がり会釈をした。
「なんだ、アレス、その驚きようは。何か悪い相談でもしていたのか?」
「と、とんでもありません!」
「しかし、お前は相変わらずだな。戦陣の埃も落とさず、ユイマを訪れるとはな。邪魔かもしれんが、俺も仲間に入れて貰うぞ」
「ハっ、ハイ!」
 アレスの声がうわずっている。
「どうぞ」
 ユイマが、部屋の隅から椅子を持ってきた。礼の変わりにカストルは頷くと、ギシリと椅子を鳴かせながら、大仰そうに腰を降ろした。
「なんだ、目障りだな、お前たちも座れよ」
 そう言うと、カストルは、テーブルの上の小さい壺に手を延ばし、そのままグビリと、アルヒを嚥下した。アレスは、肝を抜かれたように小さくなる。ユイマは、将軍とは毎日顔を合わせているので慣れており、アレスの恐縮した姿が笑みを誘った。
 カストルは、外見に似合わず軍師として知謀鋭く、その戦略は緻密なことで知られている。

「ユイマ、ここの処ご苦労であったな。暫くは休んで良いぞ」
 ユイマは、最近は仕事に忙殺され、この執務室で夜を明かすことも屡々であった。
「では……」
「そうだ、メディアとペルシャの戦いに我々が参加することはあり得ない。アトラク川を渡ることは今回は無い。残念だろうが、アレス!」
「ざ、残念であります! でも何れは……」
 アレスの緊張はまだ解けていない。カストルは、アレスのコップにアルヒを注ぐと、飲むように促し、自分はそのまま壺からもう一口飲み込んだ。
「ああ、近い内に渡航し、ヒルカニアに攻め入ることは間違いない。今回、ユイマが手配した物資は、そのまま役に立つだろう。舟の建造はそのまま進めよ」
「はい、承知しました」
「将軍、お聞きしてよろしいでしょうか?」
「うん、何だ、アレス」
「我々が、アトラク川を渡らないと言うことは、ペルシャは独力でメディアと戦うと言うことになるのですか?」
「そうだ、カッパドキアのクレオン将軍も動かないようだからな」
 諜報は戦略の要である。クレオンも当然ながら、各地に手下を派遣して動静を探らせている。むろん、ペルシャとて、その点は抜かりが無い。諜報を一手に取り仕切る、メムノン配下密偵もダハイで活動していることは間違いない。
 しかし、軍事目的ではないキュロス王、直属の密偵が、ユイマの動静を探っていることは、ここにいる三人はむろん、さすがのメムノンにも知らされていない。

「それでは、ペルシャは圧倒的に不利では、ありませんか?」
「かも知れん。しかし、あのキュロス王のことだ、勝算のない戦いをするはずがない。何か策が有ると俺は見ている」
 期待を込めるように、カストルは言った。
「どのような、策が考えられるのでしょうか」
 圧倒的に不利に見える状態での策。それは、ユイマの強い興味を引いた。
「グライコスという老人がいる。今日ではその名を知るものは、あまり居ないが、アッシリア帝国の伝説の軍師だ。それに、オリオン殿下の師であるネストル将軍も居るではないか、きっと何か勝算が有るはずだ。それに……」
「それに、何でしょう?」
「確認は取れていないが、アラム商人のデモレオンが、ペルシャを支援するという情報がある」
「デモレオン様が……」
「そうだ」
 交易、物流に巨大な力を持つ商人の動向が、戦の勝敗に絡んで来るのだろうか? ユイマは、カストルの下で軍事兵站を担当しており有る程度の理解は出来た。しかし、アレスは怪訝そうな顔をしている。彼は、戦場の指揮官として働いており、無理もないとユイマは思った。
 メディアとペルシャの戦闘。歴史はいま、このオリエント世界に、何かを起こそうとしていたのだった。
 風雲は、まさに急を告げようとしている。

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