第三章、平原の月と狼<7>
ザクロス山脈の東側一帯には、山脈に沿うように、広大な乾燥平原が続いている。標高四千メートルを超える山塊からの雪解け水は、地下水脈となり、数百年後に伏流となって地表に出で、大地を潤す。いわゆる、オアシスである。
オアシス都市、アバディーから、ペルシャの首都パサルガダエを越えて流れる大河がある。名をナムダ川という。万年雪の氷山からの伏流水であるナムダ川は、湖を造ることもなく、また、海に注ぐこともなく、最後は砂漠に消えていく。ナムダ川は、乾燥平原に恵みをもたらし、交易にも貴重なルートを提供していた。
ナムダ川河畔に、数百の幕舎が建設され、日暮れまでは人の出入りが途切れることは無い。兵の訓練は苛烈を極めた。
しかし、今は静まりかえって、平原を渡る風が草を撫でる音まで聞こえる。暗い平原に、幕舎から漏れる光が、夜空の星雲を映したように散らばっている。ペルシャ軍の幕舎だった。一万人を越える兵士が眠りに着こうとしている光景である。
高台の岩の上に一人の戦士の、黒い影が見える。影は馬上で彫像のように動かない。月が出ている。青白い月光が、騎乗の戦士の横顔を映し出す。キュロス王であった。彼の赤みを帯びた褐色の瞳は、満月を見上げ視線を動かそうとはしない。馬も又、首をうなだれたまま、微動だにしない。
馬上のキュロスは、青いチェニックを身に着け、腰のあたりを黄色い帯で締めている。青いズボンに編み上げの長靴。兜も青い。戦闘態勢の出で立ちであった。月を見つめる瞳は、血に飢えた猛獣の、狂気の影が差しているようにも思える。彼は、狼になっているのかも知れない。
「おお、来ていたかネストル」
キュロスが幕舎に戻った時、ネストルとメムノンが話し込んでいた。フェルトを敷きつめられた室内は、灯明の光で影が揺れている。キョロスは兜を脱ぐと、自分の場所に腰を降ろした。ケペウスとコカロスの両雄も隅に控えている。
「殿下、さきほど戻ってまいりました」
褐色の瞳に涼やかな眼差し、いつものネストルである。穏やかに佇む美丈夫は、静かにグラスの葡萄酒に口を付けた。
「どうだ、騎兵の訓練は」
「はい、順調であります」
ネストルは、グラスを顔の位置までかざした。メムノンと、隅に控えた、ケペウスとコカロスの三人は、コップでアルヒを飲んでいる。
「何と言っても、今回の戦場の死命を決するのは、ネストル配下の騎兵部隊だからな」
「いや、殿下、それは違います。要は殿下の歩兵部隊です」
「ほお、そうなるのかな?」
「からかわれては困ります。恐らく敵は、殿下の部隊に殺到するでしょう。いや、して貰わねば困ります」
「私は、囮であるか」
「さようでございます」
ネストルが、意味ありげに微笑みながら続けた。
「戦力的に圧倒的に不利な我が軍にとって、最大の武器は、戦場を選択できるということであります。彼等の戦争目的は、領土を得ることではなく、ペルシャ軍を壊滅する、鎮圧戦なのです。我らが集結した戦場に、メディア軍は来ざるを得ないのです」
「そして、ネストル殿の策略に陥るという……」
メムノンが、右頬の傷を引きつらせるように笑った。
「私の策略ではございませぬ。グライコス様の計略です」
むろん、グライコスは、いつものように市中の民家に隠遁したままである。ディマスも又、老齢で城に残るよう、キュロスに言い渡されていた。
「メムノン殿も今回の戦いでは、ペルシャ歩兵の主力を指揮して頂かねばなりませぬ。ご不満はございませぬでしょうな」
ネストルは、からかうように声を掛けた。
「あるものか。謀略よりも俺には、戦場の指揮官があっている。なのに、殿下と来たら」
「不満でもあるのか?」
キュロスが悪戯っぽい眼をした。
「不満という訳では無いのですが」
「私は、その人間を最も有効に使うことを常に考えている。いや、それしか考えていないと言っても良いほどだ。かの、パルコス将軍も認めた勇者を、今回は司令官に使うことにしたのだ」
「パルコス将軍が認めた?」
メムノンには、思い当たる節がない。少なくとも、自分と将軍が出会ったことは報告したが、一触即発の事態になったことを、キュロスは知らないはずある。
「隠さずとも良い。リディアの都、サルデスでの街角のことだ」
メムノンは、口を開き、手に持ったコップを取り落としそうになった。パルコス将軍がアッシリア帝国を滅ぼした後、将軍の動静を探っていたのが、メムノンであった。サルデスの街角で将軍に咎められたこともかつて有ったことだが、その時にも、キュロスのもう一つの眼が、その光景を捉えていたのだ。
キュロスは、メムノンが驚く様が面白いらしく、微かに笑い声をあげた。
「殿下、グライコス様も申されましたが、計略とは言いながら、これは賭です。倍する敵兵を壊滅するには、これより方法がないのです」
「ネストル、思うところを言ってみよ。我らが勝利を収めるのは、薄氷を踏むが如しと言いたいのであろうが」
「左様です。九死に一生を得る覚悟が必要です」
「要は、この場におる五人の内、四人までは死ぬ覚悟がいると言うことだな」
「それは、負けた場合です。少なくとも三人が生き残らねば、勝利とは言えますまい」
「おい、ケペウス、コカロス。我々三人の内、二人が死ねば良いんだから造作もないな」
メムノンが、笑いながら隅に控える二人に声を掛けた。
「造作もないことであります」
ケペウスが言葉を返す。コカロスは黙って頷いた。
「メムノン、そうとは限らぬであろう」
「殿下は、そのように申されますが、殿下と、ネストル殿が命を落とし、我ら三人が生き残れば、ペルシャはどうしようもなくなります。それは、負けたことになります」
「メムノン殿、それは困った事です。殿下と私が、今回の戦いでは一番危険な場所を受けもつのですが」
ネストルが苦笑する。
「結構、結構、我ら二人が勝てばそれでよし。負けるもそれでよしとでも、思っておるのであろうが」
キュロスは、ここにいる者と話すと気分が落ち着くのだ。思わず仲間言葉で饒舌になっているのを感ずる。思考の波長が合うのかも知れない。
「左様です。二人が倒れるようなことが有りますれば、何れにせよペルシャは終わりであります」
メムノンが真剣な顔で見つめる。
「ペルシャが終わりとな…そして、我らも又、終わる。確かにそれも一考かも知れぬ。悠久な時の流れの中では、どうと言うこともあるまい。しかし、歴史がそれを許さないだろう。オリエントを統一するのは、どう見ても私しか居らぬようだ。望んだわけでは無いが、それが私の宿命である。よって、困難な闘いに、我らは必ず勝利するであろう」
人はアルヒに酔う。しかし、キュロスは酒を飲まない。その場の雰囲気と、自らの想像に酔う。今夜の彼は、やけに饒舌である。あるいは月光に酔ったのかも知れない。
夜は、更けてきた。外気は昼間の灼熱が嘘のように、氷点下に凍える。しかし、キュロスの幕舎から漏れる光が消えることはない。膨大な闇の中に暖かそうな光を微かに放っている。
十万を越える人間の生死と、オリエント世界の明日を賭けた決戦は、程なく始まるはずである。一帯は、血潮に染まることであろう。阿鼻叫喚に満ちるであろう平原、今は、あくまでも静かだ。
岩が割れる音がした。珍しいことでは無い。昼夜の寒暖の差に耐えられず、砕けているのだろう。そうして、砂漠が形成されていく。
遠くから狼の遠吠えが聞こえてくる。
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