ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





第三章、平原の月と狼<8>


 ペルシャ高原に、砂煙が濛々と舞いあがり、拡散する。砂煙は、強風に煽られ空を、覆い尽くしていく。メディア王国が成立以来、幹線道路の整備は進んでいたが、何しろ、兵馬を合わせ、十五万に及ぶ軍隊が移動しているのである。軍隊の通ったあとには、道路の痕跡も見えなくなる。進軍する大兵団は、メディアの第三軍と第四軍の一部を加えた大部隊である。
 今回の戦陣における最高指揮官は、オロデスであった。彼にとって今回の戦は必ず勝利しなければならないものであった。いや、負けるはずのない戦である。相手は、新興の小国ペルシャである。総兵力は4,5万という報告をオロデスは受けていた。
 オロデスの本隊の他に別働隊として、ナマク湖からカビール砂漠を掠め、第二軍の十万の兵力が、直接パサルガダエを攻撃する手筈になっている。第二軍の司令官は、パリス将軍である。将軍の父親は、建国の英雄の一人、今は亡きウラノス将軍その人であった。

 アッシリア帝国を滅ぼし、大国メディア王国の礎を築いた英雄も今では殆ど死去している。
キャアクサレス王と五人の執政官の内、健在なのは、オロデスだけであった。権力に対する野望が最も強い男が生き残ったのである。今や、彼に対抗する勢力はメディア宮廷には殆ど無い。キュアクサレス王の後を継いだ、嫡男、アステュアゲス王は、オロデスの甥であり、今は精神に異常を来し宮廷の奥に軟禁されている。マゴイの集団に取り巻かれ、麻薬と享楽の日々を送っているとの噂も密かにささやかれていた。オロデスには、血統、地位、権勢、あらゆる面で彼に対抗する者はいない。すべてを掌握した彼は、思いのままにメディア王国の政治を動かしている。

 彼にとっての対抗勢力は、辺境のアルメニア、カッパドキアに盤踞する、第一軍のクレオン将軍のみであった。朱の獅子パルコスの伝説を受け継ぐ、クレオン将軍はオロデスにとって最大障害であったが、単独で打ち破る自信は彼にはない。リディア王国と同盟を結び牽制をしている状態が続いている。
 今回の、ペルシャ征伐は、オロデスにとって来たるべくクレオンとの戦いの前哨戦であった。それだけに決して負けることの許されぬ戦争である。彼は、一匹のカモシカを捕らえるのにライオンの集団をもって当たろうとしているほどの総動員令を、メディア国の軍隊に下したのだった。

 騎兵の大部隊が、砂塵をあげて先頭を行く。パルコス将軍の遺産を継ぐ、オリエント世界で名をはす二万を超える騎兵団である。軽装歩兵がその後に続き、その後は戦車部隊となる。エジプト式の二頭立ての戦車の後には、四頭立てのアッシリア式の戦車である。さらに歩兵、工兵、兵站部隊となる。
 四頭立ての戦車の集団の中に、オロデスはいる。彼は今回の作戦には、自ら直接出陣する決断をした。オロデスが戦場に身を置くのは極めて異例であり、初めてと言ってよいほどである。それほどの意気込みで、彼は鎮圧部隊に加わっている。そう、いかに大動員が成されようと、これはあくまで鎮圧戦であり、対等の戦争とは見なしていない。
 ひときわ巨大な六頭立てのオロデスの戦車は、羊革の天蓋に覆われ、四周は煌びやかな絨毯で囲まれていた。

 軍隊の移動に逆らうように、逆送する騎兵がいた。オロデスの戦車に、その一騎が駆け寄り、大声をあげた。
「閣下、レムルスにござります!」
 精悍な軍人であった、革製の甲冑から逞しい肉体が想像できる。黒い髪に黒い髭、端正な顔立ちにきつい目つきをしている。何処かに、オロデスを彷彿させるものがあった。
「おお、レムルスか!」
 張りのある声が、戦車の中から響いた。オロデスの声である。しかし、彼は顔を出さない。
「先頭は、メイナー城に着いたとの伝令が参りました。予定通りであります!」
「よし、分かった。作戦通りに展開せよ!」
「承知!」
 レムルスと呼ばれた男は、オロデスと顔を会わせることなく、馬に鞭を入れ駆け去った。この男こそ、三十歳という若さで、第三軍の頂点に上り詰めた、オロデスの甥、レムルス将軍であった。出自だけではなく、軍隊の指揮、統率に関しては非凡なものを持っている。
 そのまま、レムルスは第四軍の集団に向かって駈け出した。

 数刻の後である。岩山が連なる一帯にレムルス将軍は、馬を下り断崖から眼下を見下ろしていた。メイナー城はザインデ川の上流に位置し、城内に川は流れ込んでいる。この川も又、ナムダ川と同じく、砂漠の彼方に消えていく。レムルス将軍の立つ位置はメイナー城を見下ろす地点であった。
「将軍、歩兵の配置は終わりました。今やメイナーは蟻のはい出る隙もないほどに包囲致しました」
 第三軍の幹部が、レムルスに進言した。この男は、現在の軍隊で言えば現地軍の参謀という役どころであろう。
「城内の兵はいかほどか」
「はっ、密偵の報告によりますと三千人ほどであります」
「住民はどうなっておる」
「非戦闘員の存在は認められません」
「ふーむ」
 そう言うとレムルスは、顎髭を撫でながら岩山越しに、城を見つめた。彼の背後の平原では、休むことなく第三軍の本隊が進軍を続けていた。砂塵をあげながら進軍する兵団は、途切れることが無く彼方まで続いている。城を囲む包囲陣の兵士は、第四軍から調達された者であり、一万人の体勢であった。これは、最初からの計画通りである。この後に続く、クーパエ城、アバデー城の包囲も第四軍の兵士を持って当てる計画になっている。
 城の包囲には、城内の兵士の三倍の兵力を備える必要があり、今回の作戦に参加した第四軍の一部、五万人の兵士がその任務を帯びている。

「将軍、何故城を攻めぬのです。三万の兵を持ってすれば、容易に城を落とすことも可能です。初戦に勝利すれば、志気も上がろうと思われますが」
「お主の言うとおり、城を落とすことは三万の兵で可能であろう。しかし、攻城における兵力の消耗は、守備隊の二倍は必要とされる。その為にこそ、ネストル将軍は、戦闘員のみを残し干城の作戦をとったのだ。城内は決死の兵で満ちている。その策に乗るわけにはいかぬ」
 城とは言いながら、それは日本における城とは全く概念を異にする。小さな支城と言えども、高い城壁を持った一つの都市である。略奪、侵略が日常茶飯事のステップ平原にあっては、都市全体を城壁で囲む必要がある。城内には商人、職人はおろか農民、牧畜民すら生活をしており、自給体制が整っている。その城を落とすのは容易なことではない。

「ネストル…あの、ネストル将軍でありますか」
 幹部の声には、畏敬の念が込められていた。
「そうだ、我々が戦う相手は、あのネストル将軍なのだ。軍人として、自分の目標であった人物である。しかし、自分は今回の戦闘で将軍を打ち破らねばならない」
 レムルスの瞳に決断の強い意志が現れている。
「ネストル将軍は何故、あのような小国でメディア王国に立ち向かおうと思われたのでしょうか?」
「それは、解らぬ。ただ、敵は小なりと言えどもあなどることは出来ない。そう心得よ」
「はっ、肝に銘じます」
 側近は、膝を着き頭を垂れた。
 
「我々は、第二軍と協力し、二十万の大軍で一挙にパサルガダエを抜く。戦術の入り込む隙がない、圧倒的な兵力でもみ潰すという正攻法を取るのだ。第二軍の司令官には、パリス将軍が復帰された。不安な材料は一つもない」
 レムルスが、パリスという名前を発した言葉には、明らかに尊敬の気持ちが込められていた。
「では、支城は捨て置き、主戦場で勝利を得た後に攻略することになるのでございますな」「最悪の場合はそうなるであろう」
「と申しますと?」
「このような大戦に於いて、城に籠もると言うことは、周囲に援軍の見込みがあるからこそ採用出来る戦術である。包囲された城だけでは、自滅を待つばかりである」
「では、降伏ということになるのでござりますのか」
「そうだ、無血開城になろう」
 話している間にも、レムルスの眼下では、工兵隊が見る見る塁を築き始めた。長期戦になるべく備えの為である。

 レムルスの軍事能力は、衆目の認めるところであった。それでこそ、オロデスも彼に軍を任せることが出来たのである。
 しかし、何と言ってもまだ彼は若い。戦略思想に於いては、ネストルに遙かに及ばない。メディア王国にとって、メイナー城は、ペルシャに対する最前線の押さえであった筈である。しかるに、メイナーは小国ペルシャに寝返り、住民に城を放棄するまでの決断をさせたのだ、その戦略には思いが至らない。正攻法で踏みつぶすと言う言葉に油断は無いのだろうか。
 オロデスは、軍の最高司令官の地位にあるが、彼の得意とする分野は、内政と財政である。軍略は不得手と言うよりも、経験が少ないのだ。しかし、彼はそのことを認めようとはしない。卓越した頭脳を持つ彼は、戦術の裏表をすべて理解していると自負していた。
この思い込みが結果的に彼を破滅に追いやることになるのだが、その事態はもうすぐにも現出する事になる。

 一方、別働隊の第二軍、十万余の兵を指揮して、カビール砂漠を掠め、パサルガダエを攻めるべく進軍をして居るであろうパリス将軍は、歴戦の勇者であった。
 彼はパルコスも信頼する、実直な軍人であったウラノス将軍の嫡男らしく、毅然とした性格は、兵の信頼するところ大である。パルコスの再来とまで喧伝され、オロデスの嫉妬をかうこともあり閑職に追いやられた事もあった。だが、メディア王国にとっては、クレオン将軍が去った後、外すことの出来ぬ存在であり、今回の出兵につき、改めて軍司令官に任命されたのだった。
 パリスは、拘ることなく任務をまっとうするであろう。そういう性格の軍人であった。しかし、彼も又、戦略、謀略には気質的に向いているとは言えない。

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