第三章、平原の月と狼<9>
「殿下、メディア軍が遂にメイナーを包囲しました。しかし、攻城の動きは全く見せておりません。城を取り囲んだまま、防塁を築いております」
報告をしたのはメムノンだった。ナムダ川河畔の台地には、ペルシャ軍が集結している。首都パサルガダエからは、半刻も離れていない地点である。総人員は六万近くになろう。首都防衛の五千人を残し、すべての軍がこの地に集結していた。
台地には無数の幕舎が群れている。その中で目立たないながらも、少し大きめのキュロスの幕舎には、主だった人間が集まって、会議を行っていた。作戦会議と言えるほどに精密な議論とは言えない。本来の作戦は練りに練って、すでに皆の周知のことになっていたのだ。
「オロデスもなかなかやるではないか、賢明な判断と言えよう。攻城してくれれば、これに越したことはないが、そうは巧くいくまい」
キュロスは穏やかにそう言った。国家の存亡を賭けた戦闘が数日後には始まるのだ、高ぶる気持ちを制御しているのだろう。しかし、外見からは緊張感は窺えない。
「と言うことは、クーパエ城、アバディー城についても、同じようにメディア軍は、包囲したままでこの平原にやってくると考えられます」
ネストルであった。端正な顔立ちで厳しい目つきをしている。
「ネストル殿、では第一の作戦案は…」
「さよう、メムノン殿、中止であります。もっとも当然予測されたことでした。しかし、メディア軍も、三つの城を抑えるのは、四万の軍勢を必要とするでしょう。いよいよこの地での決戦となります」
「しかり、それでなくては面白くない」
「殿下、何と言うことを申されるのです。『面白くない』などと、不謹慎でござるぞ!」
デュマスであった。白髪の頭髪を後ろで束ね、これまた白髪交じりの顎髭を無造作に伸ばしている。キュロスの制するのを聞かず、この戦場に押しかけてきたのだ。彼は、ここを自分の死に場所と心得ているらしい。この場に揃う全員がデュマスの心情を理解していた。
「すまぬ。お主の言うとおりだ」
「おや、これはまた、自棄に素直でござりますな」
デュマスは口を開けて、呆れたとでも言わんばかりの顔をした。老いた彼の、前歯の一部は抜け落ちていた。
「さすがに殿下は、落ち着いておられる。自分は武者震いが止まらないというのに」
メムノンは、胡座を組んでいた膝をずらした。
「落ち着いているのではない。開き直っておるのだ。この一年間、このたびの戦いのことだけを考えた。ここにいる全員が脳髄を絞り尽くした。そして最終的に到達した結論、これ以外に策はない」
キュロスは、自分に言い聞かすように言った。
「早いもので、殿下にお仕えして二十年近くになり申す。二人で、時には、デュマス殿もまじえ三人で各地を放浪したものです。思い起こせば楽しい日々でした。ネストル殿との初めての出会いもずいぶん前の話しになるな…」
メムノンは、視線をゆっくりネストルに移した。この男もまた、此処を死に場所と決意している様だった。
「さよう、アッシリア帝国がまだ健在な時でした。私も若かった」
ネストルの眼は遠くを見つめているようだ。
「パルコス将軍配下の、凛々しい若武者でござったぞ。その紅い兜は…」
「パルコス将軍に許された、朱の兜でござる。まさか、私がこの兜を被り、メディア王国と戦うことになろうとは、思いもよらなかったことです。情報によれば、別ルートからパサルガダエに迫っているメディアの第二軍は、パリス将軍が率いているそうです。彼も又、朱の兜を許された者です」
「では、戦場で朱の兜どうしが相まみえることに?」
「確実にそうなります。彼は私と同様、朱の兜を被って戦場に立つ筈です。これが、我々の定めなのでしょう」
ネストルにとって、今回の戦は格別な思い入れがあった。彼は、メディア王国の貴族の家に生まれ、伝説の英雄パルコス将軍のもとに副官として仕えた。本来、彼はメディア王国の支柱になるべき人物だったのだ。格別な思いが去来するのは、無理はない。
「ネストル、そちはメディア王国と戦う定めだったのだな…」
キュロスが、あたかもネストルの心の内を見抜いたように呟いた。しかし、キュロスの呟きがネストルに届いたかどうかは分からない。
すべての発端は、キュロスの父、カンピュセス王の懇願に、メディア王、キュアクサレスが、キュロス王子の教育係としてネストルを派遣したことに始まる。
その後の、メディア王国の内紛により、オロデスを除いた執政官が全員世を去ったことにより、彼とメディアを結びつける絆は断たれたのだった。
ネストルの師であるアリウス執政官は、異境の地で、異邦人としてその生涯を閉じた。内政、政治思想、学術とアリウスの影響は、パサルガダエの地に、ギリシャ風文化として花開いている。それを招来したのはネストルと、妻のヤクシーであった。
さらに、彼はアリウスの目指した、オリエント世界の平和と発展という切実な願いを達成する希望を、キュロスという英雄に託している。
メムノンは、自らの出自を知らない。父母の記憶すらない。途切れ途切れに、飢えて足を引きずりながら放浪していた記憶がある。記憶が線となって繋がる年の頃には彼は、ペルシャ、当時のパルサ軍の小間使いとして働いていた。おそらく軍人の誰かに拾われたのだろう。
以来、並はずれた脚力と、闘争心によって頭角を顕していた彼を、誰かがキュロス王子の護衛として抜粋したのだ。長ずるに及んで、メムノンの内にある諜報の指導者としての才能を、キュロスに認められ今日に至っている。
揺れる灯明が部屋の中を照らす。隅の方からぎらついた視線が刺すように空間を貫く。今や弾けんとばかりに多くの眼が光を放っている。幕舎の中には、十人近くの軍人が控えていた。彼等もそれぞれ隊を率いる指揮官であったが、殆ど発言することなく、黙したまま、キョロスを筆頭とした最高幹部の発言を、一言も聞き漏らすまいと息をこらしていた。
この場に控える者のなかに、当然、ケペウス、コカロスの二人の顔があった。彼等も出自は、メムノンと全く同じで、軍隊に拾われた孤児ある。
二人は兄弟ではないかという者もいる。ケペウスは沈着、コカロスは直情と、性格は異なるのだが、どこか共通点が有るように見えるのだ。しかし、本当に兄弟なのかどうかは、彼等にも確認の仕様がない。
彼等がメムノンを、兄のように慕うのは自然の成り行きとして理解できるのだが、どういう訳か、出自の全く異なるネストルと、この三人の気持ちは通じ合っているのだ。ネストルを崇めるようにも見えるほどであった。
「明日にも、メディア軍の先鋒隊が到着するであろう。二、三日後に戦端が開かれると考えよ。今宵の会議は最後のものとなる。ネストル将軍が説明を行う。各自一言も聞き漏らすではないぞ」
キュロスは、席を立ち一座の者を睥睨すると言い放った。促されたネストルは、キュロスの指示に従い立ち上がると、幕舎の中を見渡した。精悍な瞳が光を放っている。臆する者は一人もいないようだ。
彼は、パピルスの巻き紙を取り出すと、静かに声を放ち始めた。あたりはシンとして、物音一つ立てずに聞き入る。
「最後に軍の編成をもう一度申す。全体を把握したうえで、自分の任務をまっとうして欲しいからである。命令を墨守するのは、兵士の役目である。しかし、この場に集う指揮官は、状況判断をして、部下を死地に追いやらねばならぬ時が必ず訪れる。我が軍全体に対し、想像力を働かせよ。覚悟を決めよ」
語尾は、ネストルには珍しくきつい言葉になった。そして、彼は続ける。
「軍は大きく三つの連隊に分け、指揮官の名前を隊名とする。キュロス連隊、一万五千人は中央に布陣。メムノン連隊一万五千人は、北部を受け持つ。ネストル連隊二万五千は南部を受け持つ。予備隊としてケペウス大隊五千は、ナムダ河畔の北部の岩山に身を潜めよ。その他にライオネスを指揮官とする、伝令隊を組織する。人員は百五十人をもって当てる。その中には太鼓隊の五十人も含める。ライオネス!」
ネストルが呼んだ。
「ハッ!」
三十前の若者が立ち上がり不動の姿勢を取った。いかにも騎馬に適しているように見える長い手足が、緊張で震えている。若くして抜粋され、重大な任務を与えられた興奮からであろうか。
「そちの役割は極めて重要である。我がペルシャ軍の死命は、その双肩に掛かっていると承知せよ」
「ハッ、承知であります。身命に賭けましても、まっとう致します」
ネストルとライオネスは、見つめ合った。ライオネスは、自分の使命がいかに重要かネストルに懇々と説明されていた。
伝令隊は全員騎乗のうえ、情報を携え戦場を駆けねばならない。緊密な情勢判断こそ、寡兵による戦いを維持する最重要事項だとネストルは考えていた。また、攻撃、防御、転戦、軍の動きはすべて太鼓にて指示すべく猛訓練も重ねていたのだ。
ネストル連隊のみ二万五千人を擁すること、ケペウス予備隊の創設、それらを含め、すべてはアッシリア伝説の軍師グライコスとネストルの練りに練った作戦であった。
予備隊という概念は、この戦場で歴史上はじめて出現することになる。
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