ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





第三章、平原の月と狼<10>


  戦争は、当然のことながら戦闘員のみで遂行できるものではない。それを支える国力が勝敗を決すると言っても過言ではないだろう。メディア王国は四十万の兵士を動員できる経済力があり、ペルシャ王国は十万人の動員力しか無いのは厳然たる事実であった。
 オロデスは、このたびの鎮圧戦に二十五万人を動員した。途中、城の包囲に人員を割いたものの、決戦の場、ナムダ川河畔に二十万人を集結できる。一方のキュロスは、守城に人員を割かねばならず、最大限集めて兵力は六万人であった。
 いかに、生存を賭けた必死の軍隊と、鎮圧戦であるという戦意に差があろうとも、この数字は絶望を意味している。
 キュロスとネストルは、いかにすれば、この戦いを勝利に導くことが出来ると考えているのだろうか。

 デモレオンは、この時期忙殺を極めていた。この一年間というもの、彼は隊商を率いて各地を転々とすることをやめ、ペルシャの首都パサルガダエから動いていない。
 彼は、ペルシャのキュロス王を後援する決断をくだし、アラム商人の首領としての職務に没頭していた。これは、リスクの極めて大きい賭であった。しかし、デモレオン、いやアラム商人の組織は、キュロスに自分たちの未来を託したのだった。
 後年、アケメネス朝ペルシャ帝国がオリエント地域一帯を支配するにいたった。その際、帝国内の公用語は、ペルシャ語とアラム語とされた。帝国内の物資の流通は、アラム商人の組織が支配することになって行った。それらの大部分が、今回の戦における、デモレオンの決断によると言っても過言ではないだろう。

 デモレオンは、王宮には居住せずに、パサルガダエ城内の民家にアラム商人の司令部を置いた。彼は、動きを悟られないよう、極秘の内にオリエント世界一帯から情報を集め、指令を出した。彼の行動を知るものは、ペルシャ内に於いても、キュロス、ネストル他数名の幹部に限られていた。
「おお、最後の弓矢が到着したのか!」
 デモレオンは、褐色の瞳を輝かせて微笑んだ。この温厚な男が、今や歴史を変える地点に立っているのだ。
「はい、ただいま、スーサからの荷が届きました。メディア王国の眼を盗みながらの陸路は、想像以上の苦労でした」
 数百頭のロバとラクダからなる、隊商を率いてきた隊長は、旅の汚れを落とすまもなく、デモレオンに報告すべく参上したのだった。
 オリエント一帯から、物資は集められたが、その最大のものは、繁栄をほこる、新バビロニア帝国内で製造、集荷され商都スーサを経て送り込まれたものであった。

「よし、これで揃った。よくやったぞ、我々の出来るのは此処までだ。後は軍人さんの役目だ。急ぎの長旅は大変だっただろう。ゆっくり休みを取りなさい」
「はい、そうさせて頂きます。なにせ、この二昼夜というもの、誰も満足に寝ておりませんので」
 デモレオンが、このたびの戦争の為に集めた弓矢の本数だけで百万本を超えていた。それだけではない、彼が行った最大の功績は、実にメディア軍が物資の調達するのを妨害することであったのだ。
 妨害活動は多岐にわたり、オロデスを悩ませた。結果的に、ペルシャ鎮圧部隊の出撃を六ヶ月間遅らせるほどであった。
 デモレオンはその間、物資を集めることに邁進した。彼は、アラム商人組織をあげて、メディア王国と戦争をしていたのだった。しかも、彼のこの壮絶な戦いの実態を知るものは殆どいない。
 報告に訪れた者が去った後、彼は崩れるようにその場に倒れ、微かな寝息を立て始めた。
寝顔は、仕事をやり遂げた満足感か、穏やかに微笑んでいた。彼は、この一週間、殆ど寝ていなかったのだ。
 
 デモレオンが、倒れ込むように寝ている床の上には、大きな地図が広げられていた。エジプトまでも含めた、オリエント一帯を顕した、布製の地図であった。地図には、白いところが見えなくなるほどに、無数の線や印が記入されている。その一本の線、一つの印に深い意味があり、精神を集中して対策を考え記入したのであろう。しかし、彼以外にその意味を知るものは居ない。



 ナムダ河畔に集結するペルシャ軍には、すべての準備が整い、メディア軍の来襲を待つばかりになっていた。
 戦場の決定権はペルシャにあった。首都パサルガダエに籠城すれば、メディア軍は、攻城に一年間を費やし、多大な損害を受けるであろう。しかし、それでは最良の結果が、メディア軍の撤退であり、勝利する確率はゼロである。
 このたびの戦に勝利するには、ペルシャ軍にとって、平原での一大決戦を必要とした。それは、メディア軍にとっても望むところであったのだ。三倍以上の兵力を擁する側が敗戦することは、まず考えられないことであった。  

 数十の太鼓が鳴り響く。伝令隊太鼓班の猛訓練は続いている。皮が破れ、血だらけになった手の平を布で縛り、取り付かれたように賢明にバチをふるう。
 いざ戦闘となった場合は、この太鼓がすべてを決する武器になることを、ペルシャ軍は承知していた。
 数百の旗が翻っている。武者が勇気を誇るように旗竿は天を突いている。来るべき戦闘の緊張感からであろうか、騎馬が砂塵をあげて駆け回る。

 メムノンは、床几に腰を降ろし、メディア軍が殺到するであろう方向を静かに見つめていた。メムノン連隊の副司令官ペレウスも黙って側に立っている。メムノンには、多少見劣りするが鍛えられた身体を持ち、黒い髪を後頭部でを束ねている。上背はメムノンより高い。外見から受ける感じでは、屈強な戦士である。しかし、冷静な性格であろうことは、その黒い瞳から感ぜられる。
 敵の攻撃を抑える、防塁はすでに完成している。騎馬兵を防ぐ為に、尖った杭が防塁の先に地面を埋め尽くすように広い範囲に立てられている。

 ペルシャ軍の布陣する場所は、河岸段丘の上である。僅かな勾配だが、敵は下から攻めねばならぬ。そうなのだ、このたびの戦いでは、メディア軍は攻撃しなければならないのだ、その為の鎮圧戦である。
 背後には、ナムダ川が流れている。逃げて身を隠すことの出来る岩山地帯ではなく、遮ることのなく拡がる平原でもない。此の地における敗北はペルシャ軍にとって全滅を意味していた。

※図参照

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