第三章、平原の月と狼<11>
「ペレウスよ、そちは確かカルマニアの出身であったな」
「メムノン将軍、左様でございます。自分はカルマニア人であります」
ペレウスは性格であろうか、外見に似合わず鄭重な話し方をする。
「カルマニアと言えば、カルマナ城か…五年前になるかな…」
日頃の、メムノンらしからぬ、弱い声であった。カルマニアと言えば、ザクロス山脈の尽きるところ、ペルシャ高原の東の端に位置している。
「いえ、四年半でございます」
「そうか、殿下がカルマナ城を陥落させて四年半か…自分は攻城戦には参加はしていないが、戦闘が終結してしばらく後に、王族の一人がペルシャ軍に入ったとは聞いている。それがお前だったんだな」
「左様です。メムノン将軍の配下になったことはございませんが、以来、ペルシャの軍人として勤めております」
「自分には、正規な軍人の部下は居ない。これほどの部下を率いて戦うのは、今回が初めてである。お前も知って居ろうが、俺はキュロス殿下の裏の任務に携わってきた。カルマナ城は、堅牢な城であった。殿下も攻めあぐねておったわ。自分は戦場には赴かず、謀略の限りを尽くして城を開城に持っていったんだ。裏切り、嫉妬、人間のあらゆる弱みを突いていった。どうだ、恨むか?」
この時、初めてペレウスは真剣な目線をメムノンに向けた。
「恨みなど、ございません。有る意味で言えば、カルマナ城はすでに遙か前に落城していたのです。王族身内内で汚い権力闘争が渦巻いておりました。ペルシャ軍の来襲に、それまで醜い争いをしていた者が、手を組みましたが、しょせん付け焼き刃でした。それよりも、驚いたのは、キュロス王の寛大な処置でした。噂には聞いておりましたが、まさかこれほどとは」
「その噂も、策略のひとつだ」
メムノンは、言いにくいことを言い放つ。
「そ、そのような…」
「そうなんだ。俺が言うのだから間違いはない。ただし、策略の王道は誠である。一時的に人を騙すことは出来ても、だまし続けることは不可能だ。お前もそう感じたからこそ、ペルシャ軍に入ることを選択し、今もこの場所に立って居るのだろうが」
「さようでございます」
「そこまで、俺が読んでいたとしたら?」
「まっ、まさか…」
メムノンは、なぜここまで言うのだろうか。あるいは、ペレウスの資質を認め、彼なりに教育を始めたのかも知れない。
たしかに、キュロス王は征服地に寛大な処置を行う。責任を取らせ首を刎ねるのは、責任者の1〜2名であるのが常で、それ以外を咎めることは無かった。
その後の統治に当たっても、徴税を行う他は、彼等の自治に任せ一切の口を挟まなかった。これは、それほど有力な民族とは言いかねるペルシャ人をして、あらゆる民族が交差する広大なオリエント世界を支配する為には、必要なことなのかも知れない。あるいは、キュロスという人格に起因するのかも知れない。
「ペレウスよ、この度の戦を肝に銘じて忘れるでないぞ。後日必ずや役に立つであろう。ただし、この戦いに勝利して、命ながらえてこそ言えるのだがな」
「し、将軍、本音を言ってもよろしいでしょうか?」
「遠慮することはない」
「この度の戦闘にペルシャは勝利することが出来るのでしょうか……む、むろん部下に対しては、このような気持ちを漏らしてはおりません。自分が調べた戦史では、三対一の兵力差が在りながら、寡兵側が勝利した例はござりません。情報によりますと、この度は、三対一以上の兵力差が有ると聞いております」
「お前は、ペルシャに勝ち目は無いというのか」
「そ、そういう訳ではありません」
「どういう訳だ。構わぬから申してみよ」
「此度の戦は、メディア軍と頃合いをみて和睦を結ぶか、撤退を余儀なくさせれば上出来かと……」
「殿下と、ネストル殿は…もとえ、ネストル将軍は申されたわ、此度の戦は、メディア軍を殲滅するのが目的だとな」
「せ、殲滅ですか……」
ペレウスの言うことは、聞く相手によっては大問題である。まさに戦端が開かれようとする時に、このような発言をすることは、命に係わりかねない。ペレウスが、メムノンと接したのは僅かな期間であったが、そこまでメムノンが若者の心を捉えたのは、何故であろう。
メムノンは明らかに変わっていた。もしかすると、生死を離れた心境に到達したのかも知れない。
「よいか、ペレウス、我らは必ず勝利する。これは理屈ではない! 三十年余り、諸国の興亡を見続け、政略のただ中で呼吸をし続けた俺の直感だ。さらに、ネストル将軍がそう申されるのである。そして、総司令官はキュロス殿下ではないか。俺の五体には、確信がみなぎっておるぞ」
そう言うと、メムノンは立ち上がり、笑いながらペレウスの肩を叩いた。慈父のような穏やかな微笑みであった。右頬の傷が、うっすらと赤みを帯びていた。
「殿下、いよいよ決戦でござりまするな」
デュマスは、四頭立ての戦車に乗り込み、キュロスの側を離れない。
「そうだ、デュマス。そして、我らは勝利する」
キュロスは、立ち上がったまま先ほどから微動だにしない。紅みがかった褐色の髪をなびかせ、同色の瞳で、メディア軍が来襲するであろう、前方の平原を見据えている。
「思い起こせば、長いようでもあり、短い日々でござったわ……殿下は本当に立派になられた」
独り言のようにデュマスは呟いた。短槍を右手に持ち、床の上に胡座して彼は、キュロスを見上げた。白くなった頭髪と顎髭。額に刻まれた深い皺の間から細い眼が見える。彼の視線は、仰ぎ見るようにキュロスに向けられていた。
会話は続かない。沈黙の時間が流れていく。
キュロスの戦車の支柱に、大きな旗が立てられている。無数にある幟の中でも、ひときわ巨大なものであった。ペルシャ王家の紋である、獅子の意匠が刺繍された、絨毯製の煌びやかな物である。敵から見れば、そこにキュロスが居ることは一目瞭然であろうに、何故そうしているのであろうか。
むろん、いつものように戦場でのキュロスは、蒼い戦闘用の長袖のチュニックに身を包んでいる。革製の甲冑も兜も蒼い。これも常のごとく、腰には黄色い帯を巻いていた。これまた、戦場では一番目立つ色である。
「おお、元気であることよ……」
デュマスがニンマリ笑って呟いた。騎乗の若者が、一万数千人の兵が蠢く陣地を駆けめぐり、兵に指示を与え続ける。続々と入荷してくる兵器を配分しているのだ。指示は行き渡ったのだろうか、そのうち若者は馬を止めた。しばらくそのままで、何事かを考えている様子であったが、急に馬首をキュロスの方に巡らすと、若者は馬に鞭を入れた。
「殿下、武器を配布する手筈は整いました。何とか間に合いました、それにしても、この弓と矢は、とんでもない物にございます」
若者は、馬を止めるのももどかしげに、キュロスとディユマスの前に、長大な弓矢を差し出した。騎乗していても、弓の先が地面に着きそうである。
「イオスよ、この長弓は、グライコス老軍師の考案のものだ。こたびの戦では強力な武器になることは間違いない」
キュロスは諭すように言う。若者はイオスという名であるらしい。
「この長さでは、射程距離はどれほどになりましょう?」
「うむ、騎馬兵用の短弓の二倍、普通の弓の一倍半になろうか」
「そ、それでは相手の射程圏外から打ち込めるではありませぬか?」
イオスは馬上辛みを乗り出した。キュロスは、腕を組んだまま、微動だにせず立っている。胡座を組んだデュオスは、眼を細めて青年を見守っている。
「その通りだ、しかし、持ち運びには不適だ。兵の機動性が損なわれるため、使用出来る戦場は限られる。方法を間違えると無用の長物になりかねない」
イオスは、改めて長弓を目上にかざし、感心したように見入っている。彼は、二十代半ばの青年である。人材登用に出自を考慮せず、すべて能力による抜粋が普通であるペルシャ軍の幹部にあっては、珍しくキュロスの甥という生粋のペルシャ人であった。
小柄なキュロスに比べると、背は高く立派な体格をしている。髪はペルシャ王族の特徴である、紅い褐色であり、何処かに幼さを残した風貌だ。
イオスは、ナムダ川の戦いを経験した後、ペルシャ軍の中核として頭角を顕すことになる。
キュロス連隊に騎兵はいない。五千の弓兵と一万の歩兵だけである。ネストルの作戦では、キュロス連隊の役目は、この地点を確保することである。ペルシャ王家の旗を立て、守りに徹するのだ。オロデス軍の主力はキュロス連隊をめがけて突進するであろう。十万近い敵兵が殺到するのだ。いまは、爽やかな風が吹き渡るナムダ河畔は、殺戮と血潮の飛び交う修羅場となるのは間違いない。
巨大な敵に、怯むことなく現在地点を確保することが、ネストルの作戦の要であった。此処を抜かれれば、勝敗はその時点で決するであろう。
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