ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





第三章、平原の月と狼<12>


 ナムダ川の南岸、ここにネストル連隊は布陣している。兵力は弓兵五千人、歩兵五千人であるが、騎兵は何と一万五千を擁している。ペルシャ軍の騎兵の殆どはネストル連隊に配置されていた。
 ナムダ川の戦いに於いて、ペルシャ軍の攻撃主体はこの連隊であることは間違いない。ペルシャ軍の六万という兵力は、大兵力と言っても過言ではない。しかし、メディア軍は二十万を超える兵力でナムダ川に向かっているのだ、それに対抗するにはあまりに寡兵である。
 ペルシャ軍は、ナムダ川を背後に、北の岩礁地帯から、南のネストル連隊まで、数キロに及ぶ長大な防衛線を敷いている。従って、薄い隊列になるのは仕方のないことだった。

 土埃を揚げながら、騎馬兵が駆けてくる。並み居る兵士を蹴散らすように猛然と突っ込んできた。
「ま、まもなく、メディアの先鋒隊が来ます!」
 下馬することもなく、ネストル連隊の幹部が集合する場所へ飛び込んできた偵察兵は、叫んだ。
「慌てるな! 兵力は、如何ほどか!」
 コカロスが、仁王立ちになり偵察兵を睨みつけた。右手には愛用の長刀が握られている。「はっ、さ、三万ほどかと思われます」
 偵察兵は、明らかにコカロスの迫力に気圧され、後ずさりする。
「ご苦労であった。持ち場に戻り偵察の任務を続けよ」
 静かではあるが、凛とした声で命令が下された。ネストルである。背の高い三十半ばの偉丈夫というに相応しい風貌だ。知的な蒼い双眸、金髪を覆う朱の兜。ペルシャ軍の心服を一身に受けているのは、その佇まいからも想像できる。
「ライオネス!」
「将軍、承知であります。殿下と、メムノン将軍にさっそく伝令をだします」
 伝令隊を率いる、ライオネスであった。若くして抜粋された彼は、黒い瞳を輝かせた。ナムダ川に布陣するペルシャ軍の情報は、すべてネストルにもたらされ、各部署に発進される。情報の一元化に加え、作戦の総指揮も彼が担うことになっている。
 伝令隊長は、戦闘を通じてネストルの側に控える命令を受けていた。

「戦端はまもなく開かれるであろう。各自責任部署に展開せよ。我らが再び相まみえる時は、戦いが終わり勝利したときである」
 ネストルが宣言をした。
「おーっ!」
 強者の雄叫びが轟いた。眼前に迫っている生死を賭けた戦いの興奮に打ち震え、眼は血走っている。彼等は騎乗し、馬に鞭をくれると各自の持ち場に散っていった。
「ケペウス! コカロス!」
 群雄が散っていく中、ネストルは二人を呼び止めた。二人とも、戦場で鍛えられた勇者の中の勇者である。しかし、その彼等をして、得意の戦闘に於いてのみ考えた場合でも、伝説の「朱の獅子」を引き継ぐネストルには一目を置いていた。戦場に明け暮れた彼等の直感がそう思わせるのだった。

「そちたち二人には特に申すことがある。貴殿らと殿下は常に一緒の戦場にあり、思いも特別であろう。そのことは痛いほどよく分かるが、今回は別に戦うことになる」
「承知でございます、ネストル将軍。殿下より、すべて将軍の指示に従うように厳命を受けております」
 黒い顎髭を豊かに備えた、ケペウスは厳かに返答をした。コカロストと共に、ペルシャ軍きっての勇者との風評も高いが、彼は落ち着いた大人の風格を漂わせている。
「ケペウス隊長、貴殿の予備隊は、勝敗の決する最終の段階で投入することになろう。それまでは、何があっても動いてはならぬ。たとえ、目の前でキュロス殿下が危険にさらされてもだ。肝に銘じて欲しい」
 ネストルの眼光が射るように、ケペウスを襲う。
「承知! 肝に銘じております」
「もし、自分が倒れた場合は、すべての戦闘指揮はメムノン将軍から発せられる。そのことも承知しておいてくれ」
 ネストルとメムノンは、今回の作戦全体について、詳細な打ち合わせを何度も行っている。時には、老グライコス軍師も交えてであった。

「決断と勇気、そして忍耐力を要求される予備隊の隊長は、貴殿を置いて他には見いだせない」
 ここで、ネストルは僅かに微笑んでコカロスに視線を移した。
「勇気と猪突猛進のコカロス殿には、無理な役目であろう」
「なっ、何と申される!」
 赤銅色に日焼けしたコカロスは、猛々しい色をなした。ケペウスは、声こそ挙げないが笑っている。
「ご不満かな? しかし、貴殿ならば殿下が危ないとなった時は、考えるよりも早く身体が動いておろう」
「まぁ、それは……」
 コカロスも自覚するところが有るようだ。
「貴殿は、我が連隊の右翼の指揮を執って貰うことになっておる。自分の指示が有るまでは、不本意で有ろうが、守りに徹して頂く」
「何度も念を押されております。承知でございます」
 コカロスは、大きな体を小さくする。
「しかし、貴殿の部隊は、キュロス連隊に接しておる。連隊の動きにも気を配って、いったん急となれば、貴殿の判断でキュロス王の救済に向かわれよ」
「よ、宜しいのですか!」
「貴殿の判断にお任せする。しかし、くれぐれも、自制を忘れぬよう」
「承知! 忍耐力でもケペウスに引けを取らぬことをお見せ申そう」
 いかにも単純な男である。すっかり元気になって、ケペウスに威張ってみせる。
「コカロスが、我慢をするというのか?」
 ケペウスは余裕たっぷりだ。


 トリトンは、ネストル連隊の最前線を見回っていた。上背はあまりないが、ガッシリした巌のような身体をしている。脂肪はほとんど無く、筋肉の鎧が身体を包んでいる。
 外見に似合わず、トリトンは沈着な性格で、命令を受ければ何を於いても、実行せねば許さないという意思堅固なところがあり、ネストルの最も信頼する部下であった。
 彼はネストル連隊の中央を任されているが、熱血、直情のコカロスを陰ながら補佐する命令も、内々にネストルより受けていた。
「隊長、いよいよですか!」
 最前線の歩兵が、見回るトリトンに声をかける。
「そうだ!」
「この体勢で、よろしいでしょうか?」
「よし!」
 積み上げられた土塁に身を伏せた兵が声を掛ける。 
「馬は、後方に囲い終わりました」
 兵士が駆け寄り報告する。
「解った」
 寡黙なトリトンは、その都度、短い返答をし、平然と何時も通りの態度を崩さない。声を掛けてくる兵士はまだ良い。大部分の兵は、弓を握ったまま、青ざめて震えている。

 最前線は、歩兵が位置していた。各自、弓を持たされている。その背後に長弓を持った本来の弓兵が布陣している。騎兵も、短弓を馬に着けたまま後方に隠し、歩兵と合流し弓を持って最前線にいる。
 この編成は、メムノン連隊も同じであった。ただ、キュロス連隊だけは、騎兵がいない。 騎兵が馬から降りて、歩兵と共に行動することはかんがえられぬことであった。騎兵の意味が全くないのだ。しかし、あえてネストルはその作戦を取った。
 さらに、歩兵、騎兵全員に弓を持たせることも、まず考えられない。弓矢の供給が大変な量になるからである。特に消耗品である、矢の補給は膨大になろう。
 アラム商人、デモレオンの協力無くしては取り得ぬ作戦である。 


固唾を呑んで待ちかまえるペルシャ軍の眼前、数キロのところに、土煙を上げながらメディア軍が出現した。
「来た!」
 と小さくデュマスが声を発した。キュロスは腕組みをして前方を見つめたままだ。
メディア軍の先鋒隊は到着すると、広い平原に展開した。後続の部隊を向かい入れる準備と、ペルシャ軍を牽制する意味であろう。
「約、三万と言うところですか。しかし、敵ながら良く訓練されております」
 イオスの顔は上気している。
「イオス、持ち場に戻れ」
 キュロスが、静かに命じた。
「はっ!」
 そう言うと、イオスは、彼よりも一回り小さく華奢ではあるが、偉大なる英雄を見つめた。彼は、キュロスから次の言葉が発せられるのをまったが、言葉は掛からない。
「ここを、死地として奮戦致します。では、殿下……」
 そう言い残し、イオスは馬に鞭をくれ駈け出した。

 メディアの先鋒隊は、レムルス将軍指揮下の第二軍であった。掲げる幟で識別できるのだ。見る間に、続々と後続部隊が到着してくる。湧いてくるという言葉が適切なほど、次から次へと、兵士が集結している。
 ペルシャ軍は動かない。不気味に静まり返っている。

 オロデスの旗が見えた。後方の軍団の中で微かに識別出来る。敵の大将が戦場に到着したのだ。十五万と見える兵士が、平原を埋め尽くしている。
 敵は七重、八重に隊列を組み始めた。最前線は歩兵だが、その合間に騎兵が混じっている。キュロスにとっても、これほどの敵と相まみえるのは初めての経験である。
 彼の立ち姿に乱れはないが、頭に血が上ったらしく、眼は充血してきた。
 デュマスも、前方を見つめたまま、眼を皿のようにしている。むろん、口から言葉が発せられることはない。
 敵が隊列を組むのを、ペルシャ軍は黙って見つめている。ネストル将軍からの、伝令は無く、合図の太鼓も鳴り響かない。
 早ければ、後一刻もすれば戦端が開かれるであろう。

次ページへ小説の目次へトップページへ