ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





第三章、平原の月と狼<13>


「レムルスよ、そちは五万の兵を持って、南のネストルを攻撃せよ」
 メディア軍の後方に、急遽、造営された幕舎の中で、オリオンが諸将を前に、指示を与える。
 五十を超えた年齢であるが、黒髪に白髪は交じっていない。黒い顎髭を蓄えた顔は、端正で鋭い。メディア王国の一切を取り仕切る自信に満ちている。
「はっ、光栄であります。ネストル将軍は敵にとって不足は有りません」
 歳は若いながら、オロデスの甥として、メディア軍でめきめき頭角を顕してきたレムルスにとって、名を挙げる大きなチャンスであった。彼は、オロデスに似た風貌をし、何処かに気品らしさを感じさせるものがある。戦争の経験に於いては、総司令官のオロデスを遙かに凌ぐものがあった。
「身共は、二万の兵を、北の敵陣に当て、八万の兵でキュロス本隊を攻撃する」
「閣下、パリス将軍の到着を待たれては如何でしょう」
 レムルスが具申をした。
「レムルス、斥候の報告を聞いたであろう。北と中央の敵軍は二万に満たない。南も二万を少し超えるぐらいであろう。八万の主力で中央の敵陣を粉砕し、キュロスの首を取るに何の不安が有ろう。パリスを待つ必要はない」
 オロデスには、パリス将軍の軍人としての名声を妬む気持ちが確かにある。
「しかし、……」
 レムルスは、敵がネストルに指揮されるだけに、少し不安の影がよぎることはあったが、彼の野望がそれを吹き消した。
 倍する兵力で、あのネストル将軍に当たれるのである。メディア王国の軍人としての声望は、何と言っても、アルメニアとカッパドキアを支配するクレオン将軍である。そして次がネストル将軍、最後がパリス将軍であった。彼等三人は、伝説の“朱の獅子”パルコス将軍の後継者を持って任じている。
 この戦場で、ネストルに勝てば、レムルスは一挙に名将軍の声望を得ることが出来る。しかも、まず敗北は考えられない状況であった。
「閣下、承知つかまつりました」
「よし、皆の者、一刻後に総攻撃だ、全員配置につけ!」
 オロデスは、自信たっぷりに命令を下した。
「おぉー!」
 諸将の顔には、余裕が窺える。どう考えても敗北はあり得ないのだ。



 陽が中天に懸かろうとした、まさにその時、メディア軍は一斉に行動を開始した。ペルシャ軍に対応するように、北、中央、南に分かれた三軍は、歩兵を先頭に土埃と掛け声をあげ進軍する。太鼓が打ち鳴らされ、幟がひしめく。
 天地を揺るがすような、大軍隊である。あたかも津波が陸に寄せるように、圧倒的な圧力を掛けながら前進してくる。ペルシャ軍の数百メーターの地点まで進軍したところで、メディア軍の進出は止まった。弓の射程距離を考えてのことであろう。

「で、殿下!」
 突然の甲高い声だ。見ればイオスが駆け寄ってくる。
「……も、もの凄数の敵兵です!」
 キュロスの返事も待たず、続けた。明らかに興奮している・
「何故に、持ち場を離れたのだ!」
 キュロスの叱責がとんだ。
「申し訳ございません。どうか殿下のお側に……指揮は副官に任せました」
 イオスは肩を震わせ土下座をしたまま、キュロスの眼を見ようとしない。その背中は、主君と一緒に討ち死にしたいとでも言いたいようだ。

「怖いか?」
 キュロスは冷静に質問した。
「こ、怖くなんぞは、ござりませぬ!」
 敵兵力の数は情報で掴んでいたが、現実に、数百メーター先に、十五万近い兵力が集結して戦闘態勢を取ったのだ。イオスが圧倒されるのも無理はない。おそらく、自分の存在がいかに小さいかを実感していることだろと、キュロスは思った。
「そうか、私は怖いぞ」
「でっ、殿下!」
「デュマス、そちはどうだ?」
「殿下、怖くて仕方がありませぬ。老いぼれの足が震えておりますわ。イオス、お前も震えているのが見えるぞ」
 言葉とは、異なり余裕を持った返答が帰ってきた。
「イオス、恐いものは、恐いのだ。これを生理的反応という。高い断崖の上に立った時、恐怖を感ずるであろうが、それと同じで気にすることはない」
「さ、左様でございますか、実は……」
「やはり恐いか、その素直さが自分を鍛えるのだ」
 キュロスは、この二十歳過ぎの若者に好感を抱いていた。身の丈は自分より大きいが、どことなく幼さを残している。しかし、いざ戦闘となると、冷静な指揮をする。軍人としての天性の素質を感じていた。

 味方の兵士は、土塁を楯に身を伏せている。大部分の兵士は、恐怖に身がすくんでいるに違いない。しかし、キュロスに不安は無い。戦う直前の兵士の心理状態の常であった。敵方も同じ筈である。戦闘前に恐怖にかられることは人間の性と言えるだろう。
 いざ戦闘が開始されれば、兵士の恐怖は吹き飛び、思考も感性も消え、戦う鬼となるのだ。狂気が支配してしまうともいえよう。
 誰にも言えぬことであったが、キュロスは、狂気に支配される瞬間を待ち望んでいる。身体を生命の危機に晒す興奮。ときめく瞬間がもうすぐ訪れるのは間違いない……。

 張りつめた緊張が、平原を満たす。ペルシャ軍の位置から、メディア軍が布陣するところまでは、なだらかな下り坂になったいる。
 土塁の先には、騎兵の突撃を防ぐために、尖った杭が逆さに埋め尽くされている。その杭は帯状に戦線を横切る。その先には、堀が穿たれ、さらに先には無数の丸太が転がされている。
 戦場選択の自由は、ペルシャ軍にあった。一方、戦端を開く決定権はメディア軍のものだ。しかし、圧倒的な兵力の差と、オロデスの名誉欲が、その有利な状況を効果的に使用することを拒んだ。

 戦場にメディア軍の太鼓が鳴り響いた。幟がはためく。一線となって敵兵が進撃を始めた。歩兵の間に騎兵の集団が混じっている。正攻法の攻め方である。しかも、十数列に及ぶ、分厚い戦列を組んでいる。
 一方のペルシャ軍は、三列の薄い戦列で、長い防御線を築いていた。単純に見ればひとたまりもなく蹂躙されそうである。
 キュロス隊は、土塁や遮蔽物に身を潜めたまま微動たりともしない。キュロスは、直立したまま、紅褐色の眼で、前方を取り付かれたように見つめている。
 側に居るデュマスも、身を屈めるように進言はしない。戦場の血生臭い風に、身を晒すのは、キュロスのいつもの行動であったからだ。
 メディア軍は、丸太の転がったところで前進を止めた。そこは、弓の射程ギリギリのところであった。このままでは騎兵は進めない。ネストルの計算通りであった。

 キュロスの眼の前で、敵が動いた。長槍を持った歩兵が、丸太を遮蔽物として使うように身を伏せた。後方の弓隊が前に出る。もの凄い数である。
 敵の太鼓が鳴った。矢が一斉にキョロス隊に向かって降り注ぐ。矢の飛翔する音が戦場に鳴り響いた。無数の矢が、真っ直ぐ自分に向かって飛んでくるようにキュロスは感じた。彼は矢に貫かれ、血を流し苦悶する己を想像し、心中から湧き出てくる興奮に身を任している。
「うっ!」
 くぐもった悲鳴が方々で挙がる。敵の矢が襲いかかって来る。キュロスの目前で、顔を挙げたとき、胸を射抜かれた兵が倒れた。数人が駆け寄る。しかし、土塁を越える矢は僅かなものだ。大部分は土塁の前で虚しく地面に刺さる。
「身を伏せろ!」
 イオスの声が飛ぶ。身を潜めたまま、キュロス隊は動かない。
 
 後方から、敵の歩兵が前線に出てくる。彼等は、丸太をどかし始めた、進路を確保するためだ。しばらくすると、丸太は片付けられ方々で進路が開いた。
 敵は一斉に攻撃を開始した。丸太の間を縫って攻めてくる。
 まさにその時、ペルシャ軍の太鼓が一斉に打ち鳴らされた。ネストルから、攻撃開始の命令が出たのだ。
 キュロス隊でも、掛け声が挙がった。耐えに耐えていた気持ちが解き放されたのだ。イオスが声を限りと命令を下す。
 長弓隊の強弓が一斉に矢を放った。矢音も鋭く、通常よりも長い矢が唸りを挙げて敵兵に飛んでいく。
 射程の長い矢が、天空から敵陣に降り注いだ。思いもよらぬ遠方からの矢に、敵は混乱を来した。兵は右往左往する。射抜かれた兵が次々に倒れるのが見える。
 馬は、竿立ちになり狂乱して走り出す。その煽りをうけて、蹴散らされた敵兵が、倒れるのが見えた。
 長弓の矢は、尽きることなくオロデス軍を襲う。敵は退却を始めた。取りあえず射程の外に出ようとするが、味方の兵が邪魔になり、混乱はさらに激しくなる。折り重なる敵兵の背中に、容赦なく弓矢が突き刺さる。

 しばらく時が経過した。圧倒的な威力を見せつけた長弓の攻撃が終わった。オロデス軍の先鋒が、射程外まで退却したのだ。キュロスの眼前に、数百というオロデス軍の死体がうち捨てられている。中には動く兵士もいるが、オロデス軍に救出に向かう者は居ない。そのうち、傷ついたすべての兵が、横たわったまま動きを止めてしまった。
 キュロス隊から、歓声が挙がった。小躍りする者もいる。しかし、戦闘はまさに始まったばかりであった。
 オロデス軍の後方から、数人でやっと担げるような、巨大な板が前線に運び込まれた。攻城の際に、壁上からの矢を防ぐ為、頭上に掲げ、楯として用いられるものであった。なるほど、長弓の矢は、射程を最大限にするため、上から降ってくるのだった。
 小高い丘の上に位置するキュロスの眼に、敵兵の前衛が一面に板を敷き詰められたように写った時、敵兵は再び前進を始めた。

 丸太の位置まで敵が前進したとき、再び長弓から矢が放たれた。唸りを挙げて乱れ飛ぶ矢は、楯板に突き刺さる。あたかも、板が矢を吸い寄せるように見えるほど、板は矢で埋め尽くされる。丸太の障害を突破した兵士は、散会して続々と空堀場所にまでたどり着いた。堀は、騎兵の足を止める障害として穿たれていた。
 堀の側に板を立てかけた敵兵は、盛んに弓矢を射始める。さすがに射程距離に入ったせいで、キュロス連隊に矢が届き始めた。雲霞のごとく押し寄せる敵兵から放たれた矢が、兵士を襲う。キュロス隊にも、倒れる兵士が続出し始めた。
 絶妙のタイミングで、ペルシャ軍の太鼓が鳴りひびいた。
「引けぇ!」
 長弓隊隊に、イオスが下命した。
「前衛、射撃始め!」
 具体的な命令は、すべてイオスの役目のようだ。キュロスは戦車の上に突っ立ったまま微動だにしない。ただひたすら、敵と味方の兵の動きを見ている。身体の近くを掠めて行く矢もあるが、身につまされることはない。

 イオスの命令に、長弓隊が退くと同時に、土塁に身を潜めていた歩兵隊が弓矢を放ち始めた。こちらは、水平射撃である。地を這うように矢は飛んで行き敵兵をなぎ払う。バタバタと兵が倒れるが、敵も怯まない。倒れた数倍の敵が配置に付き矢を射始める。弧を描いた矢が、キュロス隊を襲う。
 敵の矢は、ペルシャ王の象徴である獅子の刺繍が施された旗に向かって、飛来してくるようだ。キュロスの近くで矢に射抜かれ倒れる兵が続出してきた。戦場には血生臭い風が吹き渡る。キュロスの眼が異様な光を放ち始めた。
 軍隊蟻の進軍のように、台地を覆ったオロデス軍は前進を止めない。空堀の周りは兵士で埋め尽くされた。

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