ヒトシの部屋



2.誰なの?



「相手は誰?」

女子高生の母親が交際相手を問うているわけではない。
まして、旦那が奥さんに詰め寄られている図でもない。
意味深長なこの文句は今回のテーマである。

一貫堂六本木支部では自由組手(いわゆる試合)のルールとして、防具を付けた上でのフルコンタクトを基本にしている。
寸止めはないし、顔面への突き、蹴りは防具を付けた状態で許される。
肘や膝を使った攻撃は特に許容されてもいないが禁止されているわけでもない。
一応、急所とローキックはやらないようにといわれているが、ローキックについては徹底されているわけではない。

とはいうものの、そこはリゾート空手が売りの当道場(あくまでも六本木支部のみ)、パワーファイターが増えてはきたとはいえ、技術的には卵にウブゲの程度なので、一撃必殺どころか腰の入った突き・蹴りがそうはいることはない。
ふがいない話ではあるが、おかげさまで青あざ、突き指ぐらいは常として、
骨折・昏倒・病院送り・治療・リハビリ・社会復帰オメデトウなどと、物騒なプロセスを経ることも今のところない。

つい最近ではあるが、小太郎さんが六本木道場にやってきた。
小太郎さんは小柄で優しさがにじみ出るよな好青年であるが、極真会初段というやんごとなき経歴をお持ちのお方でもある。
前にもいらっしゃったことがあるが、ついぞ組み手など所望した覚えはない。
考えて欲しい。
稽古でアゴの骨にヒビ入れたり、どこぞの社長みたいに昇級審査前の練習組手で腕をポッキリ折ってみたり、それでも「オス!」とかいってる人達のお相手ができましょうか。

しかし、不幸にして私は本年の極真全国大会のビデオを見た直後であった。
その興奮さめやらぬ脳細胞に、いらない電波が入ったのである。

「自由組手やりましょう。」

一本組み手を終えた後、熱病に促されるがごとく私はつぶやいた。
いくら小太郎さんが好青年とはいえ、脳味噌が地に着いた状態でそのような暴言を吐くわけがない。
我に返った私は、軽くですよ、あくまでも軽く、などとダイエット中の娘さんがおかわりを要求するがごとく何度も念を押していたようであるが、事ここに至ってどうもこもない。

自由組手はにこやかに始まった。

ところがである。
私も小太郎さんも、ビミョーにやりにくい。

極真空手は下がることをしらない。敢闘精神の誉れである。
リゾート空手は下がることしかしらない。軟弱精神の戯れである。

つまり、小太郎さんは私が仕掛けたときに、足を止めて打ち合おうとする。
私は撃ち合いなどもってのほかと思うから、すぐに下がって間合いを外す。
ビミョーにかみ合わないのである。

まあ、考えてみれば当たり前で、極真は顔面への手拳による攻撃はなく、
また、首から下はいくら殴られても蹴られても大丈夫なように鍛え上げる。
したがって、基本的に足を止めた撃ち合いというスタイルが多くなる。

六本木道場は鍛えることに目標がないではないが、いくらやっても大丈夫になどという殊勝な心がけは誰一人として、もとい、少なくとも私めは持ち合わせていない(ちなみにうちの師匠は痛覚という人間にとってもっとも大事なものが欠落しているので別論である)。
まして、顔面への手拳による攻撃があるから、ボディーへのダメージをねらって足を止めて打ち合うというスタイルにはなりにくい。
試合のルールが異なるから、戦闘スタイルも異なるのである。

おかげさまで、自由組手のほうは平和を祈る祝典の儀式にもにて平穏のうちに幕を引いた。
なんのことはない、スタミナの切れた私が一方的に終わりを告げたのであるが。

しかし、私はこのとき、以前読んだ本の記述を思いだしていた。
ルールが違うと言うことは、さっきの試合のように間合いが違う。
いや、間合いが違うということは必要となる技も違う。
もっといえば、突き・蹴りの方法・歩法・体さばき、全てが違ってしまうのではないか。まして、相手が武器をもっているとすればなおさらのはずだ。

武道における戦闘理論・スタイルは、自分がどのように戦いたいかではなく、相手がどのような方法で戦うか、つまり想定している敵次第で決まってくるのではなかろうか、そう思ったのである。

考えてみれば日本の武道には日本刀、又は小刀をもった人間を仮想敵国としているものが多い。
剣道・居合・抜刀術・杖はもとよりである。
加えて柔術・合気道も刀を持った相手を想定しているふしがある。
武道の歴史的な側面を考えるなら当然かもしれない。

あれ?しかし。
では、空手の仮想敵国は何なのだろう。
私は当然のように素手の相手しか想定していなかった。

時として言葉には様々な意味が宿る。
昔聞いたような(?)洒落にならん文句は、カラカラと頭でコダマした。
「あんた、相手は誰なのよ?」









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