「おはようございます」
ちょうど、僕がアパートを出たところだった。
自宅の玄関前を掃いていた手を止め、明るく声を掛けてくれたのは、三十七〜八歳、僕にはすごく好くしてくれる、むかいの奥さんだ。
いや、僕に限らず誰にでも親切といったほうが正しいだろいう。
木村茜という名前からうける感じは、すこし気取った雰囲気だが、断じてそんなことはない。
清潔な真っ白いエプロンが、晩春の青葉とあいまって、とても眩しく写る。
細身で上品な中年女性で、僕は心憎からず想っている。
「おはようございます」
僕はニッコリ笑いながら返事をした。
「学校ですか? がんばってね」
「ええ、まあ」
僕は言葉をにごし、苦笑いしながらアパートを後にした。
『学校か? そう言えばしばらく行ってないなぁー』
僕の住んでいる地区は、渋谷からそう遠くない私鉄沿線の住宅街の一角にある。高級というほどではないが、緑も多く落ち着いた家並みが続いている。
その中に、場違いにぽつんと、僕の住んでいる二階建ての木造アパートが建っている。
トイレ、炊事場付きの六畳一間。むろん、風呂は付いていない。
今朝もそうだが、たまには僕も、朝から出かけることだってあるんだ。
「お兄ちゃん!」
一所懸命、駆けてきたらしく、息を弾ませながら僕の隣りに、女の子が並んだ。
「お、由美子ちゃん。今から学校?」
聞くまでもないことである。黄色い帽子を被り、ランドセルを背負った、女の子が朝の八時に、他に行くところが有るはずがない。
僕には、こんな迂闊なところがあるのだ。
今つきあっている彼女の早苗に、呆れられてしまうことにも、もう慣れてしまった。
「お兄ちゃん、駅まで、いっしょに行こうよ」
「え! 学校とは方角が・・・・・」
「いけない?」
由美子ちゃんは、怒った眼で僕をにらんだ。
おもわず僕は、たじろいでしまった。
「いっ、いけなくはないけど・・・・・」
「ドキマギしちゃって可愛い・・・・・」
そう言いながら、可愛い手で僕の腕をつかんだ。
『何なんだ、この子はいったい・・・・・』
だけど、ぜんぜん悪い気はしない。
「由美子ちゃーん、どこ行くの?」
むかいから、歩いてくる同級生らしき女の子が、次々に声をかけてくる。
「うん、ちょっとね」
そのたびに、由美子ちゃんは、少し得意げに返事をするのだ。
『おい、おい、大丈夫かな。まさか、少女誘拐犯に間違われたりして?』
僕は多少不安になってきた。
女の子の名前は木村由美子、木村家の長女で小学四年生である。
駅で由美子ちゃんに「さよなら」を云って、電車に乗り込み、二つ目の駅から歩いて五分のところに図書館はある。
平日の朝だというのに、けっこう人はいた。僕は無性に「葉隠」が読みたくなったのだ。
三島由紀夫が市ヶ谷で自決して、二週間になる。
僕の退屈な日常に、降って湧いたような事件だった。
早苗に「極楽トンボ」と揶揄される僕だが、いささかショックを受けてしまっていた。
結構、本を読むのは好きで、週に一度は図書館にかよう。
四月末の図書館は、緑が爽やかでとてもいい感じだ。いまどき珍しく、建物にツタがからまっていたりして。
名誉のために云っておくが、むろん大学生だから、たまには学校に行くことだってあるんだ。
本を三冊借りた僕は、図書館の側にある喫茶店ポニーに向かった。
小さなベルの付いた、木製のドアを開けた僕の耳に「学生街の喫茶店」のメロディーが流れてきた。
音楽の響きを、あたかも邪魔するごとくに、奧から声がかかった。
「おーい、ヒロシ!」
僕の名前はヒロシという。
小早川博が姓名だが、昔から、ヒロシ、ヒロシとしか、いわれたことがない。
小早川と名字で呼んでくれたのは、学校の教師ぐらいのものだろう。
松本と田中が手招きをしている。見ればテーブルの上の灰皿はタバコの吸い殻で一杯だ。 コーヒー茶碗も底まで乾いている。
「ヒロシ、まいったよ! 頼むよ・・・・・」
多少太り気味で、ジィーンズを、腹に食い込ませている松本が手を合わせた。
「だめよ! ヒロシ、相手にしないで」
怒ったように、声をかけてきたのは、ウエイトレスの明美ちゃんだった。
ミニスカートの健康的な足が、結構まぶしい。
年下のくせに、何時も僕らを見下すような態度をとる。だけどそこがまた、ちょっとかわいくもある。
トレーに、水のグラスを乗せたまま、松本をにらみ付けている。
「まあ、まあ、そういわないで、松本の願いを聞くだけでも聞いてやってくれよ」
人のよい田中らしく、僕に頼み込むような眼をむけた。
「だめ! こんな奴、許せない! 私にまでカンパを頼むのよ・・・・・何で私なのよ、バカにしているったらありゃしない! 子どもが出来たのだったら、男なら責任取りなさいよ!」
ここまで聞けば、いかに勘の悪い僕でも事情はわかった。
「明美ちゃん、声が大きいよ、頼むよ悪かったから」
ほとんど、拝むように松本は懇願している。
「すけべー、助べー、スケベー・・・・・」
明美ちゃん、大声をはりあげた。
喋るたびに、しだいに気持ちがエスカレートするらしい。
子どもが出来たら、すけべー、なんだろうか?
だったら、すけべー、じゃない男なんて、いるんだろうか?
意味もないことにこだわる癖がある僕は、かなりすけべーな気がする。
むろん、僕もまるっきりのバカではないから、明美ちゃんが云いたいのはそんな事じゃないぐらいは解っている。
ほうほうのていで、僕らは店をでた。
結局、なけなしの五千円をカンパしてしまった。
僕の実家は決して裕福ではない。仕送りも大変なことはよく解っている。
それなのに、学校にも真面目に行かないで、無駄使いばかりしている。
いったい僕は何をしているんだ・・・・・・・・・・。
『明日から、バイトを探し、真面目にはたらこう・・・・・学校? 退屈な授業だしな・・・・・』
渋谷に出てぶらぶらし、アパートに帰ったのは四時を少し回っていた。
日当たりの良い部屋、いや、西日の当たる部屋という方が正解だろう。
ニユーオリンズの「朝日のあたる家」なら格好いいが、西日じゃ、あまりにシブ過ぎる。 僕は、座布団を枕にして、「葉隠」の文庫本を読み出した。
どの位、時間がたっただろう。
ドアのノックの音が響いた。
安普請のせいで、音もドンドンという低い響きではなく、バンバンと聞こえるのは寂しいものだ。
「お兄ちゃん、入っていい?」
幼い男の子の声だ。
ドアを開けると、立っていたのは、由美子ちゃんと、弟のたくろう君だった。
たくろう君は幼稚園の年長さん。
両手に、プラスチックのウルトラマンの人形と、ピストルを大事そうにもっている。
「お兄ちゃん!」
たくろう君は、ウルトラマンとピストルを持った両手を差し出しながら、土足で部屋に入ってきた。これで、一時間は相手にならなければいけない、僕の運命が決まった。
「たくろう! だめでしょ! 靴はきちんと脱ぎなさい。お兄ちゃん、あとで私がお部屋の掃除をしておくからね」
こまっしゃくれた言葉使いの由美子ちゃんは、長い髪をした、お洒落なけっこう可愛い女の子だ。
ただし、「女の子」と云うと、怒ってふくれてしまうから、注意が必要だ。
僕を見つめながら、これ見よがしに、ピンクの洋服についた、襟元の白いレースに手を触れている。
僕は子どもと老人には結構好かれるみたいだ、多少ボーとしているところと、人畜無害に見えるからだろうか?
たくろう君は、早く云いたくてしかたがないとばかりに、僕に話しかけた。
「お兄ちゃん、ウルトラマンしってる?」
「もちろん」
「レッドキング、ピグモンは?」
「知っているとも」
「どうして? 大人なのに・・・・・」
たくろう君は、多少とまどいの眼で僕を見つめた。
「ウルトラマンの前のウルトラQをしってるか?」
「え、なにそれ?」
僕は得意になって、たくろう君に説明をした。
横目で、由美子ちやんの眼光を気にしながら。
そのうち、たくろうは、にじり寄ると胡座をかいている僕の膝の上に座り込んだ。 「お兄ちゃん、このピストル、お爺ちゃんに買ってもらったんだよ」
「へー、そうなんだ。いいね、ちょっと持たせてくれる?」
「うん、いいよ、はい・・・・・」
その時である。先ほどから、がまんを重ねてきたらしい由美子ちゃんが、大声を出した。 「だめ! たくろう!」
そういうが早いか、由美子ちゃんは、たとくろう君を突き飛ばした。
「いたい! なにすんだよ!」
「だめなの! 膝の上に座ったら、お兄ちゃんが迷惑でしょ!」
こんなところで、兄弟喧嘩などされては、たまったものじぁない。
「いいんだよ、由美子ちゃん。座ってくれて嬉しいぐらいだ」
「えっ、ほんとう? じゃあ由美子もいい?」
結果的に、僕の膝の上には二人の子どもが乗ることになった。
「もうすこし、そっちに行きなさいよ・・・・・」
「押すなよ、落ちるじゃないか」
しばらくは、押し合いへしあいの闘争が僕の膝の上で繰り広げられた。
膝の上に乗せるのも、短い時間ならいっこうかまわないが、長時間となると、かなり苦痛になってきた。
いささか、骨盤の関節がおかしくなりかけた頃である。
部屋を軽くノックする音が響いた。
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