「どうぞ」
僕は、つとめて明るく返事をした。ドアを開けたのは、案の定、茜さんだった。
「二人とも、ごはんですよ。ヒロシさん、何時もすみませんね」
「いえ、僕も楽しいんです。本当ですよ・・・・・」
「そうよね、お兄ちゃん」
嬉しそうに、由美子ちゃんが、おとなの会話に割って入った。
「今日は主人から、帰りが遅くなると電話があって、一人分食事があまってしまったの。よろしかったら、いかがです?」
木村家のご主人は、都庁勤めの、穏やかな感じのサラリーマンである。
「お兄ちゃん、いっしょに食べようよ」
そう言いながら、由美子ちゃんは、もう僕の腕をひっぱりだした。
「そうだ、そうだ」
たくろう君も追従する。
こういう塩梅で、食事をご馳走になることも、決して珍しいこととは云えない
ビールも付いてるかな? と、いささか浅ましいことを考えながら、喜んで僕は好意を受けることにした。
「わぁ、今日はここで食べるの? テレビ見ながらでいいんだよね?」
台所の横のテーブルでなく、居間での食事に、たくろうは大喜びだ。
由美子ちゃんは、かいがいしくお手伝い。
「由美子、今日はおりこうさんね・・・・・いつもお願いね」
「おかあさん、由美子、いつも手伝っているじゃない!」
由美子ちゃんは、ちよっとふくれた。
おかずは、ハンバーグだった。
僕が郷里の浜松市を後にしたのは、ほんの二年前のことだ。浜松で洋食といえば、百貨店の食堂で食べた、ライスカレーとハヤシライスだけである。
ハンバーグ、スパゲッティー、グラタン・・・・・そんな、食べ物がこの世に存在するなど、東京に来て初めて知った。確かに世の中は急激に変化している。
「お兄ちゃん、ハンバーグは好き?」
由美子ちゃんが、僕に声をかけてきた。
「うん、好きだよ」
僕の返事に由美子ちゃんはうなずいた。
「どうぞ」
そういうと、茜さんは僕にビールを勧めた。そうなんだ、ビールが付いていたのだ。
「ヒロシさんは、食べ物の好き嫌いはあるの?」
茜さんはニッコリ笑いながらたずねてきた。
「僕は、好き嫌いはありません」
『男は、厨房にはいるな! 男は出されたものを黙って食べろ! 食べ物の旨い、不味いを云うやつは男の風上にもおけん!』
死んだ祖父に、耳にたこが出来るほどいわれて育った僕である。好き嫌いがあるはずがない。
「たくろう! 聞いたでしょ、好き嫌いはだめよ」
たくろう君は、聞こえないふりをして、テレビの方を見続けていた。
渋谷の、ハチ公前の広場をわたり、道玄坂を登っていくと、右手に「百軒店」呼ばれている一角がある。
入り組んだ細い路地が、縦横に走っていた。
ポルノ映画館、ストリップ劇場、連れ込み旅館が連なる猥雑な街であったが、その中に感じの良い喫茶店、レストラン、バーも数多く存在した。
レトロな雰囲気の、暗く落ち着いた喫茶店に、僕と早苗は座って話し込んでいた。
彼女はジーンズを履き、白い襟の付いたブラウスを着ている。その肩に薄手のピンクのセーターを掛け、長い髪をヘアーバンドで止めていた。
『早苗はなんて、素敵なんだろう!』
僕はいつもの、ジーンズにギンガムチェックのシャツである。
店内には小さなカウンターがあるほかは、すべてボックス席だった。「エデンの東」などの映画音楽が、いつも静かに流れている。
「漱石の文学評論、あれはすごいと思う、日本人の書いた英文学論の中では最高よ!」
早苗は、端整な顔と、少しきつい眼で僕を見ている。
彼女は、某有名私立大学で英文学を専攻する学生だ。
一方僕は、某三流大学で経済学を専攻していることになっている。
と、云うのは経済学の勉強など、ほとんどしていないに等しいからだ。
「漱石は一応読んでいるけど、文学評論は知らないな・・・・・」
僕が読んだことがあるのは、小説だけである。
「英文学を語るときは、漱石は避けてとおれないの。そのぐらい彼の貢献度は高いのよ、その中でも、文学評論、あれは最高・・・・・」
早苗は、熱く文学論を語り続ける。しかも、きわめて論理的に話しをすすめる。
僕は聞き役に徹するほかはない。
文学論をする相手として、僕がはたして適切なのだろうか?
時々、僕の脳裏には、近くの旅館に誘いたくてたまらない気持ちが湧いてくる。
しかし、とても切り出す勇気がない。
『あーあ、今日も、だめに決まっている』
僕が早苗と知り合ったのは、よく行く図書館でのことだった。
図書館で友達が出来ることは、まずないのである。
その日は天気もよく、僕は外のベンチに腰掛けて、タバコを吸いながら本を読んでいた。
「すみません、一寸よろしいですか?」
僕は、読んでいた本から、声の方に視線を移した。
なんと、声の主は、ニッコリ微笑む美しい女性ではないか!
「えッ、ええ・・・・・なんでしょう?」
「ヘンリー・ミラー。お好きなんですか?」
なッ、なんて答えたらいいんだ? かなりエッチな本だけど・・・・・
「ええ、まあ・・・・・」
僕はきわめて曖昧に返事をした。
「私、まだ読んだことはないけれど、興味があるんです。何て云う作品ですか?」
僕は、かんねんした。それにしても綺麗な人だなー・・・・・。
「これ、南回帰線、です」
「おもしろいの?」
「ええ、まあ・・・・・」
エッチなところに興奮するなど、言えるもんじゃない!
「このまえも、ヘンリー・ミラー、読んでらしたでしょ?」
この人なんで知ってるんだ・・・・・?
「ええ、まえ読んでたのは、たぶんネクサスです」
「友人から聞いたんですけど、過激な表現もあり、とてもおもしろいそうですね?」
僕は驚いた。
ちょっと信じられない想いがした
こんなに綺麗で素敵な女性が、淫らな表現がたくさんある本を、読むことがあるんだろうか?
セックスのことを、考えることがあるんだろうか?
僕の女性に関しての認識は、まったくなっていなかったことは、後日、思い知らされることとなった。
ふたたび、喫茶店のなかである。
薄暗い照明ももと、早苗はビロード貼りの大きなソファーに深く腰をおろし、足を組んで座っている
「ヒロシは、外国文学では、どんなものが好きなの?」
「やはり、ロシア文学かな? 英文学ではモームがいいな、フランスだったらカミユ、いずれにしても、早苗のように、きちんと読み込んでいるわけじゃない。ただ、興味のおもむくまま読んでいるだけだよ」
「チャタレー裁判についてどうおもう?」
なんで、早苗の口からチャタレーなんて言葉がでてくるんだ!
僕は、ほとんどめまいがして気を失いそうになった。
その僕の様子を、早苗は笑いながら楽しむように見ている。
旅館に連れ込んでなどと考えていた、僕が愚かだった。早苗のほうが明らかに一枚うわてだ。
何のことはない、完全に振り回されている。
白いブラウスの胸のあたりが眩しい。
映画音楽が流れ続けている。そういえばここは音楽喫茶だった。
僕と早苗は二杯目のコーヒーを注文した。
「ヒロシのアパートを、一度見てみたいわ?」
「六畳一間の汚いところだよ」
「洗濯はどうしているの?」
「クリーニングに出すか、下着などは台所で洗っている。早苗はどうなんだよ?」
云った後で気づいた。僕はもしかして、女性に下着の洗い方を質問したんだろうか?
気にするふうもなく彼女は答えた。
「風呂場の洗濯機で洗うわよ」
そうか、早苗は風呂付きのアパートにすんでいるんだ! 札幌の出身で、アパートに一人住まいと聞いているが、親元は裕福にちがいない。
「ヒロシは自炊しているの?」
「道具は一応そろっているけど、めんどくさいから、ほとんど外食ですましているよ」
「わたし、意外におもわれることがよくあるけど、料理は得意なの、ほとんど自炊しているのよ」
「へー、今度ご馳走してよ」
「いいわよ・・・・・じゃあ、きょう料理の腕前を見せてあげる」
「今日って?」
「今から、ヒロシのアパートに行こうよ。そうよ、そうに決めたわ!」
僕は自分のアパートの部屋の情景が、眼に浮かんだ。
洗濯物は干してある。コーラ瓶が転がっており、灰皿には吸い殻がいっぱいだろう。さらにエッチな本まであるはずだ。
なんで今日なんだよ!
でもいいや、早苗が部屋にくるんだ・・・・・。僕は想像をたくましくすると、天にも登るような気になった。
「それに、ヒロシがどんな本を読んでいるか、本棚もみてみたい。本棚をみればその人の性格が想像できるの」
|