「あの時の、思い出しましたよ」
「私は忘れていませんよ。ショックだったんですもの。長いこと水商売をしていますけれど、お店でのちょっとした約束を、色恋抜きで実行なさる方は、まずいらっしゃいませんわ」
その時、たまたまボックスについた彼女が、日本刺繍をやっていると聞いたので、話が弾んだ。じつは、私の母もかなり本格的にやっていたのだ。母の作品が遺品として残っているので進呈すると約束もした。そのうち彼女は、席を外し他の客の席に着いた。ただそれだけのことであった。
後日、私は名刺に記されていた店の住所に、江里子様宛として、母の作品を送った。
私と江里子が話しながら歩くうちに、隣接する乃木神社の境内にでた。ここにも人影はない。銀杏の大木の下にあったベンチに腰を下ろした。
「今日はどうしたんですか。なぜ下関に?」
「同封されていたお手紙に、なんて書かれていたか記憶はありませんか」
「なんて書いてあったんですか」
「『・・・・・もう会うこともないだろうけどお元気で』ですよ。そんなこと言わずに来て下さいと返事を差し上げたのですが、なしのつぶて」
「そうでしたか」
「そうですよ、それで下関に会いに来たというわけ」
そう言うと彼女は、意味ありげに微笑みかけ、私の膝に手を置いた。
「はは、そうですか」
「動揺されませんのね」
「私もいい年です」
穏やかな会話が、私を心地よくさせる。クラブの照明の下で一年以上前に見たときの記憶ははっきりしないが、陽の光に少し眉をひそめる彼女は、綺麗であった。
「奥様とお子さんと、ご家族連れでお墓参りですか」
「見ていたんですか」
「ええ、そっと見ていました」
「どうして、この寺に?」
「私は、お彼岸には必ずお寺でお経を上げてもらうことにしているんです」
「それは、感心ですね」
「若いのに、でしょ。母と、祖父の墓が千葉にあるんですけれども、なかなか墓参りに行けなくてその土地、土地でお彼岸にはお経を上げてもっています」
父親が出ないのに、多少の不自然さを感じたが、私はあえて尋ねなかった。
「それで、下関に来たから覚鹿寺でお経を上げてもらったのですね」
「そうです。毛利家の菩提寺の有名なお寺だと聞きましたから、こちらにお願いしました。そしたら偶然に直江さんを、お見かけしたものですから」
「それで、どうして下関に来たんですか」
「ちょっとした事情で、こちらに来ることになったんです。いずれ直江さんには、ご連絡さしあげようと思っていたんです。今はこちらに勤めています」
そういって彼女は、細い指で名刺を差し出した。そこには “クラブ小夜” と記されてあった。源氏名は江里子のままである。若い頃はともかく、最近はあまりクラブに行くことのない私だが、小夜は知っている。高級クラブであることはむろんだが、同級生の久富がオーナーなのであった。久富は指定広域暴力団、久富組の三代目総長であると共に、私の同級生でもある。
「どんづまりまで来てしまいましたわ」
「どんづまり?」
「そう、本州の果てでしょ」
「なるほどそうだね」
「ここまで流れてしまったわ・・・・・。下関から九州ってすぐ近くなんですね」
「そうだな、関門海峡の一番狭いところは、四百メートルぐらいかな」
「海峡の向こうには何があるのかしら。どんな世界が開けるかしら・・・・・」
「行ってみたいのかい」
「ええ、連れて行って下さるのなら」
「いいよ、今から行くかい」
「そう言うんじゃないんですよ。分かってらっしゃるくせに」
にこっと彼女は微笑んだ。すこし寂しそうな笑みだった。むろん彼女の言うことが分からないわけではない。しばらく会話が途絶えた。少し細い顎を突き出し加減に、彼女の瞳は何かを考え込んでるふうにみえた。
大正石油鰍フ本社ビルは、JR下関駅から、海辺に五分も歩いたところに建っている。海峡に面した、五階の専務室から見える対岸は雨で霞んでいる。
私は先ほどから、ガラス越しに対岸を見るともなく眺めていた。考えようによれば老境に入ったと言える私の人生は、波風もあったが順調に推移してきたとも言えるだろう。
中学三年の受験を控えていた冬。突然の交通事故で父母を失った。茫然自失した私を引き取ってくれたのが、伯父と伯母の夫婦であった。子供のいない二人は、愛情を私に目一杯注いでくれた。
そして今、三代目の社長を務める伯父から、大正石油鰍フ四代目を継いでくれと催促をされている。無理もない話ではある。伯父は八十五歳になり最近ではあまり出社することもなくなっていた。
物思いに耽っているときだった。机の電話が内線の呼び出し音を発した。一階の受付からだった。
「久富様がお見えです」
私は久富が訪問してくることをすっかり忘れていた。
「受付は二人かい?」
「はいそうです」
「では、すまんが君、久富を私の部屋まで案内してくれないか」
「はい承知致しました」
「よー、久しぶりだな」
久富は縦横たっぷりな身体を、部屋の中に運んできた。身長は180センチ以上はあり、私よりは5センチは高い。若い頃の彼は、野獣を思わせる俊敏そうな身体をしていたが、今では肉がたっぷり付いて、その分貫禄と凄みがましている。私は彼にソファーを示した。
「何ごとだい。会社にわざわざ来るなんて今まで無かったじゃないか」
「俺が職場に来るとお前に迷惑がかかると遠慮していたんだが、親友同士旧交を温めるなんてどうかな」
久富はソファーにふんぞり返って、にやりと笑った。職業柄身に付いた態度だろう。親友とはいかないが、私と久富は妙に気の合うところがあった。
「あんまり、温めたくはないな。堅気がヤクザと付き合うと、ろくな事はないからな」
「参ったな。今時、おれにそんな口を聞く奴はお前ぐらいなもんだぞ」
「分かった分かった。ところで、用件は何なんだ」
久富は、これ見よがしに私を見つめる。
「なるほどなー。分かるわい。ロマンスグレーでスタイルがいい、ハンサムな金持ちか」
「お前、何言ってるんだ」
「悪い悪い。実は他でもないんだが、俺が女にやらせてるクラブ小夜を知ってるだろう」「あまり行くことはないが、下関で知らない者はいないだろう」
「ホステスに江里子という女が最近入ったんだが、その女が、俺とお前が友人だと分かると、お前に店に来て欲しいと言うんだ。電話しろと行ってやったんだが、恥ずかしくて電話が出来ないと言いやがる。あんまりしつこく言うんで、次いでの時に話してやると返事をしたよ。それが今日だ」
久富はすこぶる上機嫌そうに意味ありげな顔をした。
「それだけで、お前がわざわざ会社まで俺を訪ねて来るもんか。本当の用件は、北九州の件だろうが」
「まあ、それもあるがな。どうだい真剣に考えてみないか、俺とお前の仲じゃあないか。決して悪いようにはしない。こんなうまい話そうそうあるもんじゃないぞ、しがらみとか色々あるだろうが、すぐにとは言わない考えてくれよ」
「考えてない訳じゃない。お前に言われて色々調べもしてみた」
「で、どうだった」
久富はソファーから身を乗り出した。
「悪くはない。いや、かなり美味しい話しだと思うが、まだその気になれない」
「その気になれよ。社長を継いで打って出ろよ」
「社長か? 継がなきゃいかんだろうな」
「ほんとにお前と言う奴は。分かった、分かった、その気になったらすぐ連絡をよこせよ。それから、広島で何があったんだ、色男め」
「そんな与太話はいいが、お前に聞きたいことがある」
「なんだ」
「たしか、吉村組というのはお前ところの傘下だったよな」
「ああそうだが、何かあったのか」
久富の眼が、探りを入れるように光った。
「べつにどうのこうのと言うわけじゃないが、一寸気になることがあってな」
「何かあったら、俺のところに言ってこいよ」
「いくもんか、堅気が、ヤクザに借りをどうするんだ」
「さすが、俺の友達だ。よく分かってやがる。はっははは・・・・・」
そのあと、とるに足らない世間話をして久富は帰っていった。
私は、久富の来る前の姿勢に戻り、窓辺から海峡を見つめて物思いにふけった。大正石油は文字通り、大正時代から続いた石油販売業である。従業員四百名、ガソリンスタンド三十数箇所、そのほかにタッンクローリ車十数台、海上給油用のタンカーも数隻所有している山口県では最大の業者であるが、対岸の九州には進出していない。祖父の時代に九州の業者との申し合わせがあったそうであるが、風化して随分になり、その事による拘りはない。あるとすれば、何ごとにも積極的になれなくなった、私の精神的な老化かも知れない。
このまま退屈な時間にまかせて、命が終わることを私は望んでいる。四十年かけて飼い慣らしてきた心の闇も、いまでは表面に出ることは無くなっている。
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