海  峡
<3>



 
 安逸さに流されるのに慣れた私の心が、何となくざわめく。何かが変わり始めた感じがする。取り巻く環境のせいか、あるいは私を原因に渦が起き始めているのかも知れない。
 歓楽街の華やかさも年々寂しくなっていくようだ。久しぶりに街をぶらぶら歩くからとくにそう思うのだろう。時間は十時をまわっている。残業をして仕事の切りが付いたところでふと、久富の言ったことを思い出した。行ってみようと言う気になったのは、江里子という女に興味を感じたからかも知れない。どことなく不思議な感じのする女だった。
 雑居ビルのエレベーターでは、酔客とホステスが嬌声をあげる。狭い箱の中は、熱気でムンムンしている。この熱気はどこから来るのだろうかと訝しんだ。ドアがあいた。
「失礼」
 と言って降りたのは私一人であった。降りた場所からすでに店内である。ビロードを張った長椅子と、大きな花瓶には生花が溢れていた。
 ビルの四階、フロアー全体が“クラブ小夜”になっている。下関では随一の高級クラブだから、客によっては仕方なしにこの店で接待することが年に二三度はある。私は料理屋で静かに酒を酌み交わす方が性にあっているのだが、そういうわけにもいかない。
 正面のチーク材で作られた重量感のあるドアを開けた。 
「いらっしゃいませ!」
 ホステスではない紺の制服を着た若い娘と、蝶ネクタイのボーイがお辞儀をする。

 ボックスに案内されると、薫ママがすぐに挨拶に来た。和服に小太りの身体を包んでいる。愛想がよく、人を逸らさない会話はさすがにプロのものである。男好きのする女ではあるが、手を出そうという勇気ある男はまず居ない。久富の女であることは誰もが知っていることであった。
「専務、お久しぶりでございます」
 ママは微笑むと、白地に薄い青みがかった模様の和服の前で手を軽く合わせ、軽くお辞儀をした。
「やあ、どうも」
「お一人なんて、初めてじゃなかったかしら。失礼いたします」
 向かいに腰を下ろすと、ママはかるく小袖を押さえ、小気味よく水割りを作りはじめた。
「久富に誘われたんだよ」
「江里子ちゃんでしょ、すぐに来てもらいますからね」
 意味ありげに首を少しかしげた。明らかに営業用の人におもねる所作だ。私は煙草を深く吸い込んだ。
「久富に言ってくれ、お前が来る必要はないと」
「えっ」
「この店に入った時、連絡したんじゃないのか」
「お見それ致しました」
 そう言うと、薫ママは手を掲げてボーイを呼び何か耳打ちをした。
「お見それする必要はないが、当たらずといえども遠からずじゃないのか」
 意味ありげに言った私の言葉に、一瞬、ママの瞳が鋭い光を宿した。

「いらっしゃいませ。直江さん来て下さったんですね」
 江里子だった。襟ぐりの大きな、黒っぽいロングドレスに長い髪を自然に垂らしている。真珠のネックレスと首筋が艶やかな雰囲気を醸し出していた。私はドキリとした。心を引かれるものを感じた。ほのかに危険な匂いがする。
 私の左隣に彼女は席を取った。
「専務、江里子ちゃんから聞きましたよ、刺繍の話しを、素敵な話しですね」
「そうですよママ、私感激してしまって一生懸命お礼のお手紙を差し上げたんですけど、お返事を下さいませんでしたわ」
「江里子ちゃん、それで下関まできたの」
「そうなんです」
「そういわれちゃ仕方ないわね。専務は私のお客さんだけど江里子ちゃんに譲るわ」
「俺の意志はどうなるんだ」
「ホホホ、専務の意志は関係ありませんのよ。江里子ちゃんのお客さんになったんだから、ちょくちょく顔を出して下さいませね」
「直江さん、今後ともよろしくお願いします」
 ごくありふれた会話が交わされていた時だった。ボックスの隅に控えている男が眼に入った。ママも江里子も気づいてはいるが、知らぬ風を装っている。

 見つめる私の視線を感じた男は、おずおずと近寄ってきた。
「せ、専務・・・・・」
 思い切ったように、声を掛けてきたのは常田だった。うつむき加減に肩を落として突っ立っている。
「おお、お前か、そんなところに立っていないで、まあ座れ」
「い、いいんですか」
「いいも何も、目障りだから座れよ」
 ママが立ちあがり、席に導く。そばの江里子が、常田の水割りを作り始めた。ママの様子がいつもとは明らかに違う。いつもは、席ごとに挨拶をして回るのだが、今日はこの席を動こうとしない。
「ママ、此奴はこの店によく顔をだすのか」
 私のママに対する質問に驚いたように常田が返事をした。
「専務、とんでもありません。私なんぞがこの店の常連であるはずがありません。時々、親分に連れてきてもらうことがある程度です」
 常田は自分の言葉が不自然な事に気づいていない。まれに、組長の吉村に連れてきてもらうことがある。では、今日は何と説明するつもりだろう。私は彼を軽く睨んで言った。
「吉村か」
 私の言葉を待っていたかのようにすぐに返事が返ってきた。
「はい、そうです。専務は親分をご存じですか」
「何度か会ったことがある。今この店にいるんだろ、呼んできたらどうだ」
「は、はい。よろしいんですね」
「ああ、いいとも。その為にお前は俺に挨拶に来たんだろうが」
「えっ、まあ・・・・・」
 常田は慌てて、奥のカウンターに向かって急いだ。私はママを見た。彼女は眼を合わせようとしない。久富が、突然事務所を訪れたときから続く一連の流れであることは間違いない。
 江里子を見た。彼女は私の視線を受け止め微笑んだ。覚悟があるというか不思議な女であることは間違いない。あるいは彼女と出会った覚鹿寺の境内から物語は始まっていたのかも知れないと思った。

「直江さん、ご無沙汰致しております」
「やあ、お久しぶりです」
 席に来ると吉村が慇懃に挨拶をした。私は立ちあがることなく座ったままで挨拶を返した。細身の身体に黒っぽいスーツ、そしてネクタイ。一見サラリーマン風であるが、少し吊り上がった眼が剣呑な光を宿している。陰のある女好きのする、いい男である。四十そこそこの年齢で代紋を背負い組を束ねているのだ、やり手であることは間違いない。水商売の女にとってはたまらなく魅力的のはずだ。
 私は江里子を見た。彼女は先ほどと変わらぬ眼で私を真っ直ぐに見つめている。ママは吉村の水割りを作っている。何かせずにはいられないように見える。男の客三人、普通だとホステスをもう二人は呼ぶはずだが、彼女はその気配も見せない。場の空気は張りつめている。

「直江さん、趣味の魚釣りの方はどうですか」
 来たか、と思った。しかも、極めて単刀直入に、この吉村という男の性格なのだろう。なまじの素人なら、この刃を突きつけた質問にはたじろぐはずだ。彼は自分の言葉の意味を知っていて、あえて私に投げかけたのだ。
「うーん、相変わらず時々は行くよ」
「いつも、お一人だと窺っておりますが」
「ああ、一人だ。船で沖まで出てそのままぼんやりしていることが多くてね。とても付き合ってくれる暇人はいないのだよ」
「なかなか良い趣味ですね。私も暇が出来たら、直江さんにあやかりたいものです」
 私は魚釣り用に小さな漁船を所有している。仕事の関係で親しい漁業組合に頼んで、港の片隅に係留させてもらっている。組合員ではないものの、漁協に積立金をして施設を使う許可も得ている。
「今でも、出来るだろうが。中古の漁船なら新車一台分の値段で幾らもあるぞ」
「ええ、まあ、私は朝が弱いものですから、ちょっと無理でしょうね。普通、朝は何時頃に出港するもんですかね」
「季節にもよるが、午前四時頃かな。夜明け前であることは間違いないね」
 吉村は私の言葉、顔の表情を真剣に伺っている。ヤクザの直感で、何らかの感じを掴もうとしているのが解る。
 常田は横で息を潜めている。ママと江里子も身動きせずに黙ったままだ。
 私は彼の探りに乗ることにし、それとなく自分の気持ちを匂わせる。ヤクザ同士の抗争など興味が湧くはずもなく、面倒くさいことには関わりたくはない。

「直江さんも隅にはおけませんね。江里子から聞きましたよ」
 しばらく会話が続いたあと、吉村の声から緊張感がとけた言葉が投げかけられた。と同時に迂闊な物の言い方をした。
「ママからも言われたんだが、ちょっとしたことで贈り物をしただけで、どうってことはないよ」
「そんなことはありません。ほんとうに嬉しかったわ」
 場の空気が和やかになったせいか、江里子が口を挟んできた。
「ちょっとした心遣い、これがもてる秘訣なんだよな。参りましたよ直江さん」
 吉村が軽口をたたき出した。この男は一時、対立する九州のヤクザの追っ手を交わすため広島に潜んでおり、久富がした手打ちにより、帰ってこれたのはつい最近だと聞いていた。彼の物言いから、江里子と関係が繋がった。
「吉村さん、専務さんは、江里子ちゃんのお客さんになったんですよ」
「へえ、ママそれは本当かい。ママが譲るなんて初めてじゃないのか」
「そんなことは、ございませんことよ」
「いずれにせよ、江里子。思いが叶ってよかったな」
「まだ、思いは叶っておりませんわ」
「はっはは、直江さん。そう言ってますよ」
 吉村はすっかり安心したようだ。彼が探りを入れてきた理由は解っていた。だいぶ前になるが、釣り船で沖に出るため、岸壁に沿って船を走らせていた時だった。岸壁の上で、何かを投げ込む不審な人影を見かけた。まだ夜は明けきっておらず、二人の人影の人相は解らなかったが、先方からは私の船は確認できた筈だった。
 新聞記事が出たのは、一週間後であった。その場所から、コンクリートブロックで重りを着けられた男の死体が発見されたのである。
 後から知ったのだが、時を同じくして吉村は広島に身を隠したのだった。

 閉店の後、四人で近くの寿司屋へ行った。吉村は常田に何か耳打ちをして、早めに帰ったため、ママと江里子そして常田との四人だった。
「ママ、ご馳走になるよ」
「まかせて下さいよ」
 薫ママはそう言うと、和服の帯をポンと叩いた。寿司屋の勘定の最低十倍は、クラブ小夜に落とさねばならない。これは暗黙のルールであった。
「大将、大事なお客さんだからね。頼むわよ」
「へーい」
 寿司屋の大将は手慣れたものである。阿吽の呼吸とでも言うのだろうか。
「あっ、いつもの通り、こちらでやるから、氷とグラスを四つお願いね」
「へーい」
 江里子が水割りを作り始めた。氷をかき混ぜるマドラーを小刻みに動かす。細く白い指が、私の心を惹き付ける。吉村は決着が付いたと思って先に帰ったのであろうが、私には物語はまだまだ続き、本当の山場はこれからではないかと、江里子の横顔を見ながらふと思った。何故か惹き付けられる横顔だ。こんな気持は今まであまり経験したことがない。
「おい、常田、何とか言えよ。さっきから黙ったままじゃないか」
「専務さん、いじめちゃだめよ。常田さんもしっかりしなさいよ、この私が付いているんだから臆しちゃだめよ」
「はい」
「常田、お前、吉村に飼い慣らされたな」
「と、とんでもありません。オヤジは本当に俺に良くしてくれます。半端もんのこの俺に・・・・・」
「じゃ、俺はどうなんだ。お前に良くしなかったか」
「そ、そんな、専務は俺を拾って・・・・・」
 常田はうっすら目に涙を浮かべた。私は彼の眼をみて思った。幸薄い男だ、そしてむしろ、こういう男こそ危険であると。
 我々のやり取りを聞いている間、江里子はうっすら笑みをたたえながら一言も発しなかった。
 寿司屋を出たのは、午前二時を回っていた。ママがタクシーを拾おうとするのを制して、私は歩き始めた。自宅までの三十分の距離を歩くつもりだ。
 歓楽街から外れた。月が出ていた。満月に近い気がする。青白い光が道と暗い屋根瓦を照らしている。これでさかりのついた猫の鳴き声でもあれば、一編の詩の世界だなと想いながら歩いていく。深夜に物思いに耽ってて歩くのも久しぶりのことだった。

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