海  峡
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 内線の電話が鳴っている。ふと時計を見上げると午後四時、時間通りだ。
「はい」
「専務、江里子さんと仰る方からお電話が入っております」
「分かった」
 江里子は会社に電話を入れるようになっていた。最近は、持ち運びが出来る電話機が普及し始めたようだが、まだ持とうという気にはならない。
 会社を出て、関釜フェリーのターミナルに向かった。最近は仕事をしていても、時々、彼女のことが頭をよぎる。ふとした何気ない時にも思い出す。
 江里子が手をふっている。タクシー乗り場の近くだ。身体の線が浮き出るような、薄手の黒いロングドレスを着ている。店に出勤するスタイルだ。風になびく長い髪をかき上げ、嬉しそうに近寄り腕を組んできた。そのまま、タクシーに乗り込む。
「今日は何時の出勤なんだ」
「九時ですよ」
 同伴出勤が九時ということは、彼女の売り上げは、店でもトップクラスのはずである。「時間はあるな」
「たっぷりと、ありますよ」
 江里子は甘ったるい声でそう言うと、しなだれかかり、私の肩に頬を預けた。タクシーは関門橋を渡り、裏門司のホテルに向かう。下関の人間がお忍びでホテルを使う場合は、海峡を渡る。北九州の人間はその逆の行動をとる。車で三十分で日常生活から離れた感覚になれるのだった。

 裏門司のホテルからは、山が視界を遮り対岸を見ることが出来ない。ホテルの窓辺で並んで椅子に腰を下ろし冷たいビールを流し込んだ。江里子は波の穏やかな瀬戸内海を遠くに眺めている。夕日が眩しいのか、眼を細くした横顔が物思いに耽っているように見えた。「何を考えてるんだ」
「ちょっと、思い出に浸っていたの。直江さん、私のことを聞いてくれる」
「いいよ」
「どうしたんだろう、身の上話をしたくなったわ。いままでこんな気持になったことはないのに・・・・・あなたのせいかしら、それとも私の人生が終わるとか・・・・・」
「興味あるよ、言ってくれると嬉しいな。君は何処で生まれたんだい」
 江里子はビールを喉に流し込むと訥々と話し始めた。彼女の生まれたのは南房総のJR岩井駅から少し離れた、岩井袋という半島の海岸であるという。内房の海は目の前の瀬戸内海と同じように穏やかな海だったそうだ。

「本当に海岸なのよ。砂浜から直ぐのところの岩陰にあばら屋があったの、そこが私の生まれ育った家だったわ。お爺ちゃんと母の三人暮らしだった。父はいないの」
「いないのって、亡くなったのか」
「違う。私生児、今で言うところの婚外子で、母が言わないものだから名前すらしらないの」
「お母さんは、どんな人だったんだ」
「おとなしい人。お爺ちゃんの側に、陰のように寄り添っていた。お爺ちゃんは過去のことは一切喋らなかったけど、お母さんがふと漏らしたところによると、職業軍人だったらしいの。痩身で背筋が伸びていて、けっこう素敵だったわ」
 祖父と娘と孫。三人の海辺での、静かで穏やかな生活が想像できた。
「生計は何で立ててたんだい」
「お爺ちゃんは竹職人なの、一日中家にいたわ。竹職人って変でしょ、竹細工をしていたわけではなく、竹を裂き、磨き、ひごなどの半製品を作っていたわ。どうしたわけか頑なに、竹細工は作らなかった。母はというと、毎日お爺ちゃんの側で、籠などの竹細工を作っていた」
 その母親が、小学校六年の時亡くなり以後、高校三年の時、祖父が死ぬまで二人きりの生活だったという。
「わたしけっこう器用だったから、母に教わった竹細工を作って、トラックで竹を運んでくる人に渡して小遣い稼ぎをしていた。お爺ちゃんは、丈夫な前掛けをして、一日中座ったままで、黙々と竹を裂いたり、削ったりして、ほとんど口を聞くことはなかった」
 私の頭に、南房総の鄙びた海岸の情景が拡がってきた。岩陰のあばら屋に、少女と祖父がひっそり暮らしている風景が。世間から隠れる生活が、絵画のように映る。

「あっ、思い出したわ。時々、お爺ちゃんブツブツ言っていたので、耳を澄まして聞いてみると、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・・・・と、念仏を唱えていたのよ」
 祖父は死ぬ間際に江里子を呼んで、この地を離れて東京へ行けと言い残してこの世を去ったそうだ。驚いたことに祖父の預金通帳には五百万円以上の金額が残されていた。祖父の死から暫くして、あばら屋は取り壊されることになった。国有地の上に建てられた不法建造物だったという。
 その後、東京に出て働きながら、好きな工芸の専門学校に通っていた。しかし、世間知らずのうえに、なまじっか顔立ちが良かったせいもあり、よくあるパターンでヤクザに手込めにされ、仕込まれて夜の街に出ることになったそうである。
「わたしどうしたのかしら・・・・・何故こんなことを話したのかしら」
 江里子の表情が変わった。海を見つめていた眼を、私に向けて真剣な顔をした。どうやら本当に自分でビックリしたのかも知れない。 
「まさか、名も知らぬ父親の面影を私に見たとでも言うのかな」
「そうかもしれない・・・・・」
「それは、絶対ないと思うよ。私はこれから君を抱くのだから。それとも、父親でいた方がいいのかな」
「いじわる・・・・・」
 しなだれかかってきた江里子を抱き上げて、立ち上がると優しく唇を重ねた。彼女の間接から力が抜けた。脱力し、のけぞった細い身体を私はベットに運ぶ。
「安らげる、本当に安らげるわ・・・・・」
 耳元で彼女は微かにつぶやく。あと一時もすれば、彼女は私の腕の中で狂おしく悶え始めることになるだろう。この激しい豹変ぶりに最初はいささか戸惑ったが、今では愛おしくてならない。年甲斐もなく恋情に囚われてしまったのだろうか。
 まだ、五時半を回ったところだ。九時まで時間はたっぷりある。


 戦前は関釜連絡船、大陸への窓口として発展し、戦後は以西底引き、捕鯨基地として栄えたこの街には、豊前田という歓楽街がある。
今は昔の面影もないが、それでも高級料亭はまだ生き残っている。その一室で私は、久富と先ほどから盃を重ねていた。欅の重厚な台の上には、もう一人用の席が設けられていたが、まだその場に座るべき人間は来ていない。
「しかし、相変わらずお前は飲んでも普段とまったく変わらんよ。たいしたもんだ、良いヤクザになれるのだが、惜しいぞ」
「なにが、惜しいもんか。ヤクザなんて真っ平だ」
「ハハハ、相変わらずだな。お前の、その覚悟がまた良い」
 普通、久富のようなヤクザにとって、私などは美味しい餌であることいは分かっている。喰いたくてしかたがないだろう。しかし、奴には私が喰えない。昔からの幼なじみのせいではない。そんなものは彼らにとって、一番利用したい事実であるだけだ。
 私を喰えないのは隙がないからだ。種を明かせば簡単なことである。欲望を制御している、ただそれだけである。
「酒を飲んでも乱れないのは、お前らに揚げ足を取られないように、一所懸命耐えているんだ。そんなこたあどうでもいいが、もうそろそろ来る時間だ、頼むぞ」
「分かったよ。でも何故知りたがるんだ。あっ、惚れたな」
「どう思おうと勝手だ。しかし、溺れると思うなよ」
「あーあ、本当にお前にはまいるよ。だけどおい、女の問題だけはむずかしいぞ」
「解っている。お前に尻を持って行くことはしない」
 義理人情を標榜する極道の世界において、女の問題だけは特別なルールがある。懲役に行くなど留守にする機会が多いせいかもしれないが、単純な義理の関係ではすまない別な掟があるのだ。

「失礼致します」
 女将が、襖の外で落ち着いた挨拶をした。
「どうぞ」
 久富が抑えた声で、そつなく答える。襖が開いた。部屋の中を見た男が、目を丸くしてぼーぜんと突っ立っている。常田であった。無理もない。彼にとって久富は、雲の上の存在で、まともに視線を合わせることすら出来ない存在のはずだ。
「常田、入ってこい」
 常田は震えだした。久富から名前を呼びかけられるなんぞは、想像だに出来なかったはずだ。
「突っ立ってないで、来て座れ」
 久富は、彼の横に用意されていた席を指し示した。
「・・・・・そ、総長」
「いいから座れ。それとも、俺の言うことが聞けないか」
「と、とんでもありません」
 手足を棒のようにして、ぎこちなく常田は座った。
「常田、悪かったな突然呼び出したりして」
「せ、専務・・・・・」
 彼には、今、自分の置かれている状況が掴めていないようだ。
「お前に、いろいろ聞きたいことがあったんだ。尋常な方法では、お前に迷惑が掛かるから、久富にもひと肌脱いでもらったよ」
 常田の瞳にはまだ怯えの色が窺える。
「常田、俺はもうすぐ席を外す。ちょっと用事があるんでな。いいか、直江に聞かれたことは正直に話すんだ」
「正直にと言いましても」
「広島でのことだ」
「えっ!」
 思いがけなかったのか、常田は私の顔を窺うと、俯いてしまった。

 その時、部屋の隅の電話が鳴った。久富は待っていたように膝行して受話器を取った。
『ああ俺だ、つないでくれ』
 彼は内線に返事をすると、私を見て頷いて合図を送った。
『おお、吉村か俺だ』
『常田はなかなか口が堅いじゃないか。いい子分を持ったな』
 久富は我々に聞こえるように、大声で喋る。
『分かっている。変わるからな』
 受話器を手で押さえると彼は富田に言った。
「おい、吉村だ。言いたいことがあるらしい。出ろ」
 差し出された受話器を受け取ると、常田は小声で相づちを打ち始めた。
『は、はい』
『え、ええ、承知しました』
何度か相づちを打つと、常田は席に帰ってきた。
「吉村は何と言っていた」
「は、はい。専務に聞かれたことは、正直に答えろと言われました」
「そうか、お前はそう気にすることはない。肩の力を抜いて楽にしろよ」
 そう言うと、久富はビールを注ぐべく瓶を差し出した。
「そ、総長。とんでもありません」
「いいから、グラスを出せ。膝も崩せ」
 半分、泣きべそをかきそうな顔で常田は、注がれたビールを飲み干した。
「おい、直江。俺は帰るからな」
「ああ済まなかったな」
 目の前の常田は慌てて立ちあがり、久富を送っていった。

 常田は恨めしそうな顔を、私に向けている。
「常田、楽にしろよ。お前が本当に困るような質問はしないから」
「はい」
「オコゼの刺身は嫌いか」
「そんなことはありません」
「だったら食えよ」
 常田は言われた通りに、大皿の上に、薄造りに盛りつけられたオコゼの刺身に箸を延ばした。
「私はフグよりも、オコゼの方が味があって好きなんだ」
「専務、自分も実はそうなんです」
「顔が悪い魚はだいたい旨いとしたもんだ。カサゴも旨いよな。と言うことは、お前の方が俺より味があると言うことか」
「せ、専務、からかうのは勘弁して下さい」
「からかっちゃ居ないさ。俺は褒めてるんだ」
「まいったな」
 富田の気持ちは幾分ほぐれて来たらしく、顔に若い頃の無邪気さが戻ってきた。

「専務、悪いことは言いません。あの江里子という女はいけません」
「江里子のことだと分かるのか」
「そりゃ、鈍い私でもわかりますよ。広島のことだと聞いたときにピンときました。しかも総長までお出ましだったんですから」
「話してくれるな」
「オヤジの許可も出ましたので、なんでも聞いて下さい」
 覚悟が決まったらしい。吹っ切れたような声だった。
「吉村と江里子は、どういう接点があるか教えてくれないか。広島で何があったんだ」
「オヤジと自分が、広島に身を隠したのはご存じですよね」
「ああ、北九州の組織と抗争があったらしいな」
「その通りです」
「その話は聞きたくない」
 私は短く言った。常田の顔に安堵の色が拡がった。
「広島でのことだけ話してくれ」
「はい、承知しました。逃げて広島の組織に世話になったんですが、広島の組織に招待されたクラブに、あの女がいたんです。そして、オヤジとすぐに良い仲になりました。自分にはどうも、あの女が仕組んだように思えてならないんです」
「と、言うと」
「あの女も逃げていたんです」
 吉村の女になった江里子を、東京のヤクザが追ってきたという。江里子もまた身を隠していたのだ。何年もしつこく探してやっと見付けたところをみると、東京の男は、よほど江里子に未練があったらしい。
「なるほど分かった。それで、東京のヤクザを始末したのか」
「そ、そうです・・・・・自分が殺りました」
 私は嘘だと直感した。死体を隠したのは二人だろうが、殺ったのは吉村のはずだ。
「身を隠した先で、あんなことになるなんて」
「吉村は惚れていたんだな」
「江里子という女は魔性の女です。専務、近寄らないで下さい」
「俺の命が危ないというのか」
「それはないと思います。オヤジも先ほどの電話の感じでは、さすがに諦めたことが分かりました。なにせ総長までお出ましになったんですから・・・・・でも専務、あの女だけは不吉な予感がしてしかたがないんです」
 常田は必死に、私を諫めようとした。それは、彼の好意からの発露であることはよく分かった。しかし、私は江里子に益々惹き付けられていく自分を自覚させられた。

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