海  峡
<5>



 
 気怠い午後の光が薄いレースのカーテン越しに入ってくる。マンションの七階、江里子の部屋のベットの上で、心地よい疲れにまどろんでいた。
 江里子は私の胸に顔を埋め、歓楽の嵐が過ぎた後、海の底に潜むような余韻を楽しむかのように、眼を閉じたまま、深く長い呼吸をしている。吸い付くような感触の、白くきめの細かい肌が、うっすら湿っている。長い髪はばらけ、頬から胸に掛かっている。
 この部屋に来たのは何度目だろう。しかし、昼間は初めてであった。淡い自然の光が壁を照らす。
 私は見つめていた。刺繍の作品が額に入れられ壁に掛かっている。母のものだ。母は死んだ時、ずいぶん作品を残していた。欲しがる人も多く、ほとんどが散逸し最後に残ったのはこの作品であった。
 私はこの作品に魅入られたらしく、三十年近く常に身近に置いていた。妻の妙子が訝しがるほどのこだわりようであった。十年ほど前だったか、突然この作品が自分とは関係ないものだと思った。なぜあれほど魅入られていたのか、その感情は何処かへ飛んでいったとしか思えなかった。そして、江里子に送るまでは物置に放り込んでいたのだ。

「刺繍を見てるの?」
 江里子がうっすらと眼を開けた。
「ああ」
「この作品、不思議だわよね。こんな日本刺繍は初めて見たわ」
 快楽の余韻を楽しんでいるのか、江里子の眼は虚ろで焦点がずれている。刺繍は、砂浜に朽ちた伝馬船の風景だった。夜になる前の浜辺は、消えゆく夕日を表現したものか、どす黒く赤い空になっていた。
「日本刺繍は空間を凄く大切にするの。それで静寂を表現するのが良いとされているのよ」「そうなのか、私はそんなことは全然知らない」
「・・・・・でもね・・・・・、この作品は全体を刺し込んでいる。こんなの初めて見たわ」
「そうなのか」
「そうよ、お母さんのことを教えて下さる?」
 江里子は、私の耳に息を吹きかけるように言った。
「ああ、構わないよ」
「お母さんて、綺麗だったでしょ。それも、並はずれて壮絶なくらいに」
「なぜ、そう思うんだ?」
「この刺繍と、あなたからそんな感じを受けるの」
 母は、中学生の私の眼から見ても、本当に美しい人だった。ほとんど着物姿で毎日部屋で刺繍を刺し、縫っていた記憶がある。家事はお手伝いに任せ、ほとんど部屋の中に籠もっていた。肌が極端に白く、細い身体は結核を患っていると人に誤解されるほどであった。
 江里子は旨いことを言うと思った。壮絶な美しさ、という表現が凄く当てはまる。

「ご両親は、事故で亡くなられたと聞いたけど」
「ああそうだ、自動車事故だった」
「自殺じゃなかったの? お父様を道連れに・・・・・」
「えっ、何故そんなことを!」
 私は江里子を抱き寄せた。ガクンと首が折れた。まだ虚ろな眼がカッと見開いた。彼女の言葉は私の胸を貫いた。厳重に蓋をしていた私の心の闇が口を開け掛けている。
「あの刺繍の、赤黒い空の色なんだと思う。あんな色は日本刺繍では使わないの。気になったので、なんで染めた色か、調べたの」
「分かったのか?」
「分からなかった。いろんな人に聞いたけど。ところがある日ふと思いついて、自分で白い絹糸を染めてみたの」
「分かったのか?」
「間違いなかったわ。あれは血で染めた色なの」
「血・・・・・」
「そうよ、それも生理、月経のときの血なのよ」
「あっ!」
 弾けた。私の視線は刺繍に囚われ、眼を見開いたまま、身体が小刻みに震えて止まらない。血液が逆流を始めた。飼い慣らしてきたすべてが音をたててこわれて行くのが聞こえてくる。
「どうしたの」
 膝に手を置き、江里子が声を掛けてきた。心配そうに眉間に皺を寄せている。破裂した激情に身を焦がすと、私は背後から彼女にのし掛かかり組み敷いた。悲鳴を上げながら、彼女は私の腕の中で暴れ回る。私の心に異変が生じ、だならぬ気配を感じ本能的に逃げようとする。ベットが軋む。彼女の動きは、私の嗜虐の炎に油を注ぐことになった。両手を掴みねじり上がると、彼女の後穿をむさぼるように舐めあげる。彼女は悲鳴を挙げ続ける。
「ひいいッ!!」
 喉が裂けるような声をあげた。私が硬直したものを、彼女の後穿ちに突き刺したのだ。容赦のない感情の放出であった。

 白いしなやかな肉体が横たわっている。涙に濡れた瞳が私を見つめる。陵辱を受けた悔しさは見えない。シーツには血痕が散っている。肉体が裂けたあかしだ。
「ひどい・・・・・」
「恨むか」
 江里子は白く、か弱い身体を折りたたみ、膝を抱いて震えている
「恨むわよ。殺してやりたい」
「そうしたいなら、そうするがいい」
「出来ないこと、分かっているくせに」
 私には分かっていた。彼女が今、悔し涙を流しているのは、身に加えられた陵辱ではなく、それを忌避できず、むしろ欲してしまう己の性癖に対してであることを。
「どうしようもないの。どうすることも出来ないの」
 彼女の肩が小刻みに震える。私はそっと彼女をかき抱き、首筋に接吻をした。
「私も、あなたや、あなたのお母様と同じ側の人間なの。刺繍を見るたびに、これを縫った、あなたのお母様のことを思っていたわ。そして、どうしてもあなたに会いたくなった。お寺の境内で会ったときに確実に分かった。あなたは私の思ったとおりの人だった」
「あれは、吉村に頼まれてのことだったんだろ」
「そうよ、しかし、吉村のことなどどうでもいいのよ。あなたに逢える機会をうかがっていたのよ。ただ、彼岸にお寺でお経を上げてもらうのは、祖父が死んで以来の習慣なのは本当よ」
 その時、来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。あたかも、二人の会話を邪魔するような響きだった。
「吉村に決まっているわ、ほっとけばいいの」
 執拗にチャイムが鳴っていたが、そのうち諦めたらしく静かになった。

「風呂を使うか?」
「いえ、もう少しこのままでいたい」
 私は洗面所に行きタオルを濡らすと、ベットの上の江里子の身体を、首筋から胸にかけて拭いていく、きめ細かい肌は濡れたようにしっとりしているが、タオルの水滴をはじき飛ばす。
 壁に掛けられた、母の作品が私たちを見下ろしている。
「お母様は、なぜ、朽ちた伝馬船を題材にしたのか考え続けたわ」
「答えは、分かったのか」
「たぶん・・・・・海を越えてどこかに行きたかったんだけど、伝馬船は朽ちて使えない・・・・・こんなことしか分からない。あなたは、この刺繍を私に下さる数十年、手元に置いていたんでしょ」
 私には、彼女に答えるすべがない。彼女に送るまえに、母の情念とは、決別出来たと思ったのだ。血は克服したと思っていたのだ。しかし、違った。
 あの赤黒い空の色が、母の月経の血で染められていたとは・・・・・。

「内房の岩井袋のあばら屋を思い出すわ。海岸に朽ちた伝馬船も捨てられていた。ゴミが流れ着くことも多く、私たちはよく早朝に掃除をしていた。時には犬や、猫の死骸が流れ着くことも多かった。お爺ちゃんは、穴を掘って丁寧に弔っていたの。ナムアミダブツ、ナムアミダブツと唱えながらね」
「君にとって、お爺ちゃんは大切な人だったんだね」
「母が死んで、七年間二人きりだった。学校にも行ったし、成績も良かったけれど、私の記憶に残っているのは、お爺ちゃんが竹を割っている姿なのよ」
「そんなにお爺ちゃんが好きだったんだ」
「そう、その時は分からなかったけど、あなたに抱かれた今は、よく分かる・・・・・同じ気持ちなんだと」
 堰が切れたように、江里子は話し続けた。今まで誰にも言ったことが無いというのはたぶん本当だろう。彼女が私に語りたいのは理解できる。『私と同じ側の人間』と私のことを言った。彼女の直感は当たっている。私は新たな予感に襲われた。このままで行くと二人は、朽ちた伝馬船で海に乗り出していくことにかもしれない。
「何が分かるんだい」
「私がお爺ちゃんに感じていたのは恋情だったのよ。そして、きっと母も・・・・・」
 無性に愛おしく、たまらなくなり江里子の細い身体を抱きしめた。
「うっ・・・・・つ・・・・・」
 彼女が呻き声をあげる。私は、言いしれぬ激情にかられ、彼女の骨が軋み、悲鳴をあげそうになるほど、腕に力を込めた。

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