北 に 潜 む
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 襟巻きに首を埋め、冷たいコンクリートの上を薄汚れたスニーカーを履いた男が歩いている。退屈な時間が流れていくと見えた次の瞬間、実にたあいない出来事が彼を待っていた。足下の小石に捉えられる様に男は立ち止まったのだ。住宅街である。静かと言うより、寂れたといった方が適切な海岸に向かう通りであった。
 函館の三月、春の足音はまだ聞こえてこない。鄙びた街路では寒風が吹き荒み、人影も見あたらない。背を丸めながら小石を見つめる男は、名を太田浩之と言う。薄曇りの風景に溶け込むような濃い灰色のジャージの上下で身をくるんでいる。ジャージの下には、スエットスーツを着込んでいるらしく、黒いマフラーの縁から厚手の生地が覗いて見える。
 頭髪は数ヶ月間、伸ばしたままの状態らしく、十八歳という年齢の割には若者らしい生命の息吹が感じられない。背丈も肉付きも、ごくありきたりで目立ったところはない。色彩と言えばジャージの側面を走る、オレンジのストライプだけだ。彼は身体を抱え込むように腕を組んで足下を見つめている。

 長い時間が経過したように思えたが、実際のところは、ほんの一分ぐらいしか経っていないかも知れない。浩之はゆっくり腰を降ろすと、組んでいた腕を解いた。その間、彼の視界には小石だけしか映ってなかったようだ。ためらいがちに手を延ばすと石を拾った。丁度手の平に収まる程度の、何の変哲もない黒っぽい丸石だった。
 浩之は首を廻し壁を見る。そこには道に沿ってモルタルの塗り壁が続いていた。壁には多くの丸石が埋め込まれている。彼は、顔を近づけると塗り壁を子細に点検し始めた。眼には輝きが伺えないが、意外に整った顔立ちをしている。
「あった!」
 ごく小さな呟きが洩れた。壁に穿かれた穴を見付けたのだ。彼はその穿ちを左手でそっと撫で、反対の手で丸石を嵌め込んだ。ピッタリ合う。この穴から落ちたことに間違いはない。そおっと手を離す。しかし、彼の意図に反して丸石は壁に留まらず手の平に落ちる。 同じ動作を何度か繰り返すが、結果は同じだった。彼は丸石をじっと見つめていたが、そっとポケットにしまい込み、何ごともなかったように、海岸道路に向かって歩み始めた。薄汚れたスニーカーでトボトボと歩を進めていく。

 海岸道路を横断すると、護岸の堤防に沿って歩道になっている。堤防の上に登ると、浩之はそのまま吹きさらしの中を歩き始める。海からの冷たい風が彼の身体を嬲る。海岸の敷き詰められたようなゴロタ石に波が砕ける。逆巻く波は塩の花を岸辺に打ち上げている。浩之の遙か後方では、立待岬が津軽海峡から吹き付ける強風に耐えているようだ。
 空はどんよりとした薄曇り。荒涼とした風景の中に彼は立ち止まった。砕ける波を見つめる彼の眼に、かすかに光が灯る。彼はポケットから丸石を取り出した。手の甲が白くなるほど、石は力一杯握りしめられていた。指の間から、ほのかに湯気が立っている。
 長く伸びた前髪が彼の額を叩く。風に飛ばされないように両足を踏ん張ると、彼は砕ける波に向かって丸石を思いっきり遠くへ投げた。石は大きく弧を描いて飛んでいく。着水の瞬間は分かるはずもなく、砕ける波間に丸石は波間に消えていった。どのような思いで彼は石を放ったのだろうか? 背を丸め、肩を上下させながら荒い息を吐き続けていた。


 浩之は、先ほどからネットゲームにのめり込んでいる。やり始めたら止められなくなってしまうのだ。ゲームは確かにおもしろい、しかし、熱中するという感じではなく、パソコンの前に座るとついつい始めてしまう。そして、始めると止められなくなってしまうのだった。怠惰な時が流れていく。
 この部屋にパソコンの他に座り机がある。机の上には色鉛筆が散乱しており、ノートが無造作に置かれていた。ゲームを始めるまで数時間に渡って浩之は絵を描いていた。彼が熱中できるもの、それは絵を描くことだけだった。しかも、大部分の絵は、罫線のない白紙の子供用のノートに描かれている。小学校の時から描き続けたノートは、数百冊の量となり押入にしまい込まれている。彼は希に水彩で描くこともあるが、大部分は色鉛筆で描く。そして、描いた絵を捨てることが出来ないだ。
 机の上には、古いブリキの缶があった。菓子の入っていただろうかなり大きな缶である。その中には、大小様々な色鉛筆が無造作に放り込まれている。
 その他にこの部屋には棚とベットがあるだけである。床には雑誌や本も散乱しているが、不潔という感じはしない。

 市営住宅は2Kでトイレと風呂も付いている。この部屋に彼は独りで住んでいるのだ。二年前までは母親と二人暮らしだった。隣の食堂兼居間として使っている部屋のタンスの上には母親の遺影と、骨壺が於かれていた。遺影は額に入っているわけではなく、サービスサイズのスナップ写真だった。その隣には同じく六年前に死んだ父親の写真もある。
 洗濯物を干すのもこの部屋である。彼がベランダに顔を出すことはあまりない。ベランダは不燃物や大型ゴミの置き場となっている。テーブルの上には夕食の残骸、インスタントラーメンの容器と、湯飲みと箸が無造作に置かれていた。

 時間は、深夜の二時を過ぎている。浩之の叩くキーボードの音だけが聞こえてくる。
 家賃は遅ればせながら何とか払っていた。もっとも、市役所からは何度も立ち退くように催促があったが、彼は居座っている。他に行くところが無いのだった。
 パソコンの上の壁に一枚だけ大きめの写真が貼られている。その他に装飾という物はこの部屋には見あたらない。アラジンの灯油ストーブの炎が揺れている。壁に貼られた写真はムンクの絵画だった。有名な「叫び」ではない。「マドンナ」という裸の女性の半身像であった。
この絵に出会った時の衝撃は、彼を打ちのめした。彼の心中に楔が打ち込まれてしまったのだ。以来、マドンナは彼を捉えて話さない。

 マドンナを見付けたのは、全くの偶然だった。ムンクという画家のことも彼はよく知らない。市立図書館の書架の中に、ムンクの画集はあった。
 高校を一年で中退して家に引きこもり、母親も亡した直後のことである。浩之の心に大きな空洞が開いてしまった。自分では説明の付かない空虚に覆われてしまったのだった。 絵を描く事だけでは、自分の心を支えきれなくなったのか、彼の足は自然に図書館に向かった。古今の画集をむさぼるように見続ける日々だった。その時、一枚の絵が彼の心を捉えてしい、彼の心の深淵を、槍の穂先のように鋭く突き刺した。以来、毎日のようにその絵を見るだけの為に図書館に通った。
 ある日、彼は心を決して図書館の書架の隅に身を潜めた。幾ら決めたといっても、逡巡は激しいものがある。ムンクの画集を抱きしめた彼は、耳を澄まして人の足音に注意を集中した。近寄ってくる足音に、何度も心臓が飛び出しそうに鼓動を打った。
 彼は、ジャージのポケットからカッターナイフを取り出した。ナイフを握る右手は小刻みに震え、ページを持つ右手は汗をかいている。ナイフが紙の上を走る。こめかみが痛むほど鼓動は激しい。そうして、彼は「マドンナ」を手に入れたのだった。
 以来、二年間、浩之は「マドンナ」と一緒に暮らすことになった。マドンナとの二人暮らしに息が詰まりそうになったとき、彼はリサイクルショップで安いパソコンを手に入れた。そして今は、「マドンナ」を見つめることに疲れ、絵を描くことにも疲れた彼を癒すのはパソコンになっている。

 時間は、午前三時を廻った。ネットゲームを止めた彼は、「2ちゃんねる」を開くと初めて掲示板に書き込みをした。毎日のように見る掲示板だったが、書き込んだことはいままでなかった。昼間の出来事が彼に心に微かな変化をもたらしたのかもしれない。
「疲れた…」
 それは短い溜息にも似ていた。返事の書き込みはすぐにあった。
「何時だと思ってるんだ、疲れたらねろ!」
「そういう、藻前モナー…」
「藻前もか、おれも、疲れたよ」
 それは、浩之にとって久しぶりに交わす意味のある会話だった。少なくとも自分に何かを話しかけてくれているのだ。すぐに彼は返事を書いた。
「世の中の役にもたたないで、ただ生きているだけが疲れたんだ」
 すぐに反応はあった。
「穀潰しの厨房野郎! 親の脛を囓るしかない能ナシは、死ね!」
 彼はすぐに返事を書く。
「おれは確かに厨房で穀潰しだけど…親は居ない。友達も誰もいない…」
「おい、どうやって飯をくってるんだ?」
「親が居ないって、両方ともか?」
「いろいろあるさ…マターリと行こうよ…」
 会話が次々に弾む、こんなに会話をしたことは母親が死んで二年間で初めてのことだった。いや、母親ともそれほど会話をした記憶は無い。

 朝方五時を廻ったところで、浩之は眠り込んでしまった。キーボードに被さるように座った儘の姿勢であった。寝顔に微かに涙の跡が見て取れる。
彼は、本当に疲労していた。昼間の丸石事件以後、何かと外界が彼の心を揺すぶったのだ。こんな状況は、近来無かった事だった。

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