北 に 潜 む
<2>



 
 手持ちの金は2万円を切ってしまった。何とか働かねばどこからも金が入ってくる当てはない。
 浩之は測量事務所に向かった。そこは、気が向いた時に仕事がありつける便利なところであった。今日は気のせいか、心が軽い。三時間しか寝ていないのが嘘のようだった。
 測量事務所と言えば当然ながら測量が仕事である。測量技師の指示に従って、彼はポールを持って走り廻る。測量機を覗き込んだまま、技師は手を左右に振って彼に指示を出しなにやら微調整をする。時にはメジャーの端を持って走り距離を測定する。
 道路の計測が主な仕事だから、公的機関から仕事を請け負っているのだろう。しかしそれにしては妙な仕事場だった。
 事務所の窓口の横に、パチンコ屋の景品交換所のような小さい窓口がある。そこから、住所と名前を書き込んだ紙片を中の人間に渡すのだ。中から年配の女性が声を掛けてくる。顔はよく見えないが、その指示に従えばいいのだ。雨の日は駄目だが、たいてい仕事はあった。暫く待っていると事務所の正面から技師が出てきて名前を呼ばれる。そして、車に同乗し何処とも分からず仕事場に連れて行かれるのだった。
 帰ってきて、窓口で名前を言えば今日一日分の日当が渡される。むろん受け取り印が必要で、しっかり源泉税も引かれている。

 この仕事は彼に合っていた。一日ほとんど口も聞かず、技師の命令と、手の平による指示に従えばよいのだった。それにしても測量技師は、揃いも揃って寡黙である。あるいは、語るべき相手ではないと、日雇いの労働者を見下しているのかも知れない。日の暮れるまで彼は、ジャージ姿で駆け回った。
 安くとも日払いで賃金が貰えるのは有難かった。まとまった金の欲しいときには、建築現場の解体作業を手伝った。
 まともに就職しようという気も以前はあった。しかし、なんど試験を受けに行っても必ず落ちるのだった。理由は分かっていた。
 身寄りも、保証人も無いのが原因だろうと思う。しかし、学校時代もそうだったが、彼は人とのコミュニケーションが巧く取れないのだ。彼は人を避け、人も彼には寄りつかない。彼は何時も独りだった。孤独の中こそが彼の安らげる世界だった。
 家賃と光熱費、そして食費以外は殆ど金の要らない浩之は、月の内十日も働けば何とか暮らしていけるのだ。そう、ただ暮らすだけだ。将来のことなどが、彼の頭をよぎることは最近はほとんど無い。

 測量事務所で稼いだ日当で、帰りに米と缶詰、野菜、そしてインスタントラーメンを買い込んだ。台所には、母親の使っていた調理器具がそのままある。これで十日分の食料には十分である。しかし、日当は完全に無くなってしまった。
 暗くなった道を、彼は市営住宅に向かう。昨日とは何かが違っている気がするのだが、彼には分からない。今日も2チャンネルに行ってみようと思うのだが、身体は睡眠を欲しているのは間違いない。この三日間は特に睡眠時間が不足している。頭の芯が痛む。寝れば治ることは彼には分かっていた。
 足取りは重い。お前は何をして居るんだと自問する。しかし、答えを求めようとは思わない。

 帰り道にある一軒のコンビニの前で彼の足が止まった。今朝出かけるときにも眼に付いた張り紙がまだある。夜のコンビニは、あかあかと灯をともし、いかにも健康的に人を誘い込もうとしているように見える。彼の眼を捉えたのは、アルバイト募集の張り紙だった。
 彼はジャージ姿の自分に目をやり、小さく首を振ると自嘲気味にはにかんだ。自分とは明らかに違う世界だと思ったのだ。
 塗り壁の路に出た。彼は片方の手で丸石を塗り込んだ壁を撫でていく。ザラザラとした感触と丸石の出っ張りが彼に不思議な感触を抱かせる。薄暗い街灯の光で彼は探していた。
 あった! 丸石が剥がれ落ち、穿かれたモルタルを、彼の指がいとおしむように這いずる。中身は海の底にある。再びこの穴が塞がれることはないだろう。急に彼を居たたまれないような焦燥感が襲った。

 夕食後すぐに寝込んだ浩之は、深夜の二時に眼を覚ました。三月の函館は寒い、スエットとジャージ姿のまま布団から、モゾモゾと這い出す。昼間働くときも、夜寝るときも同じ格好の儘である。
 蛍光灯は寝る前から灯ったままだ。彼は、アラジンの石油ストーブの蓋を開け、マッチで火を付ける。赤い炎が揺らめく、もう少し時間が経てば炎は安定して完全燃焼するはずだ。しかし、まだ黒い煙が出て、灯油の臭いが漂う。
 彼はパソコンの電源を入れた。使用できるまでの僅かな時間、壁の「マドンナ」を見つめる。
「今日は働いた。だから飯がくえた…俺って、飯喰うだけなんだろうか…」
 真夜中だというのにすぐに書き込みがあった。
「藻前は凄い、働いて喰ったのか…」
「GJ…明日もガンガレ!」
 何故だか、浩之の書き込みにはすぐに返事がくる。人の心を引き寄せる何かが有るのだろうか? チャネラーは鋭い。でまかせや誘いの文章はすぐに見破ってしまう。
「ありがとう、みんな優しいね…でも、ちゃんとした仕事がしたい…」
「ちゃんとした仕事? それって何だ!」
「働いて飯喰うなんてスゲェー、俺なんか…」
「おいら、一ヶ月家から外に出ていない」
「オタクのクズが、キター!」
 書き込みは続いていく、それぞれ本人にとっては深刻な悩みを背負っているんだなあと、浩之は思う。今この時間、掲示板を見ている人間はどの位いるんだろう? しかし、どこに住んでいる誰かは分かるはずがない。
 彼の眼が輝きを持ち始めた。ある種の自信が湧いてきたのに違いない。ほんの僅かではあるが。自分でも人と会話が出来るのだ。そして、間違いなく人が自分に興味を持ってくれている。


「あ、あのー…」
 カウンターの前に出ると、思い切って声を掛けた。
「えっ、…良く聞こえませんが?」
 コンビニの店内だった。浩之にとっては少し照明が眩しい。デイパックを持つ手が小刻みに震えている。彼は伏し目がちで相手を正面から見ることが出来ない。
「どうしたんですか?」
 コンビの中に客はいない。時刻は午後四時を少し廻っていた。彼は先ほどから何度コンビニの前を行き来したことだろう。客のいないのを見計らって思い切って飛び込んできたのだった。店内にはもう一人、大柄な男が商品を棚に並べているが浩之には気づいてないようだ。
「あ、あのー…」
 浩之は、下を向いたまま入り口横のガラスに張ってある求人の紙を指さした。
「えっ、あなた働きたいの?」
 彼は初めて、相手の女性を見ることが出来た。間違いなく美人である。年の頃は二十代後半だろうか、長い髪を一つに束ねキリリとした目元には少し剣がある。
「は、ハイ…」
「シンペイさーん、バイト希望だってよー」
「おーつ、分かったー。ちょっと待ってくれー」
 間延びした低い声だった。

「君か、バイト希望は」
 大柄な男だ。身長は180p以上有るだろう。鼻ひげを蓄えているが、優しい目をしている。年の頃は三十代半ばだろう。
「ハ、ハイ…」
「ふーん」
 そう言いながら男は、浩之の頭から足まで、ゆっくり視線を移動させる。
「ちょっと、こちらに来てくれる?」
 浩之は、従業員用の扉の奥に案内された。割に大きな部屋だが雑然と物が置かれ、商品らしき物も積まれて空間はあまりない。
 炊事場の横に机があり、パソコンと伝票が散らばっている。机の横の椅子を進められた。「履歴書を持って来た?」
「ハ、ハイ…」
 浩之はリュックから、封筒に入った履歴書を取り出した。折れ曲がっているのが気になる。
「へぇー、きちんと写真も貼ってあるんだ…でも、この写真はだいぶ前のものだろ?」
 とがめる感じではない。男は優しい目で穏やかに話す。
「す、すみません…」
「いいんだ、いいんだ。で、コンビニでバイトをした経験は?」
「ありません…だ、駄目でしょうか?」
「駄目じゃないよ。簡単なものだ…でも、上着は制服に着替えるとしても…ジーンズは持っていないのかい?」
 浩之はいつものジャージ姿であった。
「まあ、バイト料が入ったら買えばいいさ」
「そ、それって」
「ああ、明日から来てくれるかい」
「い、良いんですか!」
 浩之は眼を見開き、甲高い声を挙げた。履歴書を出した面接で合格した記憶は彼には無かった。
「俺は、吉田新平。この店で店長をやっている。シンペイさんと呼んでくれればいいから」 その後、バイト料等の細かな打ち合わせを終え、シンペイさんは、浩之を連れて事務所を出た。

「おーい、紹介するよ、こちら、太田浩之君。明日から働いてもらうことになった」
「そうなの、よろしくね、私は岡本薫。カオルさんと呼んでね。そうか、ヒロユキ君か…」
 先ほどは、きつそうな顔立ちだったが今はにっこり笑って優しそうだ。人に好意的な目で見られた経験のない浩之はどぎまぎした。
「ヒロユキ君、額の髪を上げてみて…そう、結構いけるよ…あなた、床屋さんに行きなさい」 
 浩之は不思議な感覚に包まれた。チャネラーの言うとおりだ。コンビニはオタクの職場としては最適なのかもしれない。と言うことは…シンペイさんも、カオルさんも何か心に傷を負い、道を踏み外した人になってしまうのだが……。

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