北 に 潜 む
<5>



 
 浩之は朝九時には寝床を出た。最近は今までのように夕方まで寝ていることは無い。むろんコンビニでの仕事が有るからだが、それだけではない気がする。そう、時間に対する考え方が身に付きつつあるのだろう。最初の頃は、職場に遅刻することが度々あったが、最近では殆ど遅刻は無くなった。遅刻をすると、カオルさんにこっぴどく叱られるのがつねだった。一方、店長のシンペイさんは「遅刻はよくないぞ」と言って笑っていた。まるで二人は申し合わせて、浩之の社会復帰の教育でもしているようだった。

 梅雨のない六月の函館は過ごしよい。夜はさすがに肌寒いが日中は快適である。起きて顔を洗い、歯を磨き食事をする。これも近頃身に付いた習慣だった。朝食を済ませると、散歩の時間になる。彼は努めて外に出るようにしていた。しかし、絵ばかりは夜でないと描く気にならない。いや、夜が彼に絵を描かせると言った方が適切かも知れない。シンペイさんに言われて、クレヨンを買った。色鉛筆でノートに描くのではなく、最近は大きめのスケッチブックの画用紙に書いている。まだ、シンペイさんには作品を見せていない。
 
 昼前の繁華街を浩之は歩いている。さしたる目的はないが、時々店の前に立ち止まって商品をながめる。そぞろ歩きをすることが、ここのところ彼の楽しみの一つになっている。今日もアーケードの商店街を歩いていた。ジーンズにジャケットを着た彼の姿は、三ヶ月前には考えられないことだった。ジャージももちろん着る。ただし、寝間着変わりであり、外出するときには着なくなった。
 先日、魚市場を覗いたといきにはさすがにビックリしてしまった。見も知らぬ魚が店頭に所狭しと並んでいた。貝、イカ、蟹にも驚いた。信じられない話しかも知れないが、中学生以来、浩之は蟹もホタテも食べたことがない。以前、母親が乏しい金をやりくりして、蟹を食べさせてくれた記憶は確かにあるのだが、その味も忘れてしまった。しいて食べたいと思ったこともない。インスタントラーメンとサバの水煮が彼の常食だが別に不満に思った事もない。
でも、これだけ色とりどりの食物が有ることは、驚きでもあり嬉しいことだった。食べ物に限ったことではない。商店には、それこそありとあらゆる物が溢れ、彼を驚かすのだった。新聞も読まない浩之は、パソコンで世の中の動きを知り、商品も知ってはいたが、現物の質量と存在感は全く違ったものだった。記号と通信の二次元の世界と、現物と皮膚感覚という三次元の世界の違いかも知れない。

 突然、彼の肩に人がぶつかってきた。まったく警戒していなかっただけに、ウッ、と息が止まった。尋常な当たりではない。あきらかに肩を突き上げるようにしてダメージを与えているのだ。当たり前の事だが、妄想や電波ではない現実の出来事だった。
「なんだーッ!」
 ドスの利いた声が投げかけられた。
「す、すみません…」
 息を整えながら、なんとか浩之は細い声を出した。それほど打撃は強かった。
「スマンだとぉ、あやまりゃいいってもんじゃない! 肩を脱臼したじゃないか!」
 浩之は顔をあげ相手を見る。ヤバイ! 明らかにチンピラで因縁を着けているのだ。三人組だ。その中の一人に見覚えがあった。悪い予感がする。
「何とか言えよ、このヤロウー!」
 額を剃り上げ、いかにもそれらしい男は浩之の胸ぐらを掴んだ。真っ昼間のアーケード街であるが、行き交う人は見て見ぬ振りをする。

「おやおや、太田君じゃないか」
 三人の中でも、格下と思われる男が声を掛けてきた。浩之は思い出す。中学校の同級生の神田だった。神田政志というこの男には、浩之はずいぶん虐められたものだった。
 もう一人後ろで控えているのは、人相の悪い大男だった。
「マサ、知り合いか?」
 浩之の胸ぐらを掴んだ男が言った。この男がリーダーらしい。
「はい、中学の同級生でして…おい太田、ずいぶんこざっぱりした格好じゃないか。見直したよ。懐が暖かいらしいな」
「そうか、マサの知り合いなら痛めつける訳にはいかんな」
 斜に見つめ、言葉とは裏腹に襟首を掴んだ拳を浩之の喉に押し着ける。息が苦しい。膝から力が抜ける。
「兄貴、そうなんですよ。なんとかお手柔らかに」
 神田は、酷薄な笑みを浮かべ口の端を吊り上げる。これもまた脅しだ。
「マサが、そう言うんならしかたないか、まあ、話し合いでもしようじゃないか、なあ太田君よ」
 彼等は浩之を何処かに連れて行くつもりらしい。
「あ、あ…」
 何とかこの場をとりつくるたいのだが、かすれて声にならない。何といっていいか分からない。廻りの人を見るが誰も浩之と視線を合わせようとしない。
「うん、うん、言いたいことがあるんだな。上等じゃないか、ちゅっとそこまで、顔を貸して貰おうか」
 男は、首を傾け、口の端を吊り上げながら浩之を睨め付ける。どうすることも出来ない。言うが儘にしなければならない絶望感が浩之を襲った。

「あーぁ、ガキがへたなお芝居をして。見ちゃいられない」
 空から降り注ぐるような声が、この場を包み込んだ。艶のある女性の伝法な声だった。
「な、何だとー!」
 浩之を含めた四人が声の方を振り返った。あり得べき事態に、全員が一瞬あっけに取られてしまう。函館の街ではまず眼にすることもないような美人が立っていた。
 カオルさんだった。今日は髪を束ねてはいない。軽くウエーブのかかった髪は自然に肩まで垂れている。スリムでしなやかな姿態。薄いグリーンのスラックスとジャケット。白いタートルネックのニットが胸のふくらみを強調する。目立たないシンプルな出で立ちだが、バックを含めてすべてがシャネルで統一されていることなど、浩之は無論知らない。 切れ長の眼は鋭いが、口元は微かに微笑んでいる。
「お、お前は、何んだ!」
 三人のヘッドらしき凶暴そうな男が声を荒げた。しかし、怯んでいるのが分かる。浩之の襟を掴んでいた手が緩む。
「聞いてどうすんの?」
 勝負は既に決していた。人間としての位が明らかに違うのだ。相対すれば誰にでも本能的に分かることだと言えるだろう。
「なんだと! おい、俺にそんな口を利いて唯ですむと思うのか!」
 浩之の胸ぐらを掴んでいた手を離し、顎を突き出しながらカオルに向かっていく。子分の手前、無理して格好を付けているのが見え見えだ。

「あんた、度胸があるね。今度は私を恐喝するつもり? 高くつくわよ。執行猶予で済むと思わない方がいいわね」
 カオルはそれとなく、刑事犯罪であることを知らしめる。
「あ、あんた、もしや…」
 男が顎を引く。
「心配ないよ、婦警じゃないからね。だいたいこんな粋な婦警が、いるはず無いじゃないの」
「そ、そおだよな…」
 男が思わず釣られてしまった。カオルさんは余裕タップリである。三人の男が困惑しているのがわかる。しかし、浩之は心配になる。カオルさんが乱暴されるのではと思うと、膝頭が震え立っているのがやっとである。
「じゃあ、何なんだ、お前は!」
 男は体勢を立て直そうとする。
「人にものを尋ねるのなら、先ず自分からと、小学校で習わなかったのかい?」
 勝負は決しているが、面子だけでかろうじて支えているようだ。浩之は『やめて! カオルさん、挑発しないで!』と言いたいのだが声が出ない。見物人は遠巻きに眺めている。
「し、しょうがたねえな、俺は、中野組の吉松だ!」
 男は精一杯胸を張った。他の二人もどうだと言わんばかりの顔をする。
「ああ、ヒデさんところの若い衆かい。でもドジッたね。駆け出しだから知らないだろうが、むやみに親分の名前を出しちゃ終わりだよ。あんたが始末できる問題じゃなくなってしまったね」
 浩之は知らないが、中野秀夫は組員十名ばかりの小さな組長である。函館の有力組織、松岡組の傘下として最近は結構羽振りがいいらしい。
「えっ、それは…」
 三人のチンピラの顔が真っ青になった。そわそわ落ち着きを失っている。
「松岡の親分に言って、ヒデさんに焼きを入れて貰おうかね」
「ええっ! マ、マツオカ…」
「そう言うことになるんだよ」
 その言葉を聞くやいなや、三人はその場に土下座をした。そのままの姿勢で頭を上げようとしない。
「し、しょうがないチンピラだよね。いいかい、組の名を出すときは、十分注意をするんだよ。相手によっちゃあ、取り返しの付かないことになるからね」
「は、はい…」
 三人は頭を上げようとしない。
「いいから、行きな。それから、言っとくけど、このヒロユキは私の弟分だからね、よく覚えておくんだよ」
 三人は、振り返ることもなく脱兎の如く走り去った。
「おお、早いこと」
 カオルさんは、笑っている。
「ヒロユキ、何か言いたいことある?」
 遠巻きに眺めていた人達が、ホッと溜息を付くのが分かる。小さく拍手をする者もいる。
振り返ると、笑いながら彼女は、浩之を見つめる。シンペイさんのように優しい眼だった。

次ページへ小説の目次へトップページへ