「配達に行ってくるぞ」
「ハ−イ、事故に気をつけて」
ハツエは伝票をめくりながら、相手を見ずに返事をした。朝の十時である。本人たちは気づいていないが、この会話は何年、何十年繰り返されたことだろう。
山陰の海岸線に長く長くつづく道路がある。
国道一九一号線。
夏場になると、海水浴客で活気があふれ、ひどく混雑するのは毎年のことである。
秋。前月の混雑が嘘のように、閑かになる。夏に活気があればあるほど、秋は寂しさをます。
街の国道より脇にはいると市道になる。以前はバス通りであったが、今はバス路線から外れてしまった。昔のなごりで道幅は広い。
市道に入ってすぐ右手に取り壊された銭湯の跡がある。大きなエントツは空に突き立つように残っているが、建物は取り壊され、瓦礫となっている。
その道を少し歩いていくと、塗装会社、新聞の販売店、クリ−ニングの取り次ぎ代行店、美容院・・・もう二〜三件先に間口の大きな吉田酒店がある。
吉田酒店の主人は三代目である。
戦前より続くこのお店、街では割に名の知れた酒屋だ。
主人の名は勝蔵と言う。皆は「勝さん」と呼ぶ。
年のころは五十代の半ば。特に目立つでもない中肉中背の中年男だ。なぜか二の腕だけは際だって太い。目を引くほどに太い。さらに目を引くのは吉田酒店のお得意先であった。
この街には十数件のソープランドがある。しかしそこの住人は吉田酒店の酒しか飲まないのだ。
親分肌で、空手五段。そんな男の女房は「ハツエ」と言った。負けず劣らずの女傑である。
「ハツエばあさん、一杯くンないかい?」
「アタシをばぁさん呼ばわりする男に、呑ませる酒なんざないよ!」
「じゃあ、ハツエ姉さん、頼むよ」
「まともに妻子食わしてから、呑みに来ンだね!」
気に入らない客には平気で怒鳴りつける。
しかしそれには彼女なりのルールがあるらしい。
吉田ハツエ○○才。世話好きで涙もろい一男二女の母であった。
さて、「角ウチ」が標準語かどうかは解らない。
しかし、この地方では、ごく一般的な言葉だ。
いささか説明的になるが聞いてほしい。酒好きを自認する作者としては、今は絶滅の危機に瀕する「角ウチ」をまずは知ってもらいたいのだ。
「角ウチ」とは、酒屋の隅に小さなカウンターがあり、客がそこで買った酒を立ち飲みする。もちろん吉田酒店で、たった今買った酒をである。
ビ−ルはさすがに1本ずつだが、日本酒、焼酎はグラス一杯ずつ小売りをしてくれる。「つまみ」は店に置いてあるものを適当に取る。
ピ−ナツ、カキノタネ、ソ−セ−ジ、缶詰・・・・・・・・。
別に調理するわけでもなく、いわゆるサ−ビスが有るわけでもない。よってめんどうくさい保健所の許可は必要ないのだ。
吉田酒店の「角ウチ」の時間は一応、夕方5時から夜9時までである。一応というのは、主人の「勝さん」が、大の「角ウチ」ファンであり、5時になると、全ての仕事を放り出し、カウンターに着いたまま離れないため、気が向くと、11時過ぎまで店を開いていることも珍しくない。
10月初めの、天気の良い日であった。秋晴れの空は少し赤みを帯びてはいたが、陽が沈むにはまだ時間があった。一日がほぼ終わろうとしていた夕方5時過ぎ、吉田酒店の店先に一台のタクシーが止まった。
髪を短く刈り込んだ、あまり人相の良くない男が降りてきた。中年の痩せぎすな体で顎を突き出して歩く。
「ありがとよ! ごくろうさん」やけに調子のいい声をタクシーの運転手に投げかけた。
男の風采は異様であった。ストライプ柄の、最近あまり流行らないパジャマ姿にスリッパの出で立ちであった。
店に入りカウンターに辿り着くと、顔に似合わぬ、かわいい声をあげた。
「冷たいビール」
勝さんは怒鳴りつけるように言った。
「なんだお前は! 入院中だろうが!」
「病院から抜け出して来たんだ。とにかくビール」
情けない顔で男は手を合わせた。
「冗談じゃない! 帰れ! おまえ本当に死ぬぞ!」
「死んでもいいから、とにかくビール!」
・
・
・
・
・
勝さんは、ついに、あきれて ビールを出した。
「お前、ほんとうのところ、どうなんだ」
「たぶん、もうすぐダメだと思う」
男は「マツ」と言う。この店の古くからの常連である。糖尿病を患って長いことたつ。インシュリン注射を日に3回うちだしたのもずいぶん前の話である。
店のカウンタ−に注射器を取り出し、これみよがしに面白がって打つ。
口の悪い連中は「バカ!」としか言わないが、本人がひどく得意げなところがおかしい。
最近、合併症が眼と足に出た。近々、足の指を落とさなければならないなどと、人ごとのように言う。
「よー、マツ、入院したんじゃないのか?」
勤め帰りの「学者」が顔を出した。
「ぬけ出してきた」
「お前らしいよ」
学者は数年前に還暦を迎えた。今は工場の倉庫番として働いている。学者の名の由来はとにかく博識であることである。本当に何でも知っている。
いつぞや、貨物列車の記号「ワム」「トム」「ワラ」・・・・・について滔々と1時間以上も述べた。
皆はあきれて聞いたふりをしていた。学者と「JR」との接点は無い。
「マツ、糖尿病はな・・・・・・・・・・・・」
「学者、いいから一杯いけよ」
マツは相手の口を塞ぐように、グラスをもらい、自分のビールをつごうとした。学者はグラスの口を手で押さえ、ビールを注文し手酌で飲みだした。
「お! マツ、やっぱり!」入って来たのは「ゲンさん」であった。背は低いが、がっしりした体つきの、初老のオヤジである。
「勝さん。実は先週、マツのバカの見舞いに仕事をサボって行ったんだ。そしたら、こやつ、タバコが吸いたいから外に出よう言い出した」
ゲンさんは多少、興奮ぎみにつづけた。
「外に出ると、なんと、自動販売機で500mlのビールを2缶買うと、近くの公園へ俺を連れていき、一缶を俺に渡すや、グビ、グビ飲み始めた。その時思ったね。こいつ、いつもこれをやってると」
ゲンさんは、ここまで一気に喋ると。マツの方へ向き直った。
「違うか、マツ!」
「そういうなよ。その通りだ」
一瞬間をおいて、マツもゲンさんの方へ向き直った。
「それなら、おれも言わせて貰う。ゲンさん、あんた郵便配達の途中だったろ。なぜ旨そうにビールを飲んでんだよ。配達の郵便物をバイクと一緒に病院の駐車場に置いたまま。まったくプロ意識がないよ!」
聞くやいなや、ゲンさんは血相をかえた。
「言いやがったな、マツ! てめえはなんだ! 疲れた、疲れたと言いながら、この店の前にタクシーを止めて、ビールを引っかけ、又、仕事にもどる。テメーの何処にプロ意識がある」
マツの仕事はタクシー運転手である。
「冗談じゃねえ、こちとら、何十年来、無事故無違反だ! 客にゃ迷惑かけねえ」
少し雲行きが、おかしくなり始めたところで、主人の勝さんは、一声を発した。
「もういい、やめろ」
神の声である。人間ならばまず逆らえない。
マツはプロの運転手である。自分で誇りをもっていると同時に、皆もその点だけは認めている。水揚げもつねに一番と本人は豪語する。
「客の言うことは何でも聞く。どんなことでもする」
と言ってはばからない。
「たとえば今、勤務時間中で、そとに止めているタクシーに客が付いたと思ってくれ」
「思いたかねーよ」学者が口をはさんだ。
「たのむ、最後まで聞いてくれ」
マツは手を合わせた。実際ここに集まる連中は面白く無い話には屁もひっかけない。
「ここに客が入ってきて、『大阪までやってくれ』と言ったら、まず金を見せてもらう。金を持ってりゃ、どんなやつでもお客様だ。ちゅうちょなく、今すぐ大阪に走る」
「そのなりでか」
勝さん、半畳をいれた。
「勝さん、たとえばと言ってるだろ!」
多少、不満そうにマツはつづけた。
「その場で、ぐずぐず言ったり、考えるやつはプロじゃない」
「ときには、そういうこともあるのか?」
学者は先をうながす。
「ときにあるよ。そういう時は必ずおれに無線がはいる。よし、まかせとけ! という調子だ」
そのマツが、タクシー強盗に出会ったことがある。2人組の男だった。
「お客さん、どちらまでですか?」
「指示するから、このまま真っ直ぐ走ってくれ」
町中をぬけ街灯もまばらになって行った。そのうち対向車も無い道に入った。
しばらく行き、建築資材置き場とおぼしきところで、マツは車を止めた。
「お客さん、かんべんして下さいよ!」
「ここでいい。降りろ」
マツも、さすがにお客様ではないと確信した。思い立ったら瞬時に行動に移るのがマツの取り柄である。
「このやろう!」叫ぶが早いか、足下に落ちていた角材を手に殴りかかった。 数十秒後、血だらけで半死半生の男が2人マツの足下に横たわり呻いていた。マツは月に向かって吠えた。
「ワォー」
|