マツの入院している病院の近くに公園がある。いわゆる児童公園である。夕方近く、マツと学者が公園のコンクリート製の椅子の上に腰かけ、しんみりとした風情で話をしていた。
マツは最近何となく不安がよぎり落ち込むことが、しばしばある。
気の合う仲間と話すのが一番ホッとする。
「学者、おれもうダメだとおもう」
「そうかもしれんな」
マツの見舞いにわざわざ来たというのに、学者はつれないことを平気でいう。 「学者、相談があるんだが」
「なんだい、言ってみなよ」
学者は少し薄くなった頭を傾けビールを一口飲んで眼鏡をなおした。彼がメガネに手をやるときは真面目に答えると言うことをマツは良く知っている。
フーと、ため息でもつくようにマツは話し出した。
「実は、女房が食堂と雑貨のドライブインをやりたいと言い出したんだ。もう俺が働けないと思ったらしい」マツは考え込むように、つづけた。
「おふくろと、女房が相談して話を進めているようだ、学者どう思う」
「マツ、結論からいう。やめさせろ。シロウトが思いつきで始めて成功する訳がない。」
やけに自信ありげに学者は答えた。
「マツ、お前の場合まず金の心配はないだろう。店舗の立地についても、車の通行量、商圏、他店の店舗展開の事情・・・頼めば、業者が調べてくれるだろう。しかし、それでうまくいくのはせいぜい一〜二割。そんなもんだよ」
学者はつづけた。
「やるんなら、フランチャイズあるいは多他店舗展開をしている業者と契約を結び、箱、土地を提供し賃貸収入を得る方がまだましだ。その方面に詳しい不動産屋をしっている。紹介するのはいいが、あまり気がすすまない」
学者は真剣な顔でさらにつづけた
「マツ、おまえはプロだよ! プロのタクシードライバーだよ。おふくろさんも、奥さんも、皆もそう思っている。なんとかもう一度、仕事に復帰する事を考えろ」
学者の真剣なまなざしに、マツは多少たじろいだ。考えることの大嫌いなマツもビールを口に持っていき、しばらく何も語ろうとはしなかった。
(マツが商売を始める話を相談した相手が良かった。後日、学者は頼まれもしていないのに、マツの母親、妻を説得し、話を全部潰して廻った。)
話が長くなりそうなので、作者の独断で説明させてほしい。
生意気にも、マツは資産家である。先祖代々農業を営みとしてきた、ただしそれは、親の代までのはなしである。両親が農業をしていた土地にある日突然、国道のバイパスが通ってしまった。土地収用の保証金がたんと入った。どおやら半端な額ではなかったらしい。さらに、レストラン、ドライブインが立ち並ぶ道路ぞいに、広大な土地を有しているのだ。
マツの父親は保証金を受け取ったあとすぐに死んだ。遺産相続人は母親とマツの二人だけだった。
ふつう、人間は持ちなれぬ金が突然入ると狂う。間違いなく狂う。貨幣価値観がまったくおかしくなってしまうのだ。突然、天から降ってきた金を掴んだ人間はほぼ間違いなく没落してしまう。
しかし、マツも母親も普通の人間ではなかった。マツは頭の先から足の先までドライバーである。悲しいかなそれ以外の何者でもない。それ以外に頭の働きようがないのである。母親も百姓である。本当の百姓である。徹頭徹尾百姓である。米と野菜を作る以外考えたこともなく、思ったこともなかった。
よって、相続税を払うのに金を使った以外、余分に金を使うことはほとんどなかった。以前となんの変化もない生活がつづいていた。
それが今回、マツの入院により母親が毅然と立ち上がった。一人息子の為なぞでは全然なく、嫁と孫のために立ち上がった。嫁と孫を守ろうと決意したのだ。
マツは母親と顔を合わせると「クソばばあ、早よ死ね!」
母親も負けてはいない「ふざけんじゃないよ! おまえが死ぬまで絶対生き抜いてやる」
母親は嫁と孫が心配でたまらないらしい。酒癖の悪いマツが女房にあたりだすと、そく母親が飛び込んでくる。「出て行け! このバカ息子」
マツが怒りグラスを叩きつけ立ち上がると、母は台所にかけこみ包丁を持ち出し身構える。修羅場をなんとか治めるのは、いつも嫁の役割であった。
場面は再び夕方の公園にもどる。
学者はビールを一口飲むとつぶやくように切り出した。
「マツ、おまえところの家庭ほど、嫁、姑の関係がうまくいってる話は聞いたこともない。嫁、姑は確執があってあたりまえだと言うのに・・・それというのも全てお前のデタラメがなせるわざだ」
「学者、あんた誉めているのか、けなしているのか?」
そういうと、マツも一口ビールを飲んだ。
「マツ、全部が計算ずくの演技ではないよな? まさかそんなことはありえないよな? どう考えてもおまえの場合は天然だろ」
そういうと学者は立ち上がり、ビールをもう二缶買いに行った。
学者がベンチまで帰って来ると、マツは彼に似合わず考えごとをしているように見えた。
「学者、おれ何とか運転手をつづけるよ」
思いつめたようにマツはつづけた。
「片足無くしてもいい。両足なくったっていい。義足を着けてがんばる。眼が見えなくたって、心眼で運転するよ」
「マツ、おまえ心眼なんて言葉どこで覚えた?」
「冷やかすなよ、覚えているだろ江島先生のこと」
江島先生は鍼灸マッサージの治療院を営んでいる。評判はすこぶる良い。年齢は六十過ぎで体全体がまるみをおびており、心までも丸いような感じを受ける。穏やかな人で、奥さんと二人で穏やかに暮らしている。嫁に行った娘が一人いて、元気のいい男の子の孫がいる。
先生は生まれつきの全盲である。しかし、自らの障害を気にするふうでもなく心より明るい人に見える。吉田酒店の「角ウチ」の常連の一人である。
常連といっても角ウチをするのは月に一〜二回程度だろう。冷や酒を好んで飲む。
「ハイ、先生」ハツエが大きな声をだす。そして酒をついだコップを音をたてて、年代物の欅のテーブルの上に置く。先生は音をたよりに探るように手を出し、コップをしっかり掴む。
時にはハツエが先生の手を握り「ハイ、先生」と手渡しをする。
マツは、彼の心眼を働かせるように、遠くを見つめながら学者に話しかけた。
「あの日の先生のこと、覚えているか?」
学者はマツの言う意味がわかったらしく、黙ってうなずいた。
マツは、彼には珍しくとつとつと話し出した。
「もう半年前になるかな? いつものメンバーがいたよな。学者もいたろ」 「うん」
学者はマツがなにを話すかわかっているようだ。
「その日は、たしか奥さんに連れられてじゃなく、先生、杖をついて一人で入ってきた。先生がメンバーに入ると、その場の空気がなごやかになるんだよなー・・・。たしかその時は浅見さんが家族旅行に行くという話だった」
「そうだ! いつものクセで俺が九州の観光地について講釈をたれていた」
学者も眼の焦点を遠くにあわせながら答えた。
「浅見さんが『じゃ、平戸から九十九島にしよう』と言った時だ! 先生『九
十九島は最高です』と言いだすや、風景を喋りだした。全盲の先生がだよな!」 と、マツが話すと、学者が引き継いだ。
「ああ! 確かにそうだ、先生は『海の色が真っ青で、日光をうけ、キラキラ輝いていた。小さな島が点在していて、一つ一つの島の緑がすばらしく、風が本当にやさしかった。自分が今まで見た景色のなかでは最高だった・・・』と、滔々と話し出した」
「学者、あのとき俺たち、凍り付いたよな!」
「ああ、あの時は他に「健ちゃん」もいたが、勝さん、ハツエさん、みんな茫然として、言葉を失った。話せなくなった。」
「学者、ありゃ絶対、先生『心眼』で見たんだよ! そうは思わないか?」
マツは遠くを見つめていた視線を学者に移し、確信したように言った。
「奥さんか、娘さんに情景を聞いたんだと思う。いろいろ説明を受けたんだと思う。そのときの風が、匂いが、人の声と感動が先生をつつんだ。そして先生に強い感動を与えたんだろうな・・・」
学者はさらにつづけた。
「しかしマツ、おまえの言うとおり、先生たしかに見たんだと思う。先生になにが見えたんだろう? 生まれたときから光も色もない世界で、先生なにを見てるんだろう? 俺たちが見ると言う意味でなら、先生は、奥さんの顔も、娘さん、お孫さんの顔も見ることなく死んでいくことになる。しかし違う、違うはずだ! 先生、本当になにを見てるんだろう!」
学者には珍しく興奮した話しぶりである。マツは神妙に聞いている。
また、しばし沈黙の時間が流れた。
学者だと不自然ではないのだが、マツもなぜか神妙にしている。ぬるくなったビールにも気づかないらしい。マツはいずれ近いうちに自分の視力が失われると信じている。
ふと、マツは目を閉じた。何も見えない。暗いと表現すべきだろうが、暗さも見えないと言う方が適切だと、彼には思えた。
音が聞こえる。今まで気づきもしなかった、車両の音が遠くから響いた。彼の嫌いな、ガキどもの騒ぎ声が急に不愉快に響いてきた。
となりに学者の気配を感じる。学者はそのたたずまいからは想像もできない、修羅場を経験していると勝さんが言っていた。戦後の大陸からの引き揚げ、父母の死、援護館での生活、少年院・・・。人は誰しもいろんなものを引きずっている。マツは彼らしくないことを、とりとめもなく思い続けた・・・。
怖くなって、マツは眼を開けた。見える! 今までどおりだ、まだ見える!
マツは気を取り直したように言い出した。
「江島先生が、角ウチで俺と二人だけのときボソっと言ったんだ。『修業時代は本当につらかった。先輩に毎日いじめられた。何度も死のうと思った。しかし、心配している、母のことを思うとどうしても死ねなかった』と、あんときゃ先生が、ほんとうに可哀想に見えたよ」
「弱い者をいじめる奴は、つねに弱い者なんだ! つねに弱者は、より弱者をいじめる。強者は決して弱者をいじめない! 悲しいかな人間はそうなんだ・・・・・・」
学者は自分の過去を振り返り、悲しそうに話しているようにマツには思えた。学者は、気を取り直したかのように元気な声を出した。
「そもそも、人間が社会を形成し、組織を・・・・・・・・・」
「学者、わかった。わかった。もういいから・・・・」
マツも気を取り直しいつもの調子で答えた。ぬるくなったビールを一口飲んだ。
「マツ、おまえ本当にわかったか? じゃ、なぜ、母親や奥さんにあたりちらすんだ」
「女房に関しては、あやまる。しかし、あれは俺じゃなく酒がそうしてるんだ。おふくろに関しては全然ちがう。あれは、最強の人類だ!」
二人ともいつもの調子にもどり、しばらく会話はつづいていた。
陽はだいぶ傾きかけた。
そろそろ、吉田酒店の角ウチの始まる時間が近づいた。
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