3.空 手




 木曜日の夜9時半、浅見の車は有料道路の上を走っていた。空手の稽古で汗をかいたあとの心地よい疲れを楽しんでいた。夜のドライブも快適だった。
 浅見の自宅は吉田酒店のすぐ近くにある。妻と二人の子の父親であり、人からは典型的なサラリーマンに見られる。また、自分でもそう思っている。
 以前、酒の大好きな浅見は、バー、クラブに繁く顔をだしていた。しかし、吉田酒店の角ウチと縁が出来て以来、そうした場所にはほとんど顔を出さなくなった。
 今日も角ウチで早くビールが飲みたくてたまらない。
 浅見は自宅の駐車場に車を滑り込ませると、家には入らずそのまま吉田酒店に向かった。家人も最近はあきれて何も言わない。
 「こんばんわ」にこやかに浅見はカウンターに向かった。
 「お! いらっしゃい」勝さんは元気よく声をかけた。
 「ハツエ、冷たいビール、お願い」
 この店でハツエを呼び捨てに出来るのは、浅見ただ一人だった。初めて呼び捨ての言葉を聞いたとき、その場に居合わせた客は思わずハッとして、勝さんとハツエの顔を見た。なにも起こらなかった。
 「浅見さん、お疲れさま!」と機嫌よくハツエはビールを出した。
 「浅見さん、年男が帰ってきたよ」勝さんがこの店で「さん」づけで呼ぶ客もあまりいない。
 「おいハツエ、年男、呼んで来いよ」
 「ハイヨ」
 ハツエは前掛けを外し店を出た。
 「がんばるね」そう言うとゲンさんは、浅見にビールを注ぎだした。
 「ありがとうございます、ゲンさん」
 「浅見さん『ありがとうございます』はないだろうよ。『ありがとョ』でいいんだ」ゲンさん愉快そうに答えた。

 浅見はこの街で生まれた。勝さんとは昔からの知り合いである。長く東京で生活していたが、転勤でこの街に帰ってきた。
 5年前、新しい職場にも慣れてきた頃、東京時代に稽古しており、有段者でもあった、「空手」をまた始めたくなった。
 いろいろ考えたあげく、吉田酒店の角ウチのノレンをくぐった。
 「今晩わ。ビールください」
 店には勝さんのほかに、三人の客がいた。
 「浅見さん、初めてだね。なにか用でもあるのかい?」
 「じつは俺、空手をやりたいんです。いろいろ道場があって、どこで習ったらいいか、相談に来たんだ」
 「お! そりゃいい心がけだ」声を掛けたのはゲンさんであった。

 勝さんは、浅見に親切に教えてくれた。
 「最初にどの先生につくかは、きわめて大切なことだ。この近くにも道場はあるが、俺が推薦できるのは塩田先生の道場だ。すこし遠いいが、直接、塩田先生に習うがいい・・・・・・」
 「それがいい、それがいい」
 ゲンさん納得したように合いの手をいれた。
 成り行きから、浅見は空手の経験があることは黙っていることにした。
 
 このとき、勝さんはその場に居合わせた三人を、浅見に紹介した。
 ゲンさんは公務員、郵便配達が職業であった。空手3段の有段者あるという。
 「俺も若い頃は空手を一所懸命にやっていた。今はもう年なのでやめた」
 そういうと、ゲンさん軽く浅見の肩をたたいた。
 浅見が見るにゲンさんとの年齢差は五〜六歳というところだろう。若い頃はやっていた? その言葉は少し不自然に感じた。
 健ちゃんは、もと「ヤクザ」。今は自営で土建業を生業としている。ヤクザから足を洗うについて、勝さんの影響があったらしい。
 「おれも、空手は初段だ。そのほかボクシングもやっていた。いずれにしよ空手をやると、ここでは皆に受け入れられるよ。おれ健です!」
 と言うと、健ちゃん軽く会釈をした。
 年は浅見とほぼ同じ、小柄だが日に焼けた精悍な顔をしていた。
 三人目は、年男だった。勝さんは名前だけしか浅見に紹介しなかった。
 年男はニコニコ笑いながら会釈だけした。
 あとで解ったことだが、年男は一年から一年半に一度帰ってきて一週間ぐらい滞在し、角ウチのノレンをくぐる。その間、どこで何をしていたか一切話さない。あきらかに人の良さそうな顔をし、いつもニコニコ笑っている。
浅見にとって、年男はのちに印象深い男になるのだが、この時はほとんど気にも留めなかった。

 浅見義彦、痩せてひょろりと長い体に気の弱そうな顔が乗っている。一見きわめてまともな感じがするが、この男も少し変である。
 何時どこにいくにも、紺のスーツ、紺のネクタイ、白いワイシャツ、黒の靴下、黒の靴である。外出するときは、他の物は一切着ない。角ウチをするときも同じ格好である。角ウチには似合わない格好であるが本人は全然気にしていない。
 『自分はずいぶん悩んでこれに決めた。決めたとたん服装から解放された、自由になれた!』本人はそのように思いこんでいる。
 決めるのも勝手! 自由になるのも勝手! だが、舟で魚釣りに行く時もその格好ということはないだろう。
 スーツにネクタイをして、ゴム長靴を履き、肩には道具箱、左手にビールの入ったクーラーボックス、右手に釣り竿の姿で釣り船に乗り込んだ。
 船頭はブッたまげた。
 「お客さん、ホントにそのなりで、釣るのかい? 潮をかぶるよ!」
 浅見は黙って道具箱から雨合羽を取り出し、スーツの上から着始めた。
 なお、この船頭、たまたまマツの友人だった。おかしな男の話を聞いたマツはすぐにピンときた。おかげでこの逸話は角ウチ仲間の全員が知るところとなった。
 誰に対しても礼儀正しい面があるが、まさか人間関係から自由になるためとでも思っているのだろうか?

 ハツエが年男を従えて帰ってきた。
「年男さんお久しぶり」
 浅見は年男の顔を見るなり声をかけた。
一年ぶりだが、そこにはいつもと変わらぬ年男がいた。
 「浅見さんお元気ですか」
 ニコニコ笑いながら年男は返事をした。笑う以外あまり感情をおもてに出さない年男が真剣な顔をしたことがある。
 
浅見が初めてこの店に来たとき年男にあった。二回目はその一年半後であった。健ちゃんとマツがいた。浅見は二人を相手に空手の話をしていた。勝さんもその話に加わってきた。ニコニコ話を聞いていた年男が身を乗り出した。
 「浅見さん、あの時から空手をまだつづけているの?」
 「うん、つづけているよ。真面目に通って初段をもらったよ」
 「へー」
 年男は妙に感心しているように浅見には思えた。

三回目に浅見が年男にあったのは、それから二年たっていた。
 このときは、浅見がノレンをくぐると、すぐに年男が声をかけた
 「浅見さん、空手まだやってる?」
 突然の発言に浅見は多少面食らったが、年男に好意あふれる声で答えた。
 「うん、やってるよ。先日、二段の免状をもらったよ」
その言葉にたいする年男の返事はしばらくなかった。
 黙って見つめる、年男の真剣な眼差しに、浅見は少したじろいだ。
 意を決したように年男はいった。
 「尊敬する! 浅見さん、俺あんたを尊敬するよ!」
 だれも声を発しなかった。吉田酒店が静まりかえった。

 またすぐに、年男は何処かへいってしまった。
 「勝さん、俺、あの日は、ビックリしたよ。あのいつも笑っている年男さんが、突然、真剣な顔で『尊敬する』と言い出すんだから」
 「おれもビックリした」学者が感心したように言った。
 ゲンさんも、健ちゃんもうなずいた。
 勝さん、考えるようにユックリ言った。
 「あの年男がなー。浅見さん誇りに思っていいよ。あの男が本気になって、尊敬すると言ったんだ」
 「あいつが、あんなに真剣になった顔は初めてだ。浅見さんたいしたもんだよ」ゲンもそう言ったが、浅見にとって、どうにも腑に落ちない。
 「勝さん、年男はどうにもいいかげんな男で、女房にも愛想をつかされたんだよな・・・」学者は勝さんから続きを引き出すような言い方をした。
 「あいつは、子供のときからそうだった。いつもニコニコしていた。なにがあってもそうだった。いじめられてもそうだった。俺が助けてもそうだった。
長じて、職についても長続きしたためしがなかった。親が心配して嫁を取らせた。しかし、なにも変わりはしなかった。家は裕福で金の心配は無かったが、女房も愛想をつかした。『何を考えているか解らない』といって家をでた。やつもそれから家を出た。おれの推測だが年男は今、ダム工事、トンネル工事の飯場を転々としているのだと思う」
 勝さんには珍しく饒舌に話し出した。
 「勝さん、俺どうにも良くわからない。なぜ空手を続け、二段になったら尊敬されるんだよ」浅見にはほんとうに理解できなかった。
 学者はメガメに手をやりながら話し出した。
 「浅見さん、あんた触媒だったんだ。年男の中で何か化学変化が起ころうとしている。自分で気づいているかどうか、たぶん気づいて無いと思うが、彼は変わろうとしている。浅見さんあんたの存在が、彼の心の琴線にふれたんだ。
近いうちに彼は間違いなく変わるよ」
 学者の発言は皆を何となく納得させた。
 
 それから三年、年男は皆のまえにいる。ハツエに連れてこられたまま、ニコニコ笑ってビールを飲んでいる。皆も三年前の衝撃を忘れたかのようである。
 『なにも変わりはしない』浅見だけは考えていた。

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