仲町の飲み屋街、昭和30年代までは殷賑を極めていた。南氷洋の捕鯨基地として、船員が毎晩もじどおり、あふれていた。以西底引漁船のきちでもあり、日本一の水揚げ高を誇っていた。
商業捕鯨の全面的禁止、以西底引漁業の衰退はこの街を寂しいものにしていった。西の空の、残照が、ほとんど動くことも無くなった、造船所の赤錆びた巨大なクレーンに影を落とし、遠景を描いていた。
健は肩を落として、仲町の路地裏をとぼとぼとあるいていた。身長は高くはないが、鋭い目つきに、短髪の日に焼けた顔は、豹のような獰猛さを内に秘めているように見えた。
クリーム色のチノパンツの上は、濃いベージュの絹のシャツを着ていた。胸の金の細い鎖が歩くたびに揺れた。
「健ちゃん! 久しぶり、どうしてた?」
「健さん! 元気ですか?」
ほうぼうから声をかけられた。健は愛想良く、その声に答えた。
声を掛けるのは、三十代から四十代の少しうらぶれた匂いを漂わせる男女であった。
十代の終わり頃から二十代にかけて、健はこの仲町、すなわち、二百件以上ある飲屋街の顔であった。数軒のクラブの用心棒を請け負っていた、「ステゴロ健」だった。
常時、四〜五人の女性を操る「ヒモ」として、「スケコマシ」の健の異名もあり。女とバクチ、遊ぶ金は潤沢にあった。ヤクザの上下関係は厳しかったが、上納金に困る事はなく、怖いものは何一つなく肩で風を切っていた。
疾風怒濤の日々ではあったが、のどのような形であれ、そこには、確かに健の青春の様相が刻まれていた。
排水溝の上にコンクリートの蓋をした路地を健は、俯きながら歩いていった。 暫く歩くと、鉢植えのゴムの木の横に、「Bar.ナポリ」と書かれた看板のはいった木製のドアがあり、健はノブを掴むと、一呼吸おいて、戸を開けた。
「いらっしゃいませ!」
「おお! 珍しい、健ちゃんじゃないか!」
七十歳に届きそうな、マスターとママであった。長いカウンターと壁ぎわにボックス席が二つの小さな店である。マホガニー造りのカウンターは、年月を重ね、磨き込まれて、黒光りに存在感を誇示していた。
マスターの背面の壁は、一面ガラス戸棚になっており、酒、カクテルの素材の瓶が整然と並んでいる。その前でマスターは布巾でグラスを磨いている。
三十年間、全く変わらぬ風景が其処にはある。
ウエス・モンゴメリーのギターの音が流れていた。他に客はいなかった。健はカウンターに座った。
「マスター、ママ、お久しぶりです」
「そうだね、何年ぶりになるだろう。健ちゃん、少しも変わってないね」
細身で長身のマスターは、相も変わらぬ、蝶ネクタイ、白いワイシャツ姿に黒のチョッキを着ている。
和服に割烹着の上品な老婦人がグラスと氷の用意を始めた。
マスターはシェーカーを振り出した。
白髪の二人は、音楽と落ち着いた内装にマッチし心地よい雰囲気をかもし出していた。
「健ちゃん、今どうしているの? 洋子さんも元気?」
「洋子は元気だよ、色々苦労させたから大切にしているよ! マスターも、ママも、元気そうでなによりだよ」
シェーカーの音が止まると、三角形のグラスにカクテルが注がれ、健の前に出てきた。マンハッタンである。
「初めはいつも、これだったね!」
黙って、一口飲んだ。健の心の中のわだかまりが、スーと遠のいて行ったような気になった。
「この二〜三日、メランコリーな気分になって沈んでいたんだ」
「健ちゃん、メランコリーだなんて、ずいぶん古い言葉だこと」
そう言うと、ママは乾き物の小皿を健の前に差し出した。細い脂気のぬけた白い手であった。
「言葉も古い、この店も、マスターもママも、みんな古いよなー!」
「お客さんによく言われるよ。『昔と全然変わらない』と、落ち着くから、このままでいてくれと、しかし、変わっているんだよ。俺も、ママも、お客さん自身も。変わっていないのは、このカウンターだけかもしれない」
「ここに来ると、昔のことを思い出すよ、俺も元気だったよな。無茶苦茶だったよ。どんな女でもモノにする自信があった。実際モノにした。女を手込めにして働かせて、上前をハネ、しかも喜ばせる。スケコマシの手本といわれたよ。 あ! マスター、ママ一杯やってよ」
「じゃあ戴くか」
マスターはロックグラスにウイスキーを注いだ。
「わたしはこれで戴くわ」
ママは氷の入ったグラスにウーロン茶を注いだ。
「乾杯!」
打ち合わせたグラスがチンという乾いた音をたてた。
「健ちゃん、あなた、当時かがやいていたよ。ほかの人と違って、退廃的な匂いが全然なかったわ。いつも明るく楽しそうだった。連れてきた女の人たちも、とっても楽しそうだったわ。みんなどうしているのかしら?」
「まったくわからない。みんな何処かへいってしまった。ときどき思い出すが、会いたいとは思わない。ヒモと女の関係なんて、実際ひどいもんだよな、マスター」
マスターはグラスに入った、琥珀色の液体を見つめ、少し揺らしはじめた。
流れる音楽は、マイルス・デービスのトランペットになっている。
「健ちゃん、私はそうは思わない・・・・・。勤め人、サラリーマンと会社、あるいはオーナーとの関係は、ヒモと女の関係と同じだと思うよ。働かされて、上前をハネられ一生の殆どを終わるのだ。良い会社は、良いヒモじゃないだろうか? 俺が偉そうなことを言える柄じゃあないが」
「マスター、時々良いことをいうよ。何か気に入ったなー、気分いいよ!」
「サラリーマンも大変だよ、健ちゃんの『女』のように、毎日を楽しそうに過ごしている人は、まずいなかったからね・・・・」
ママも口を少し開け、ニッコリ微笑むと、健を励ますように話し出した。
「この街で働いている女の人、一所懸命に生きていますよ。後ろ指を指されることなんてあるはずがないじゃない。健ちゃんそう思わない? 家庭の主婦から、バカにされることがあるから不思議よね? 本当の人生なんて、わかってもいないし、わかろうともしないんでしょうね」
「ママ、今日はやけに厳しいことを言うね。だけど、ママの言うことよくわかる。 あーあ、歓楽の日々か? 世間に気兼ねをする切ない日々か?」
夜の街の女性はみな悲しい。過去も現在も・・・・騒いで、歌って大笑いの享楽の歓声の日々。夜が明ければ、ただ、虚ろでけだるい・・・・
いや、誰もが悲しいんだ。健も、マスターも、ママも、サラリーマン家庭の夫も妻も、子ども達でさえも。
マスターは健のグラスに氷とウイスキーを入れた。健は閑かにオンザロックを喉に流し込んだ。
「健ちゃん、俺も歳を取ったよ、もうすぐ七十歳だ、ママもそうだ、あと何年生きられることやら、何年店を開けられるやら? しかし、今まで苦労はしたが、退屈ではなかった。 色々なことが、あったからな」
そう言うと、マスターは眼を閉じた。彼の脳裏には何が去来しているのだろう。
他に客の来る気配は無い、ママはりんごを剥き出した。二人はすでに四十年以上この店を続けている。
マスターはシェーカーを振り出した。シャシャという音が心地よく店に響きわたった。三角形のカクテルグラスがカウンターに置かれた。シエーカーの蓋を取り、グラスに注ぐと、計ったようにピッタリ二つのグラスに収まった。マンハッタンである。
「健ちゃん、奢りだよ」
「いただくよ、マスター! 昭和三十年代、あんなに騒いでいた連中、何処に行ったんだろう。街が寂れ、出ていった奴、死んだ奴、当時の人間でこの店に顔を出すのは何人いる?」
「忘れたころに、フッと来て『この店まだあったんだ』というのを含めても十人ぐらいかなー。もっとも、カラオケも無く、ジャズが流れていて、シェーカーを振るのが珍しいらしく、若い客が結構多いよ」
「どうぞ」
りんごがシックな皿に盛られて出てきた。
健はタバコに火を着けた。セブンスターである。やっぱり両切りのピースかな? なんとなく、健はそう思った。
音楽はサッチモに変わった。しゃがれて味のある声が低く店内に響いた。
『ハロードリー・・ハロードリー・・・・・・・・』
|