「だいぶ、明るくなったようだけど、健ちゃん今日は、いったいどうしたの?」 心配そうにママが話しかけた、七十歳近くなるというのに、背筋はピンと伸び、白髪に和服、上品なお色気が漂っている。こういう歳の取り方をする女性は希だろう。
「ママ、娘さん元気?」
健はママの疑問には答えず、聞き返した。
「元気よ、孫の男の子も中学生になるのよ。娘はあいかわらず家事もそこそこに、人形作りに精をだしているわ」
「中学生の孫は野球部に入っていて、休みなど、『じいちゃん、やろう』とキヤッチボールをせがむんだ。 こっちが付き合いきれないのを承知のうえで、からかいやがる」
ママもマスターも楽しそうに話した。
ママもマスターも知っている。健には父親の記憶がほとんどない。母親と健を残して、父親が家を出ていったのは小学校低学年のときだった。残された母親は夜の街に働きに出た。六畳と四畳半の小さなみすぼらしいアパートに住んでいた。窓を開けると隣のアパートに手が届く木造の古い家だった。
飲んだくれた母親は、色々な男を連れて帰って来た。男は健に小遣いをくれ、健は深夜の街に放り出された。今と違って、十二時過ぎた街には行くところもない。電柱の白熱電灯の街灯の下で、十才の少年は膝を抱えてうずくまっていた。
その母親も、健が中学二年の十三歳の時、健を残して出ていった。食べる為には何でもやった。恐喝、窃盗・・・そして、お定まりのヤクザ稼業。
「健ちゃんの息子さん。たしか出来が良かったんじゃなかったかしら? 大学に行ったと、聞きましたよ」
ママは優しく健に話しかけた。
「そうだよ、高校を出て、後は自活すると言って、東京に出ていった。そして、東大に入った」
「すごいじゃないの! 先が楽しみね」
「東大工学部、材料力学とやらを、やっているらしい。俺にはさっぱり解らない。家に帰って来るのは二〜三年に一度だろう、こんどアメリカのなんとか研究所に留学するらしい。 おい! 俺は中学中退だぞ、一体どうなっているんだ!」
健はグラスのオンザロックをグビリと飲んだ。どうやら健のメランコリーはこの辺に理由があるらしい。
店内の空気がなぜだか沈んだ。
「あいつは、違う世界に行ってしまった。会っても話すこともない。おそらく結婚式に呼ばれることも無いだろう。寂しいよ、本当に・・・・しかたない、
しかたないと思っているよ、彼奴も立派に一人立ちだ・・・・・子どもの時は俺にやたらまとわりついていた。キヤッチボールもしたなあ!・・・・・」
「洋子さんはどうなの?」
ママは洋子のことが気になるようである。
「女房、いや洋子のことだが、平気で全くこだわりもないらしい。相変わらず俺の方ばかりを観ている。女子大生のあいつを手込めにして俺の女にしたときから、おれのほうばかりを観ていた。自分の親兄弟のことは念頭から完全に外れてしまった。全く他の女とは違っていた・・・・」
「洋子さんほんとに素敵な人ですね、綺麗で、気だてが良くて優しくて、あんな人まずいないわよ」
「ほんとだ健ちゃん、 ママの言うとおりだよ」
「勝さん、ハツエさん、マツ、ゲンさん・・・・仲間はありがたいよ、ほんとうに、そして、洋子、不服をいったらバチがあたるよ・・・・だけど、寂しいな、小学生の頃は始終俺にまつわりついていた、あいつが遠くへ行ってしまったよ・・・・・・」
「こんばんわ!」
「あ! いらっしゃい」
若いアベックの二人が店に入ってきた。カウンターの端に腰を下ろすと、ママが差し出したオシボリで手を拭きながら、小さな声でなにか話している。二十代半ばの真面目そうな青年と、化粧も控えめな、おとなしそうな娘さんである。
キープしている、ボトルを出して貰い水割りを飲み始めた、楽しそうに穏やかに会話を交わしている。
ママは邪魔にならないようカウンターの中から優しい眼差しを二人に注いでいた。
健にとって、若い二人は自分の息子と重なってみえる。そこには、健と全く違った青春が息吹いていた。
「ちゃーす!」
突然の闖入者が現れた。政夫とその舎弟である。リーゼントヘアーに日の丸の鉢巻きを締め、いかにも一癖ありそうな格好である。若いアベックはびっくりして身を固くした。
「おい!」
健はジロリと政夫を睨んだ。
「あ! 健さん! ご無沙汰してます」
「ご無沙汰なんぞしてないぞ。四〜五日前にあったばかりじゃないか!
ガキが何の用だ!」
政夫と取り巻き連中、最近叱られ、脅されているばかりの様な気がする。
「お! 来たか暴走族のアンチャン」
マスターもたしかに歳である。今どきアンチャンなぞという言葉を聞くことはめったに無い。しかし、その言葉には、親しみと愛情がこもっていた。
「こっちに座れ!」
健は若い二人をかばうように、四人をカウンターの端に座らせた。七人座るとカウンターは一杯になった。
「おまえたち、未成年だろうが! この店に顔を出すのは十年早い! ジュースでも飲んでとっとと帰れ!」
四人は顔を伏せ、助けを求めるように、首をかしげ上目づかいにママとマスターを見た。
「健ちゃんそう言うなよ、おまえさん同じ年の頃なにをしてた? 女をつれて仲町を飲み歩いていただろうが、それに比べりゃかわいいもんだよ。ママ、ビールを出してやってくれ」
ママはグラスを四つ出すとコースターの上へ置き、ビールをつぎ始めた。
「あんたたち、健ちゃん昔、あんたたちと同じ年頃のころはね・・・・」
「ママ、わかったよ! もうそれ以上言わないでくれ。俺はおれなりに前途ある若者にまっとうな道を歩いてほしいだけだ、俺のように踏み外さないようにとな」
店の空気はなごんできた、二人のアベックも面白そうに皆の会話を聞き出した。
調子に乗った政夫は口を開いた。
「踏み外してもいいよ、洋子さんみたいな嫁さんが来てくれるなら・・・」
言い終わらないうちに、健の平手が飛んで政夫の顔面をたたいた。政夫は座ったまま、椅子と共に後ろに、仰向けに倒れうめき声をあげた。
「相手の虚をつくのが、先手必勝のケンカ道!」
健は政夫の方を見ることもなく、うそぶいた。
マスターは心配そうにカウンター越しにのぞき込んだ。ママはオシボリを掴むとカウンターを出て政夫の側に駆け寄った。アベックの二人と政夫の舎弟は立ち上がると隅に飛び退いた。
「イテテテ・・・健さん、ひどいよ」
政夫は腰をあげ、ズボンをはたき、恨めしそうに健を見つめた。
いつもの政夫と舎弟達なら、直ぐに暴力ざたになる所であるが、そうはならない。暴力ざたになれば、痛い眼を見るのは政夫達であること、火を見るよりあきらかである。
愛想笑いを返し、あとで悪口を言うぐらいが、せきのやまである。強いモノにはまかれる、処世術の第一歩である。
次第に店の落ち着いた雰囲気がむちゃくちゃになって来た。
「しかし、ハツエさん、遅いなぁ。もうすぐ九時だよ」
政夫は腕時計を見ながら呟いた。
「ハ、ハツエさん! おい、ハツエさんが来るのか?」
健の顔は青ざめ、言葉は震えた。
「うん、八時半までにナポリに来るように。用件はこちらで話すと言われたんだ、また、嫌なことじゃ無いと良いけど!」
「マスター、おれ洋子が心配するから帰るよ、お勘定!」
「まあ、良いじゃないか。ママも久しぶりでもう少し話しがしたいとよ」
「健さん、久しぶりじゃないの、ゆっくりしていったら」
ママもマスターも意地が悪い。
「そうも行かないんだ。洋子が・・・・・・」
妻をだしに使う哀れな男になり果てた。上には上がいるものである。
勘定を払うと、せかされる様に健は出口へと向かった。そして、ドアのノブに手を掛けようとした瞬間、ドアが外側に開かれた。息が詰まった。健の心臓が潰れた。ハツエであった。
健はカッと眼を見開き、立ちすくんだ。 一瞬の間があった。
「ギャー!」
健の叫びはエコーがきき、店じゅうに『こだま』した。
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