「あ! 先生いらっしゃい」
ハツエは、すぐにコップを用意し、酒を注ぐとニッコリ笑った。
「どうぞ先生」
ハツエは先生の手を優しく握りコップを手渡した。
「俺はビール」
「あわてるんじゃないよ。ちょっと待ちなさい」
学者は叱られてしまった。
「ハツエさん、ありがとう。皆さんも元気そうですね、この場の空気が華やいでいますよ。ハツエさん興奮してるんですか、手に汗をかいていますよ」
「別に興奮している訳じゃないけど、男供に発破をかけたんですよ!」
「良いですね、私にも発破をかけてくださいよ」
「とんでもない! 先生は別です」
ハツエの調子は、先ほどとは全然変わってきた。
「ハツエさん、ビールいただけますか?」
学者はわざとへりくだった様子で猫撫で声を出した。ハツエは少し感にさわったが、先生の手前グッと堪えた。
「ハイよ」
勝さんが、ビールを出し場の雰囲気を取り持った。『何故、俺が気を使わきゃならないんだ』と、かなり不満があるらしく見える。
「ん! 墨の匂いがしますね」
先生の嗅覚は鋭い。
「ああ! これですか。なるほど、流石にハツエさんですね、良い墨を使っていますね」
先生は、渡された旗印に鼻を着けて匂いを嗅いだ。慈しむように優しく匂いを嗅いでいる先生の姿を皆は黙って見つめていた。次第に場の空気が和んでくる。
先生は旗印をハツエに返すと穏やかに話し出した。
「良いですね、みんな本当に仲が良くて、私も仲間に入れて貰ってありがたい。私は眼が見えないせいか、どうも人より、場の空気が良くわかるようです。
空気の振動を耳と皮膚で感じる様です。それと、肌に触れるとさらに良くわかります。ハツエさん、動揺していませんか? さっき手が触れたとき感じました。無理をしているんじゃないですか? 無理はいけません。無理をしていいのは三十才までです。それ以後は体に負担が掛かり過ぎます。楽して暮らしたほうがいいですよ!」
「先生、良いこと言うね。全くその通りだ!」
学者は大げさに手を打った。
「ありがとう。誇ることでもないけど、私は眼が見えない分、人に見えないところが見える様な気がしてなりません。学者さん、私に何か期待しているでしょう?」
「先生、別に何かを期待してはいませんよ。ただ一緒に飲めるのが気分良いな・・・・・」
「勝さん、入って来たときは落ち込んでいたようですが、いくぶん元気になりましたね」
「先生、俺どうみえる?」
唐突にゲンさんは言った。
「そうですね、右の肩が少しコッテいますね。腰も少し。時間があったら、診療所にいらっしゃい」
「なんで俺だけ体なんだよ」
「マツさん久しぶりですね、退院よかったですね!」
「ありがと先生、おなじビールでも、ここで飲むビールが一番旨い。一応、退院ということになったが、治った訳じゃない。一生糖尿病と付き合って行かなきゃならんのだ。合併症で眼が見えなくなるかもしれないんだ。先生、眼が見えなくなるってどうなるんです?」
失礼で不躾な質問ではあったが、先生は別に気を悪くはしていない。
「私に言われてもね、私は見えたことが無いから、見えなくなったらどうか?と言われてもね・・・・そうだ、マツさん一度眼を閉じて生活してみたらどうですか、アイマスクでもして一日を過ごすんですよ。そうしてみたらどうですか?」
「なるほど、『案ずるより、生むが易し』か、先生の眼が開くのは無理だが、俺が眼を閉じるのは簡単なことだ・・・・・」
さらに、失礼かつ不躾な言葉であるが、先生いっこう気にしない。
「マツ! あんた何を言うんだ。先生に失礼でしょ!」
ハツエの叱咤にマツはハッと気 が付いた。
「先生、すみません・・・・・」
頭を下げて、小さくなったが、これまた、先生には見えない。だが先生は空気で感じてしまう。
「マツさん、気にしないで下さい。本当のことですから」
「先生、怒ったりすることありますか? どうしたらそんなに人間ができるんですか? 」
「ハツエさん、ある種のあきらめかも知れませんね。それなりに一所懸命にやって、最後はもういいや! と言うことですかな」
「もういいやって、旨い料理、酒、女、・・・・いらないってことですか?」
ゲンさんは料理、酒、女、欲しくて堪らないような顔つきで先生を見つめる。 「一寸違うような気がします。料理、酒、女、みんな欲しいですよ。うまく言えませんが、私の人生これでいいんだという納得ですかね」
「先生、立ち入ったことを聞きます、失礼だったらごめんなさい」
学者は真剣な顔になった。
「学者さん、怖いですね。なんです?」
「先生、生まれつきの全盲ですよね。我々が普通に喋っていることで、分からない事が多いんじゃないですか? まず色が分かりませんよね。形を見ることも出来ませんよね・・・・・・」
「学者さんの言うことは分かります。光、以外は現実の世界に住んでいます。しかし、頭の中は、ファンタジーの世界と言いますか、一つ一つ積み上げた虚構と言えると思います。『赤いバラ』といいますが、赤と言う色が分かりません。想像するしかないのです。何も無いところからどうして想像できます?
バラの形は、まだ触れば分かります。しかし、『青い空』となると、どう仕様もありません」
「なるほど。では我々と話すのも大変ですね、一つ一つ概念を頭の中だけで組み立てなければならない」
「子どもの頃は本当に大変だったと思います。良く覚えてはいませんが。お酒をこう翳します、まず透明これが分かりません。液体これは分かります、飲めば良いんですから。気体、固体これも分かります」
「先生、それって大変なことですね!」
ハツエは感に堪えぬという風情になった。
「大変だったのは、母親でしょうね。根気よく普通の人と話しが出来るようにしてくれたんですから。皆はごく普通に見てはなすことを、一つ一つ頭で決めていくんですから、形は一つ一つ触れて確認していった訳になりますね。みなさんとこうして話しは出来ますが、頭の中は全く別世界だと思います。自分一人だけの世界でしょう」
「先生、乾杯しよう。辛いのは俺だけじゃないんだ」
ゲンさんこの男の頭の中も人には分からない。
健はいささか呆れながら口を開いた。
「ゲンさん、辛いとか、悲しいとか、あんたの何処からその言葉が出て来るんだ。最もふさわしくないよ、あんたには。 しかし、乾杯には賛成だ!」
「よし! 一寸待て。ハツエ、ワイングラスを用意しろ」
そう言い残すと、勝さんは店の奥に引っ込んだ。ハツエが皆の前にワイングラスを出し終えた頃、勝さんは大事そうに一本のワインを持って、奥から出てきた。柄には似合わず勝さんはワイン好きである。
「こりゃ良いワインだぞ!」
丁寧にコルクを抜くと、皆のグラスに注いでいく。
「先生、『赤』赤ワインだからね。さあ乾杯」
皆は乾杯の声を挙げると、ワインを口に含んだ。ごくりと飲み干したのは、ゲンさんだけだった。この男にかかれば、ワインもビールも同じである。
ゲンさんの飲みっぷりを見て、先生以外はみんな思わず微笑んだ。
「赤ワイン、美味しいですね。この赤色がなんとも言えません」
先生の言葉に、皆は声を出して笑った。
「そういえば、先ほどの墨の香りのとても良い、旗印と言っていましたっけ、あれ、何に使うんですか?」
急に一時間前に引き戻されたハツエは狼狽えた。自分のしていたことが、些細で取るに足らぬことに思えた。
「先生、冗談でふざけて書いただけですよ・・・・・・」
恥ずかしそうに、ハツエは旗印を畳むと、奥に直した。
勝さん、浅見、健、マツ、ゲンさんまで、皆ホット溜息をついた。学者はニヤニヤ笑っている。
「学者さん、あんた・・・・・・・」
思わず、浅見は声を出した。
「何のこと? まあ先生もう一杯お酒を・・・・・・・・・・」
学者はしてやったりと言う風に顎を突き出した。
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