入学式の日以来、勝さんの殺気だった眼が何時も脳裏に浮かび、浅見は落ち込んだまま、浮かび上がることが出来ない。
『いったい俺が、何の悪いことをしたんだろう?・・・』いくら考えても、浅見は納得出来ない。どう考えても、被害者だとしか思えない。
しかし、そこで天空より勝さんの猛々しい相貌が湧き上がってくるのだ・・・・・・・・『・・お前の、存在自体が許せない・・・・・・』
理屈以前の問題である。以来、数ヶ月、吉田酒店の前は通らないようにいている。勝さんを遠くに認めると、建物の陰に隠れたり、道を変えたり、反射的にすぐに身を隠す。
「浅見くーん・・・・」
何のためらいもなく、大声で呼びかける、とも子の声を聞くと、そのたびに、心臓が飛び上がる。
浅見は、怯えながら、ひたすら廻りを気にし、おどおどしながら生きている家ネズミの心境がよく理解できた。
『・・そういえば、俺、ねずみ年生まれだ・・・・』
半分、家ネズミになった幻想に、捕らわれることもあった。
「おい!」
運命の日は突然訪れた。
肩を叩かれ、振り返った浅見はそこに、勝閻魔大王を観たのだ。顔から血の気が引き、心臓が口から飛び出した。
「こっちへ来い!・・・」
嫌も応も無い。勝さんの太い腕で襟首を捕まれ建物の陰に連れ込まれた。恐怖で声が出ない。足がすくんで立っていることすらおぼつかない。
勝さんは、襟首から手を離すと、両手で胸ぐらを掴み、上方へ締め上げた。一瞬、浅見の身体は地面を離れ浮いた。つま先で身体を支えながら、浅見は失禁しそうになった。
「正直に言え! とも子とはどういう関係だ・・・・・」
「あ、あ、あ・・・・」
浅見は声を出せない。勝さんは両手の力を弛め、手を離した。
やっと、浅見は大地に両足で立つことが出来た。呼吸を整えるのに暫く時間を必要とした。
「もう一度聞く、とも子とはどういう関係だ!」
「・・どういう関係と言われても・・・幼なじみ・・・・」
浅見は勝さんの質問の意図を計りかねている。
「男だろうが! ハッキリしろ」
「ハッキリと言われても・・・・」
「じれったい! セックスしたのか、してないのか?」
「セ・・セックス・・・してません! してません!・・・・」
晴天の霹靂であった。浅見の眼が宙に浮いた。
「してない! 本当にしてないんだな?」
「本当です! 嘘と思うなら、とも子さんに聞いて下さい」
「バカ! とも子に聞ける訳は無いだろうが・・」
浅見は一発、頬を平手でハッ倒された。
倒れて浅見は思った『理不尽極まりない。勝さんが、とも子に話しが出来ない。そのことで何故、自分がハッ倒されなければならないんだ?』と。
もっともである。しかし、現実が理屈を踏みつけることは、これまた、珍しい事でもない。
勝さん、浅見の前に腰を降ろした。
「じゃあ、なぜ入学式の日、何故お前に抱きついたんだ・・・」
勝さんはそう言うと暫く黙ってしまった。
『とも子さんに聞いてくれよ』という言葉が出かかったが、殴られるに決まっているので、浅見は何とも言わない。
「おい浅見、ものは相談だが・・・・」
勝さんの顔と声が優しくなった。
「なんです?」
「お前、とも子と結婚しないか?」
浅見はあんぐりと口を開けたままの状態になってしまった。思考停止、頭の中は真っ白になった。
「どうなんだ。返事をしろ」
「そ、・・そんな・・・結婚なんて・・・」
「嫌いなのか?」
「嫌いって訳じゃないけど・・・まだ・・・」
入学式の日、抱きついて来たとも子の柔らかい感触が蘇ってきた。今まで感じたことがなかった女を、とも子に感じもした。とも子は勝ち気で活発だが、愛嬌があり、綺麗でもある。結構、男の子の間で評判になることもあった。
しかし、結婚となると話しは別である。浅見には早苗と言う好きな女性がいた。そのことは、とも子も知っている。
「お前、自分はまだ若くて結婚なんぞ・・・と考えているんじゃないか?
それは、違うぞ、俺なんぞお前の年にはもう、赤線通いをしていた・・・」
勝さんまったく見当違いのことを言い出した。
浅見は、金と、もう少しの勇気が有れば自分もぜひ赤線に通いたいぐらいである。
「勝さん、赤線て何処にあり、どうすれば良いんです・・・・」
「む・・俺が十四の時、売春防止法という法律が出来てな。十六の時はもう、遊郭も無くなっていた。お前も知っているだろうが、新町の通りに二階建ての同じ様な建物が続いて立っているのを。二階は皆、欄干が付いている。あそこが、遊郭の跡だ・・・・今の赤線は、駅前のパチンコ屋の裏通りの小さな旅館が並んでいるところだ。暗くなってあの通りを所在なげにふらふら歩くんだ、すると商売女がスーと拠ってくる。気に入ればそこで値段交渉だ、気に入らなければ振り切って歩けばいい、又、次のがやって来る・・・交渉が成立すれば女が旅館に連れていく・・・」
浅見は勝さんの真意を計りかね恐る恐る切り出した。
「お金、・・お金はどれくらい掛かるんです?」
勝さん話しに乗っている。
「金か・・一応相場は五千円だ、旅館の部屋に入ったとき渡せばいい。旅館代は女持ちだ、払う必要は無い。以上がショートだ、泊まりとなると・・・赤線じゃなく別の方が良い、バーだ、バーには二種類ある。酒を飲ませるバーと、いわゆるバーだ、いわゆるバーは二階が泊まれるようになっている・・・・・・・・」
話しは本筋から完全に外れている。
妹の婿にと考えている男に、夜の風俗の指導もないものだ。
昭和三十二年、売春禁止法施行。以来、職を失った女達は他に糊口をしのぐすべを知らず、夜の街に溢れていた。
浅見が五千円を握りしめ、駅前のパチンコ屋の裏に向かったのは、それから半年後の事である。
「おい! 別に今すぐと言うわけではない。高校を卒業してからで良い。取りあえず、許嫁ということでどうだ・・・俺がこれほど言うということは、お前に見所があると思うからだ・・・・・」
浅見は心底、見所なんか無くても良いと思った。『ああ! 早苗ちゃん、君と添え遂げる事は出来ないのか!』
長い髪、透き通るような白い肌、髪を掻き上げる細い指、浅見の脳裏を早苗の姿態と微笑みが通り過ぎていく・・・・・・」
何のことは無い。生意気にも十五で浅見も結婚を考えている訳だ。
「許嫁と言っても・・・親が何というか・・・」
「もっともだ、親は大切だ。時間を掛けて説得するんだ。お前の親ならきっと了解してくれるはずだ・・・・」
浅見の両親は陰になり日向になり、勝さんを応援していた。そのことは勝さんも十分承知している。
「勝さん、許嫁といっても、とも子さん承知してるの?」
勝さん、ハッと気が付いた。一番肝心な事を忘れていたことに。
入学式の日、とも子が自分でなく浅見に抱きついた事で頭が一杯だったのだが、毛虫に驚いて反射的にすぐ側にいた彼に抱きついただけかも知れない。
衆人環視の状況下であったのでさらに頭に血が上っただけかもしれないと、当たり前のことに遅蒔きながら、気づいたようである。
「とも子か! そうだ、とも子が問題だ・・・」
問題も何もありゃしない、当たり前のことである。
勝さんどうも、とも子の事になると通常の精神ではいられないらしい。
浅見も唖然としてしまった。
「それじゃ、とも子さんは何にも知らないの?・・・」
「うん・・だけど何とかする・・・きっと・・時間をかけて・・・いいか、今日の話しは絶対にとも子には言うな!」
「じゃあ、僕の両親には?」
「うーん、取りあえず言うな!」
今日の話しで実になったのは、結局、『赤線』の話しだけと言うことになる。 『ああ! 早苗ちゃん! 望みは繋がった! あらゆる困難を乗り越えて、二人は・・・・・・・』と、浅見が勝手な妄想に耽っていたときである。
「何とかする。俺がこうしようと思ったことは、何とかなった。・・・・・・・酒屋も立て直した。とも子も高校生だ・・・・絶対何とかする。心配するな!」
『ああ! 早苗ちゃん!』
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