昭和二十年十一月、北浦の仙崎港に伏見麗子は降り立った。
一歳の乳飲み子洋一を背負い両手には大きな荷物をさげている。
釜山港より乗り込んだ引揚船は小さな船であったが、引揚者で溢れていた。仙崎の港が見えたときには、船内で大きな歓声があがった。
『ああ! 生きて、日本の土を踏める!・・・』麗子の眼から涙がこぼれ、暫く止まらなかった。
そして今、波止場に立ち、彼女は茫然としていた。初冬の日本海から吹き上げる強風は容赦なく、華奢な麗子の身体を叩き続けている。
行くところが無いのである。寄る辺がないのである。
重い足取りで、入国管理の事務所に向かった。
とぼとぼと歩いた。瓦屋根、板張りの事務所の中に入った時、拍手が響いた。
「おかえりなさい!」
「ご苦労様でした!」
・・・・暖かい歓迎であった。その場に泣き崩れる者も多かった。
しかし、麗子にとっては虚ろな光景であった。彼女の頭の中は別の思いで一杯であった。
『どうすれば・・この子を連れて・・何処へ行けば・・・』
頭の少し禿げ上がった年輩の管理官は、いたわるように、優しく話しかけた。
「本当に、ご苦労様でした。もう大丈夫ですよ・・・落ち着き先は?・・・」 「・・行くあては・・・ないんです・・・」
「ご兄弟は? 親戚縁者は?・・・」
「・・・ありません・・・・」
父母を早く亡くした麗子は、祖父、祖母に育てられた。女学校を卒業後、小学校の代用教員として働いていたとき知り合った伏見健一と結婚した。彼は孤児の身でありながら、苦学して師範学校を卒業、教育に情熱を燃やす男であった。
暫くして、祖父、祖母が相次いで無くなり。夫の教育に対する志に添うようなかたちで、身辺を整理し朝鮮半島に渡った。
慶尚北道の安東の町で、夫は小学校の校長、麗子は教員として再出発をした。
昭和十九年、長男、洋一が生まれた。豊かとは言えなかったが、夫ともども、ひたすら子どもたちの教育に心血を注いだ日々。
現地の人々にも慕われた幸福な家庭だった。
事態が急変したのは、昭和二十年八月十五日、日本の敗戦だった。
「校長先生、軍隊ガ来ル。早ク逃ゲタ方ガイイ・・・」
朝鮮の人々は心から、伏見家の家族の心配をしてくれた。
「そんなことは必要ない。俺はやましいことなどしていない!」
熱血漢の伏見健一校長先生は聞く耳を持たなかった。
町に軍隊が進駐して来るとすぐに、小学校は接収された。
ある日、家事手伝をしている娘が真っ青な顔で家に駆け込んで来た。
「先生! 校長先生ガ撃タレタ! ハヤクニゲヨウ・・・」
お手伝の娘に手を取られ、着のみ着のままで逃げ出すはめになってしまった母と子。
以後、人から人へ匿ってもらう逃避行が続いた。全くの見ず知らずの人々であった。知人から知人の繋がりの細い糸であったが、乏しい生活のなかからやりくりして、数週間も家に置いてくれた人もいた。感謝してもし過ぎることはなかったが、麗子はただ頭を下げるより方法はなかった。
そして、やっとの思いで引揚船の出る釜山港についたのであった。
入国管理官は忙しく、方々に連絡を取っている。
「やー、お待たせしました。良いところが見つかりましたよ。他の方の手続きを先にしますので暫く待っていて下さい・・・」
麗子は堅い木のベンチに腰をおろし、只ひたすら待ち続けるしかなかった。
入国管理事務所の喧噪が自分には係わりのない遠くの出来事に思えた。
麗子はくたびれた和服の膝に手を置いたままである。髪は後ろに束ねられてはいたが、ほつれ毛が額に張り付いている。背中の洋一は鳴き声一つあげない。 夫、健一のこと、親切だった朝鮮の人々の顔が次々に浮かんでは消えた。
しかし、涙も感動も湧いてはこない。
思い出、感謝の思いに涙にむせぶには、まだ暫くの時間と生活が落ち着くのを待たねばならなかった。
夕刻、麗子と洋一がたどり着いたのは、古びた大きな建物の前であった。戦前、企業の従業員の寮として使われていたその建物は、身よりのない引揚者の為に提供されたものである。今日でいうと難民収容キャンプということになろうか。
「もう大丈夫よ、・・・」
「みんな、同じだから助け合いましょうね・・・」
建物は「援護館」と称されていた。入居者の十数家族全員が暖かく迎えてくれた。入国管理事務所から市役所を通じて連絡があったらしい。
「ありがとうございます。宜しくお願いします・・・・」
麗子と洋一は、終戦の日以来、人々の好意と援助に頼る日々の連続であった。
しかも助けてくれた人々は皆、その日の食事にも事欠く貧しい人々ばかりであった。
「こっちだよ・・」
みんなは、麗子の荷物を持つと部屋に案内してくれた。
ドアを開けると、四畳半の部屋だった。部屋には布団と毛布が用意されていた。畳はささくれ立ち、窓ガラスの一部は割れ板が打ち付けられていたが、綺麗に掃除されていた。
「さー、入って。ここがあなたの住むところよ・・」
麗子が座ると、人々が入れ替わり立ち替わり挨拶におとずれた。
「汚いけど、この湯飲み使ってね・・・」
「このお鍋まだ使えるよ・・」
「私、一人であまり使わないから、七輪を一緒に使いましょ・・・」
「ろくな物ないけど、今日の晩御飯食べにいらっしゃい・・・」
「何も心配することないよ、買い出しからなにから、皆で協力することになっているから・・・あなたも協力してね・・・」
麗子と洋一の新しい生活が始まった。洋一は後年の学者である。
「ここで待てばいいから・・」
「はい・・」
八重子と麗子の二人組は漁港の破れたフェンスの側に身を隠していた。
早朝の漁港は喧噪に包まれていた。八重子の歳は五十近くだろう。
援護館、漁港部隊の隊長である。麗子は漁港部隊に組み込まれた。最初の役割は、競りの終わった漁港を廻り、魚を拾って歩くことであった。
今日は、部隊員として次の仕事を覚える日である。
「此の港は、いま日本一の水揚げがあるんだよ・・・以西底引き、鯨の水揚げが中心で・・・・」
八重子は、リヤカーの荷台の腰をおろしタバコをくわえながら麗子に説明をしていた。
麗子は落ち着かない。何度も自分に言い聞かせたが、今から始まる仕事に不安を拭いさる事ができなかった。
その時、破れたフェンスの間から、男がぬーと顔を出した。八重子は立ち上がり小さく頷いた。
男は、黙ってトロ箱を三つ差し出す。箱には、アジ、サバ、太刀魚がそれぞれ詰められていた。
八重子と麗子は素早くトロ箱を受け取るとリヤカーに積み込んだ。
そして、青空市場の路上に持っていった。店を広げる場所は決まっている。
リヤカーからトロ箱をおろすと、そのまま箱を並べ、売り出した。
「いらしゃい! いらしゃい! 新鮮な魚だよ・・・・」
「奥さん、今晩は焼きアジでどうだね?・・」
「もう少し、まけてよ・・」
「大将、この太刀魚もっていきなよ・・・」
「すこし小さいな・・・」
暫くすると、麗子も声を掛けることが出来るようになった。
「いらっしゃい!」
「やすいよ! やすいよ!」
それは、これ以上はない新鮮な魚であり、値段も安い。昼過ぎには全ての魚が売り捌けた。その後は二人で市場じゅうを歩きトロ箱を集めて廻った。トロ箱も売れるのである。売れないトロ箱は持ち帰れば薪として使える。
二人は一仕事を終え、路地裏のうどん屋に入っていった。するとそこには、漁港でトロ箱を渡してくれた男がコップ酒を飲みながら待っていた。
「はい・・・」
八重子は幾ばくかのお金を男に渡した。男は黙ってそれを受け取った。
「こういうことさ、分かったかい? 明日は一人でやってみな・・・」
八重子は、優しく麗子に指図した。
「はい、やってみます」
次の日、麗子は一人で前日と同じ行動を取った。惑うこともなく、ことは順調に運んだ。
「アジを三匹もらおうか・・」
「はい! ありがとうございます」
「あんた、しんまいだね?」
二十代始めの女だった。髪にパーマをかけ、派手な化粧と服装は明らかにその筋の女性とわかったが、顔立ちが整い、眼に知性の光が認められた。
「昨日からです・・・」
「あんた、綺麗だね・・・」
「え!・・・」
「何処に住んでるの?」
女は同じ年頃で魚を売る麗子に、興味を持ったようである。
「援護館です」
「ふーん、引上げ者なんだ・・・頑張ってね。またくるよ・・・」
「ありがとうございました!」
此の日の出会いが、後に麗子と洋一の人生に少なからぬ影響を持つことになろうとは、此の時点ではまだ、麗子には思いもよらぬことであった。
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