22、生 き る (2)





 「どお、考えてみた・・・」
 援護館の麗子の部屋である。
 彼女に話しかけた女性は絵里子という。本名かどうかは分からない。
 外は荒れていた。ピュー、ピューと音を鳴らし冬の風が吹きすさんでいる。隙間風は窓といわず畳の下からも吹きこんでくるようであった。
 暖房はといえば小さな火鉢が一つ有るだけである。火鉢の練炭は赤々と燃えていた。
 となりでは、乳飲み子の洋一が布団にくるまり眠っている。
 洋一の布団の側には大きなミルクの缶が置かれていた。進駐軍の物資らしく英語の文字だけで、日本語の文字は無い。麗子と向かいあっている絵里子の土産品である。
 「わたしたちは、ここの生活で十分です。みんな親切でいい人ばかりですし・・・・・・・」
 「麗子さん、少し考えれば分かるわよね。いつまでもここに居られる訳ではないのよ。いつ閉鎖されるかも分からないのよ・・・・それぞれ、みんな生活のめどが立てば出ていくことになるんだから・・・・・」
 絵里子は妾になることを進めているのだ。
 他意はなく、心よりの親切心からであった。
 麗子が、初めて一人で魚を売った日、声を掛けられて以来、絵里子はしばしば麗子から魚を買うようになった。歳も同じで、妙に気が合い援護館の部屋にも繁く訪れるようになったのだ。 
 「私は進駐軍あいての、パンパンだけどあなたには此の仕事は無理だと思うの。だからといって、今の世の中とても子連れの女一人で生きていくのは不可能なことよ・・・・再婚する気もないと言うし・・・妾は再婚より遙かに自由よ!・・あなたも、洋ちゃんも気兼ねをすることもないし・・する事は同じで、男の世話は少なくて済むのよ。良いと思うけどなー・・・」
 「絵里子さんありがとう、でも私頑張ってみる。洋一と二人でなんとか生きていく・・・」
 「そう・・無理にとは言わないけれど、あなた綺麗で、魅力的だから男には注意しなくっちぁ駄目よ。世の中には悪い男が一杯いるからね」
 そういう、絵里子も化粧こそけばけばしいが、それは営業上のことである。素顔は輪郭のハッキリした美人である。
 「絵里子さんこそ、どうしてパンパンしているの。身よりはないの?」
 「私は、理由があって此の商売をしているの。親も兄弟もいるよ、でも暫くは会わないことにしているの。・・・こんど機会があったら話すね。麗子さん朝鮮で教師をしていたといったわよね・・・実は私も、戦前は小学校の代用教員をしていたの・・・・・」 

 慣れると、魚を売るのも結構楽しいものである。
 店を出している人たちとも知り合いになり助け合った。
 市場を仕切っているヤクザも優しかったが、時々口説く者がおり、それには閉口することも多かった。
 その日も何事もなく過ぎようとしていたとき事件がおこった。
 騒ぎが少し離れたところで起こりだしたようだった。ざわめきは次第に麗子の方に近づいてきた。身を乗り出して見つめると白人二人、黒人一人の三人の軍人だった。酒によい明らかに不良軍人と思われた。
 商品を並べている台を蹴飛ばしながらやってくる。麗子は急いで店をたたみ始めたが遅かった。その中の一人が麗子を認めると血走った眼をして駆け寄ると彼女の腕を掴んだ。 
 一瞬の出来事であった。麗子を抱き締めると連れ去ろうとした。
 あまりの出来事に麗子はすくんでしまって声すら出ない。
 「やめろ!」
 「警察を呼べ!」
 「だめだ、MPだ!」
 「なんとかならんのか!」
 方々から声が掛かったが、人々は遠巻きに囲むだけであった。無く子も黙る進駐軍である、とても手出し出来るものではない。
 白昼堂々と女を拐かす事件も希なこととは言えない。
 「やめなさい!」
 叫ぶと同時にハンドバックで殴りかかった女性がいた。
 絵里子であった。
 しかし、腰のあたりを蹴飛ばされ道に叩きつけられた。
 白人の大男は麗子の股間に手を延ばし、まさぐると奇声をあげた。
 麗子の胸は締め付けられ、息が止まり呼吸する事も出来なくなった。

 その時である、風が動いた。
黒ずくめの服を着た男が、麗子の側に来たと思う間もなく、麗子を抱き締めていた大男はその場に崩れた。
 脇腹に一本拳の突きが入ったのである。
「先生だ!」
 「そうだ! 先生だ!」
 どこからか声が懸かった。
 黒人の大男がストレートパンチを打ち出すも、パンチが届くよりも早く、先生と言われた男は股間を蹴り上げた。休む間もなく正拳突きがもう一人の人中の急所をとらえた。
 あっという間の出来事であった。
 大男が三人その場に悶絶し呻いている。
 何処からか、拍手が起こった。
 「やった! やった!」
 方々から歓声が湧き起こった。
 若き日の塩田先生である。
 「MPが来たぞ!」
 「先生早く、早く逃げて・・・・」
 人々のざわめきの中、塩田先生は姿を消していった。
 麗子は茫然とその場に座り込んでしまっている。
 「だいじょうぶ?・・・」
 絵里子が駆け寄ってきた。
 麗子は絵里子の腕にすがると身体全体で震えている。歯茎が合わないらしく言葉を発することが出来ない。

 麗子と絵里子は喫茶店で向き合って座っている。コーヒーの甘い香りが麗子を落ち着かせた。絵里子に連れられて入った店である。
 『第三の男』のチタールの調べが流れている。
 絵里子はタバコをくわえ、紫色の煙をくゆらせている。麗子にとって、コーヒーを飲むのは何年ぶりのことであろう。
 このような優雅な雰囲気の中に身を置いたのは、女学校以来のことに思われた。
 麗子は外套を脱ぎ、洗い晒しではあるが、清楚なブラウス姿になっている。
 「絵里子さん、あの・・助けてくれた、先生とか言う人・・お礼もいってないのよ・・・」 
 「ああ、先生ね・・・塩田先生というの、私たちの間では有名な人よ、お礼が言いたいのなら、会わせるのは簡単なことよ。でも、別にお礼をいう必要もないと思うよ。あんなこと日常茶飯事で、先生は気にも留めていないと思うから・・・・・・」

 塩田先生は、海軍飛行予科練習生、通称「予科練」の出身。大村飛行基地所属の時に終戦を迎えた。恋人を直撃弾で失い、長崎の原爆を対岸より経験している。
 かといって、格別米軍に対し、恨み、復讐心が強いというわけでもない。
 むしろ強者の弱者に対する理不尽な態度が許せないという、もって生まれた義侠心が彼の行動の規範になっているようだ。
 武道の達人でもある今の彼の敵は、進駐軍の不良軍人に限られていた。
 神出鬼没、何処に現れるか分かったものではない。
 進駐軍に怪我人が続出しては、非はどちらにあるか分かってはいても、MPも黙っているわけにはいかない。
 必死の捜索を行っているが逮捕出来ないのだ。
 それも其のはず、街の女、ヤクザ、日本の警察までもが、彼をかくまうのだ。

 「そんなことより、随分疲れてるみたいよ。たまにはこんな店でゆっくりくつろぐことも必要よ」
 「・・でも、絵里子さん。コーヒー一杯の値段で親子二人が、一日生活できるのよ。とても、勿体なくって・・・絵里子さん、高価なミルクを何時もありがとう。でも何故、こんなに、わたしたちに優しくしてくれるの?・・・」
 「うーん! たぶん、たぶんよ。あなたはもう一人の自分のような気がするの・・・・・」
 絵里子は銀のシガレットケース開け、もう一本タバコを取り出した。
 そして考え込む様子で、フレアスカートの中の足を組み直し、赤いマニキュアの細い指で、タバコを口にくわえ火を着けた。
 「まえに、なぜこんな商売をしているか機会があったらゆっくり話すと言ったわよね?・・・私もあなたと同じように小学校の教員だったの、戦後、進駐軍に学校が接収されたわ。しかし、授業は続けていた。でも教員はみんな混乱していた。何を教えて良いか分からないの、昨日まで正しいと一所懸命教えていたことがみんな嘘で、今日からが本当だなんてありうる?・・・・」
 麗子は慶尚北道、安東の小学校のことを思い出した。
 校門の桜並木を。屈託のない子どもたちの顔を。
 最後まで頑なに自分の価値観を変えることを心よしとせず、死んでいった夫のことを。 
 「学校の仕事を終え、家路についていた時のことだったわ。進駐軍に襲われたのは、・・丁度今日のあなたのように・・・」
 「まあ!そんな・・そんなことが・・・」
 「不幸にも、塩田先生はいなかった。口を塞がれ、廃屋のような所へ連れ込まれた。男は五人だった。男達は代わる代わる私の身体を引き裂き、貫いた・・・・乙女だった私を一晩中弄び、凌辱を加えた・・・・・」
 絵里子はまるで他人ごとのように淡々と話し続ける。
 麗子は両手で口を押さえたままことばを失っている。
「警察に訴えた、警察を通してMPにも、・・・しかし、五人は転属になり何処かへいってしまった。・・・茫然として暫くは何も考えられなかった。涙もでなかった・・・身体の中心に棒が刺さったままのような、堪らなく嫌な感覚が続いた・・・・」
 「そ、そんな、むごいことが・・・・」
 「強烈、あまりに・・・私にとって強烈な体験だった。真実、狂ってしまいそうだった。・・嘆いて、死にたくて、悲しんで、悲しみの底が割れた。底が割れると真実が見えたような気がした・・・本当のことが解ったような気がした・・・・・」
 麗子は絵里子の話に引き込まれていった。
 「・・そのとき・・あなたに見えた真実とは何だったの?・・・・・」



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