23、生 き る (3)





 「犯され、凌辱された女がここにいる。ただそれだけ。・・・・そして、その女は今から何をするのか・・・昨日までの私、あるいは、私を取り巻いていた世界がみんな、フィクションのように思えた。現実感がまったく無くなってしまったの。正義、倫理、理想、教育、今まで大事にしていたことが堪らなく空虚に思えた。私は今だけが現実、真実。今から自分の充実した生き方を・・・・・そして家を出た・・・只それだけのことに何故、気づかなかったんだろう?・・・私の目の前の風景に、パーと光がさした。世界はなんて明るいんだろう・・・・」
 取り付かれたように、絵里子は一気に話した。新しいタバコに火をつけると、深く吸い込み、勢い良く吹き出した。
 麗子はその姿を見て、こだわりから吹っ切れた、一人の新しい女性の出現にたいし、心よりの感動をおぼえた。
 しかし、絵里子に返す言葉は見つからなかった。
 『絵里子さんはそれで良くても、私は私の生き方しかできない』麗子は決心を新たにするしかなかった。
 絵里子も麗子のその気持ちは良く解っているようであった。
 喫茶店の中で、二人の間に沈黙が支配した。暫く前からバックミュージックはマンドリンの調べに変わっていた。

 「洋一君・・お母さんはいる・・?」
 声を掛けたのは絵里子だった。援護館前の広場で遊んでいる洋一は小学二年生になっていた。
 「うん、さっき帰ってきたよ」
そう答える洋一の側を通り、絵里子は麗子の部屋に向かった。
 ドアをあけて入ってきた絵里子の顔を見て、彼女が何かを決心しているように麗子は感じた。
「どうしたの、絵里子さん。なにかとても溌剌として見えるわ」
 「ふーん、分かるのかなー・・・私、東京に行くことに決めたの」
 「えー・・東京・・・」
麗子は驚いた。
 東京は麗子にとって、遙かな別世界と思っていた。
 「なんでまた・・そんな・・お茶を入れるから楽にしてね・・・」
 絵里子はちゃぶ台の前に座った。
 麗子は魚市場での仕事を終わって帰ったばかりであったが、すぐに、建物の隅にある共同台所へ行くと七輪に火をおこし、ヤカンをかけた。
 『・・東京・・・東京・・・』麗子の胸は騒いで落ち着かない。

 「絵里子さん、誰と行くの・・・まさか一人じゃないでしょ?・・・一人なの?・・どうしてそんな怖いところに一人でいくの・・・・」
 「別に、鬼が居る訳じゃあるまいし・・・」
 「鬼よりもっと怖い人たちがたくさんいて、とって喰うというよ・・・」
 麗子にとって、東京という地名のもつイメージは、別世界、恐怖の魔界そのものであった。
 昭和二十年代当時、地方の女性のイメージとしての東京はまさにそれであった。麗子だけが特別な訳ではない。
 「麗子さん、以前あなたに言ったわよね、私、女実業家になるんだって・・・・いよいよその時が来たの、その為に進駐軍相手のパンパンをやったり、旦那衆を手玉に取ったりしてお金を貯めてきたのよ、進駐軍からは英語もならった。旦那衆からは商売の秘訣も聞き出した・・・全部今日のためにやって来たの・・・勝負するの、魔界都市『東京』で・・・」
 麗子は目の前にいる、絵里子にたいし深い感動と尊敬の念を厚くした。彼女ならきっとやり遂げるだろう。しかし、洋一と二人、生きるだけで精一杯の自分には、絵里子にたいする実質的応援は何もできない。
 「分かったわ。月並みな言葉だけど、頑張ってね! 私にはそれしか出来ない・・・」
 麗子の瞳は涙で潤んできた。絵里子の姿がボーと霞んできた。
 俯いて涙を堪えている、麗子の耳に絵里子の言葉が聞こえてくる。
 「私にとって、身内は、麗子さんと洋一君しかいないの。魔界都市に潰されたら、帰ってくるかもよ・・・? それより、麗子さん身体が弱いんだからあなたの方こそ気を付けてよ・・・」
 絵里子は用意周到であった。クラブ、キャバレーを経営する男の妾になっていた。男に頼んで店でも働かせてもらい仕事も覚えた。
 東京進出にあたり、男のコネを最大限に利用した。東京の赤坂で雇われママの職が決まっていた。いわゆるチーママである。後は絵里子の努力と実力しだいである。

 絵里子が東京行きの特急寝台に乗り込んだのは、それから一ヶ月ほど経ってからであった。
 見送る人は、麗子と洋一だけである。
 薄暗い電灯の下で三人は向き合った。麗子は胸にこみ上げてくるのを必死に抑えていた。手をつないだ洋一にも事態は理解できるようである。先ほどから黙って俯いたままである。
 絵里子は、その洋一の頭に手をやると、
 「洋一くん、君は男なんだから、お母さんを大切に・・力になってあげるのよ・・守ってあげるのよ・・・」
 その言葉を聞くと、洋一は顔を上げ、絵里子の眼を見つめると、
 「うん! ぼくは男だ!・・・」
 麗子は洋一の眼に、父親の面影を見たような気がした。
 「麗子さん、落ち着き先が決まったら手紙を書くから、困ったことがあったら、絶対に連絡してね・・・」
 「絵里子さんの方こそ、私なんにも出来ないけれど、困ったら連絡してね。嫌になったら何時でも帰って来て・・・三人で暮らしましょうよ・・・」
 後は言葉にならなかった。
 麗子はネットに入った手土産用のミカンを、絵里子の胸に押しつけた。


 「おい、洋一! 俺の後についてこいよ! 黙ってな・・・」
 茂ジイは、声を抑えて洋一に言った。
 洋一は小学四年生になっていた。身体はそれ程大きくはないが、俊敏そうな体つきに、利発そうな顔を備えている。
 援護館の後ろは小高い山になっている。山の大部分が公園である。戦前は整備され、春の花見の時など大勢の人々で賑わっていた公園だった。しかし、戦後は荒れ果てた儘になっている。
 援護館の直ぐ近くに、公園へ登って行く道がある。その道を一組の若いアベックが腕を組んで公園を目指していた。
 茂ジイと洋一は、隠れながらその後を付けている。茂ジイは六十をこえている。援護館で一人暮らしであった。彼は洋一に世間を教えてくれる先生でもあった。
 茂ジイの後を歩きながら、洋一は、大人の秘密に触れることが出来そうな予感に胸が騒ぐのを覚えた。
 アベックは腕を組んで楽しそうに話しながら歩いて行く、もとより会話の内容は聞き取れない。茂ジイと洋一は気づかれてはならぬと、その方に注意がいく。
 頂上近くについた。男の方があたりを見回した。納得したらしく、腕を外し女の肩を抱いた。
 二人は荒れ果てた藪のなかへと歩を進めた。女は俯いたままである。
 二人の間に会話は無くなった。
草の丈が低くなっているところへ二人は腰を降ろした。
 男は空いている右手で女の顎を摘んだ。
 次の瞬間、激しく二人は口を合わせ、吸い始めた。
 「もう大丈夫だ、近くに行こう・・・」
 茂ジイは小声で洋一に言った。
 洋一の膝はガクガクして、まともに歩けない。這うように茂ジイの後に従った。
 男は女を草の上に押し倒した。
 「いや! やめて!・・・」
 女の声は、甘えるような響きだった。
 決して嫌がっているわけでは無いことは、洋一にも分かった。
 男の手が、女の身体をまさぐり、衣服を剥ぎ始めた。
 茂ジイは男女の足下あたりまで接近した。
 洋一の背筋に冷や汗が伝わった。怖くてならなかった。出来れば一刻も早くこの場を去りたかった。
 女の白い太股が洋一の眼の前に拡げられた。
 洋一は歯の根が合わず、ガチガチ鳴り続けるのを止めようがなかった。
 茂ジイは悠然と腕を組んで見つめていた。
 男がベルトを外し、ズボンと下着を一緒に脱いだ。
 低く、蠢くような吐息が流れてくる・・・。
 それは、時に・・抑えた悲鳴のようでもあった・・・。



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