25、生 き る (5)




 決闘の日から、三ヶ月たっていた。十二月初旬のことである。
 寒い日であった。
 落葉樹は針金のように校庭に突き刺さっていた。
 洋一は、寒さに縮こまりながら授業を受けている。
退屈な授業を聞いていると、ドタバタ廊下を走って近づいてくる、足音が響いてきた。何事かと皆が耳をそばだてている時、
 『バチーン』と大きな音をたてて引き戸が開けられた。
 「洋一! 大変だ!」
 血相を変えて、教室に駆け込んできたのは、茂ジイだった。
 突然の出来事に教師を始めクラス中が茫然として声も出ない。
 「麗子・・麗子さんが倒れた・・・青空市場の店で・・・」
 「何だって!」
 洋一は、椅子を倒して立ち上がった。
 「市立病院だ! 早く、早く・・」
 「先生・・・」
 洋一は、国語教師の秋田に視線を向けた。
 「伏見・・良いから行きなさい」
 茂ジイは、すでに洋一の袖を引っ張り続けている。
 カバンをひったくるように抱え込むと、洋一は、茂ジイと市立病院へと急いだ。
 「それで・・どうなん・・病状は・・」
 「倒れて、意識を失ったらしいが、今は少し落ち着いている。ただ・・先生が、『家族の方をすぐに』というものだから・・洋一おちつけよ・・・」
洋一は、なにも考えられなかった。
 突っ張ってはいても、十六歳である。『かあちゃんが!・・・かあちゃんが!・・・』

市立病院は、援護館のすぐ近くにある。
 大きな病院であるが、いささか建物が古い。立て替える話しも出ているが、古く偉容をほこる建造物が、無くなるのを惜しむ声も多い。
 洋一は、茂ジイの後に続き、薄暗い御影石の玄関ホールを過ぎ、木製の階段を駆け上がった。二階に着いたところで、茂ジイは精根尽き果てた。
 床に座り込むと、
 「206号室だ!」
 と、薄暗い廊下の先を指さした。
 206号室の前に着いた。
 洋一は、ドアノブに手を掛け、少し呼吸を整えると、はやる気持ちを抑え静かに室内に入る。
六人部屋だった。
 一番ドアに近い処のベットに麗子が横たわっている。そばには武田のおばちゃんが、腰掛け麗子の布団をさすりながら、何か呟いていた。
「洋ちゃん」
 武田のおばちゃんが先に気づいた。
 麗子はゆっくり洋一のほうえ、向き直った。
洋一は黙って母親を見つめている。
 「ぼーとしてないで、掛けなさいよ。なに、青い顔をしているのよ・・・」
 そういう、麗子のほうこそ、よほど青白い顔をしている。
 「はい。洋ちゃん」
 武田のおばちゃんは、そう言うと、洋一に椅子を渡した。
 「かあちゃん・・どう・・どうしたんだ・・」
 「市場で魚を売ってた時、ちょっと目眩がして倒れたんだよ、別にたいそうな事じゃないよ・・側にいた、武田さんが、救急車を呼んでくれて・・気がついたらベット上だった。武田さんに、お礼を言ってね・・」
 「おばちゃん、ありがとう」
 その時、茂ジイが入って来た。
 「洋ちゃん、麗子さんね。意識が無いとき『洋一・・洋一・・』とうわごとを言ってたんだよ・・茂さん、二人きりにしてあげようよ・・・」
 そう言うと、武田のおばちゃんは、茂ジイの袖を引っ張り部屋から出ていった。

 「洋一、心配することないから。かあちゃん大丈夫、まだ頑張るから・・倒れてから、暫く夢を見ていたようなの・・洋一は、当然記憶にないけど、あなたのお父さん、健一さんが、安東の小学校の校門の前で、ニコニコ笑って私を見ているのよ・・・」
 洋一は、麗子の手を握り、黙って母の話すのを聞いている。青白い顔にほつれ毛が掛かり、上を向いたまま、視線は虚空を漂っているようだった。
 洋一は、父を知らない。
 引き揚げの混乱の中、一枚の写真すらもなかった。
「・・・校門のところは、桜並木なの、満開の桜がちらちら舞っている・・・・お父さんが、ニッコリ笑いながら言うの・・よく、頑張ったね! ありがとう・・・そのうち、子ども達も集まってきた、丸坊主で鼻を垂らした男の子、おかっぱ頭の女の子、腕白小僧の側には、お手伝いさん、近所の朝鮮の人たち、・・・匿って逃がしてくれた人たち、・・みんなが笑って私を呼んでいるの・・・満開の桜が降っていて、私は歩き出した・・・そこで目が覚めた・・」
 洋一は言葉を挟めなかった。
 (いっそ、そのまま行ってしまった方が、母は幸せだったんでは? 少なくとも楽だったんでは? 辛い、厳しい、生活の毎日。らくしたこと、楽しんだことが有ったのだろうか? 母の一生は何なのか?・・・ でもいやだ! 絶対にいやだ! 母が僕を残して何処かへ行ってしまうなんて・・・)

 弱々しい、細い声で話し終えると、麗子は眠りについた。想いは、又、慶尚北道、安東の小学校に飛んでいるのだろう。
 麗子の最も楽しかった思いでの場所。
 洋一は、麗子の手を優しくつかみ、撫でている。彼の虚ろな瞳からは、赤ん坊の自分も満開の桜の下で母親に抱かれている光景を想像しているかに見えた。 
洋一は、麗子の手を布団の中に入れると、そっと部屋を出ていった。ドアの外には、茂ジイ、武田のおばちゃん、そのほか援護館の人々が七〜八人集まっていた。
 「洋ちゃん、心配すんな。民生委員には話した・・」
 「市役所で生活保護の手続きも出きるから・・」
 「病院の支払いも心配する事はないから・・」
 「交代で、麗子さんの看病するよ・・・」
 声を落として、皆は次々に洋一に話しかけた。
 「ありがとう・・・」
 洋一はそれだけ答えるので精一杯だった。
 (母が死ぬかもしれない。そしたら、もう会うことができない。絶対に・・・・幼い時からの、母の姿が浮かんできた・・・何故、もう少し心配を掛けないように出来なかったんだろう・・・古着はいやだと、駄々をこね、困らせたんだろう・・古着の何処がいけないんだ! なにが恥ずかしいんだ・・・)
 悔いが次々に襲ってくる。胸が張り裂けそうになった。
 それ以上に、母親が消滅するかもしれないという恐怖が、洋一を襲った。
 何時も自分の前に、いて当然の母がいなくなるなんて・・・

 麗子が、この世を旅立ったのは、年を越した一月の半ばであった。弱い身体に無理に無理を重ねたあげく、重い肺炎を患った結果である。
 葬儀は援護館の集会所で行われ、参列者は、洋一の校友と援護館の人々であった。
 洋一は、東京の絵里子には知らせなかった。
 孤児院からの強い誘いは続いているが、洋一はかたくなに一人で援護館に住み続けた。



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