「マツ、最近はどうだ、調子よさそうじゃないか?」
額の汗をタオルでぬぐいながら、勝さんは、マツに声をかけた。
夏にはまだしばらく間がある。
しかし、春も終わりになると、配達の力仕事をしたあとは汗をかく。
「ちょっと顔を洗ってくるから、待ってろよ」
勝さんはまったく無意味な言葉をなげかけた。
「勝さん、俺、ビールを飲んでんだよ。逃げるわけないじゃないか?」
勝さんは洗面所で顔を洗うとホッと一息もらし、鏡に写る自分を眺めた。
『俺も歳を取ったものだ、眉毛が薄くなり、皺とシミがふえやがった。ビールを、二十ケース運んだだけでこのざまだ・・・・・』
実際、十年前ならばビールの二十ケースを、団地の三〜四階に運び込んでも息を乱すこともなかったろう。
伝説の『戦闘神、勝』の贈り名は、いつまで通用するのだろうか?
少なくとも、寝たきりになり、点滴を受けるようになったら、あるいは、挑戦者が出現するかもしれない。
勝さんがカウンターに戻ると、マツに浅見が加わって話しをしていた。
浅見は相変わらず、紺のスーツに白いワイシャツ、紺のネクタイ姿である。
「浅見さん、久しぶりだね、なにしてたんだい?」
自分と浅見のグラス二つ、そして、ビール瓶をカウンターに置くと勝さんは声を掛けた。
「勝さん、二週間、東京に出張してたんですよ」
「ほー、都へ行ってたのか、どうだい、都は?」
「都は?」
浅見は答えに窮しているようだ。
「あんたの会社は東京の何処にあるんだい?」
これなら、浅見にも返答可能である。
「中野というところですよ」
「中野? おいマツお前しってるか?」
「中央線の中野ならしってるよ、たしか新宿から快速電車で一つ目だったかな?」
勝さんびっくりした。
「マツ、糖尿病のお前がなぜ詳しく知ってるんだ?」
「糖尿病と、中野を知ってることと関係ないだろう」
マツは少しムッとしたような顔をした。
誰が聞いても、明らかにマツの言うことの方が正しい。
「中野にある本社で、長期経営計画の摺り合わせがあったんだ・・・・・もしかしたら、そのうち本社に転勤なんてことに、なるかもしれない」
「そうか、中野か?」
勝さんは妙に中野にこだわる。
「浅見さん、転勤かよ?」
マツは気になるふうである。
「いや、その可能性があるというだけだよ」
「そうか、よかったよ。全草連はあんたが会長になる予定だからな」
「全草連!」
浅見はすっかり忘れていたようだ。
ビールを一息に飲み干すと、勝さんは話し出した。
「そうだ、全草連。あれはなんとか形にしなくっちゃあな。うちのハツエと、マツのお袋がかき回したおかげで、今のところ手つかずになっちゃいるが、何とかしなきゃあなん。学者もここんところ、あまり身が入らないみたいだし、やり始めたたら最後までやらねば、わしの名折れになる」
「おいおい、全草連は勝さんの問題になったのか?」
上目遣いにマツは勝さんの顔をみた。
「武道のほうは相変わらずですよ。金と名誉がからむと、なぜああなってしまうんだろう? 武道それ自体は決して穢れたものではないのに・・・・・」
よほど、浅見は武道に、不信感を抱いているらしい。(はたして、武道だけの問題であろうか、人間性全体のことでは?)
「ここに、集まる人たちは良いです・・・・・ほんとうに良いです。皆さん高潔です、人間としての品位が高いと、心底思います・・・・・」
浅見はしんみりと云った。
(・・・・・仕事上のことで、東京の本社で何かあったのかもしれないな?)
勝さんは、浅見の真剣さと落ち込んでいる様子が気になった。
「いらっしゃい。浅見さんしばらく見なかったね?」
買い物袋をぶらさげ、ハツエが入ってきた。
「浅見さん、東京へ行ってたんだってよ」
そう言うと、勝さんは、ハツエの買い物袋を受け取り、奥くに入っていった。 台所で袋を開くと、食料品を選り分け、冷蔵庫などに収納する。
柄にもなく、勝さんがこういうことをするときは、何か考え事をしているときだ。
「なにか、考えついたかい?」
勝さんが、カウンターに戻ると、ハツエが声をかけた。
彼女は、すべてお見通しである。
「うん、まあな」
そういうと、勝さんはビールを一口飲んだ。
多少もったいぶっている。
「勝さん、何なんだよ・・・・・いっちまえよ」
マツはせっかちである。
「いや、気候も良くなったし、今度の日曜は晴れだそうだ。どうだ、みんなで潮干狩りにでも行かないか?」
「え! 潮干狩り?」
マツは、すっとんきょうな声をあげた。
「潮干狩りは、子どもの遊びじゃねえか。俺は体も良くないし、あまり気がのらねーや!」
「マツさん、いいよ潮干狩りは。何十年ぶりかな・・・・・子どもの頃は、よく行ったよな・・・・・」
浅見は乗り気らしい。
浅見の言葉を聞くと、勝さんは遠くを見つめるような眼をした。
勝さんの頭の中を、海と潮の香り、そして蒼い空と太陽。子どもの頃の懐かしい想い出がよぎった。
「こんにちはー」
引き戸をあけて、ゲンさんと健が入ってきた。
「ちょうど、そこで健ちゃんと一緒になってな。おッ、なんか打ち合わせしてたみたいだな」
「はいッ、ビールでしょ。今度の日曜に潮干狩りに行こうか? という話しをしていたのよ、あなたたちもどう?」
ハツエはもう行く気になったらしい。
「潮干狩りといったら、室津海岸かな? だったら、ハツエさんのコネで無料で入れるわけだ・・・・・」
ゲンさんは、細かい金の勘定は得意である。彼の頭は高速回転をはじめた。
「健ちゃん、たしか魚市場にコネがあったよな?」
「うん、よく知ってるのがいるよ。それがどうしたんだい? もしかして、取ったアサリを卸すつもりか!」
ゲンさんは、四角い顔でニタリと笑った。
「裏の爺さんに頼んで、クワを四〜五本貸して貰って。二十sの麻袋が二十枚程度いるかな? 運搬車には、勝さんの普通トラックがある。健ちゃんの小型ダンプに、小型シャベルカーをつんでいって・・・・・」
勝さんは眼をむいた。
「ゲンッ、お前、なに考えてんだ! 潮干狩りにシャベルカー持ち込んでどおすんだよ!」
「いいって、勝さんまかしとけって、なんたって、内海もののアサリだ、上手くいけば二〜三十万にはなるかな?」
勝さんは、カウンターの奥から身を乗り出し、ゲンさんの頭をひっぱたいた。 「いてー! なにすんだよ」
「ばかッ、ほかの潮干狩り客に、迷惑だろうが! 室津漁協が、稚貝の養殖をして放流してんだぞ! ハツエの従兄弟のシンペイさんは、水産試験場で一所懸命、貝の養殖の研究をしてるんだぞ・・・・・それを、シャベルカーで根こそぎにするつもりか!」
顔を真っ赤にして、勝さんは怒っている。
「まーまー、勝さん、ゲンさんの冗談だよ」
健は何か考えがあるような顔で、勝さんをなだめた。
「冗談であるもんか! おい、健! おまえも良からぬことを企んでるな?
ふざけたことを言うと承知せんぞ」
「ふざけてないよ、勝さん。お客さんみんなが喜び、漁協の番人も我々もたのしんで、なおかつ金になることだよ」
健は、そつがない男である。
ニヤニヤ笑いながら、絵を描き始めたようだ。
『健の考えることなら、安心して話しにのれるかもな?』
気も落ち着きビールを飲みだした、勝さんは、さきほど、浅見がいった『高潔で品位が高い人たち』という言葉を思い出した。
『こやつら、単純かもしれないが、少なくとも穢れてはいない・・・・・』
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