6. 病 院






 「クソばばあ! 出ていけ。おまらの来るとこじゃない」
 浅見が病院内に足を踏み入れると、明らかにマツと思われる怒鳴り声が聞こえた。
 保科総合病院、それほど大きくはないが一応総合病院の体裁はとっている。
入り口を入ると正面に受付があり、その受付を左に折れ少し行ったところが、大きな待合室になっている。
 ストライプ柄のパジャマを着て、スリッパを履いた男が、右手を腰に、左手を前に突き出しながら、唾きを飛ばし、身体を震わせながら、怒鳴り散らしていた。
 我らが「マツ」である。
 学者が袖を掴んでいる。職員が三人マツの行く手をさえぎるようにしている。職員の向こうには五〜六人のおばさんがヒソヒソ話していた。年齢は六十を過ぎているようだ。
 「いやね! 頭おかしんじゃないの?」
 「変態よ!」
 「危ないよね、病院に隔離しなきゃあ」
 事情は解らなかったが、とりあえず、浅見はマツの腕を掴んだ。待合室には他にも大勢患者がいたが、みな複雑な表情をしていた。かならずしもマツを非難、忌避しているようでもなかった。
 学者は浅見に目配せした。浅見は了解して言った。
 「マツさん、出よう。公園へ行こう」
 「マツ、行くぞ」学者が袖を引っ張った。興奮さめやらぬマツはシブシブ引きずられるように従った。
 なんとか場が治まり、ホットした男の職員が一人、三人を押し出すように、入り口まで後を付いてきた。

 いつもの児童公園である。コンクリートのベンチにマツと学者が腰を下ろした。ブランコ、滑り台では、それぞれ子供と若い母親が楽しそうにしている。
何処にでもある、児童公園の風景がそこにあった。
 マツの興奮は、まだ収まっていない。
 「買ってきたよ」
 浅見は両手に三本の缶ビールを抱えていた。実際この連中、アルコールが入らなければ会話も出来ない。まったく困った男共である。
 ビールを一口飲んで、マツが口を開いた。
 「あのババアども、何時もそうなんだ。朝から弁当を持ってきて、あそこに居座ってやがる。毎日のことだ、診察券をだして話し始める。えんえんとだぞ、サラリーマンとか仕事人が時間を気にしながら順番を待っているのに、平気なもんだ、集会所と勘違いしてやがる」
 学者が後を引き継いだ。
 「ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ喋っていた。気にはなったが、マツと話を続けていた。そのうち、聞き捨てならぬことが耳に入った。さすがの俺もあきれたよ」 
 浅見は興味をそそられたらしく、学者に続きを促した。

 御年輩の女性の方々の、その場の会話をかいつまんで言うとこういうことになる。
 五〜六人のオバサン連中が、いつもの通り、いつ果てるともない話を続けていた。その内の一人が発言した。
 「○○さん、最近かおを見せないわね?」
 「あなた知らなかったの、○○さん風邪をこじらせて具合が悪いのよ」
 「あー、そうなの。そりゃ大変じゃないの! 早く良くなって、また此処で(病院)みんなと楽しい話が早く出来るといいのに」
 「まったくよね、みんな歳なんだから気をつけなくちゃね!」
 どうも、現在の総合病院は集会所であり、娯楽施設でもあるようだ。しかし勤め人は総合病院に行くと、完全に半日は潰れるため、まずは、敬遠して足を向けない。どうしても行かねばならない場合は職場の廻りを気にし、時間を気にしながら、後ろめたい気持を抱いて診療の順番を待つことになってしまう。 世の中、そう言う事になっている。マツが怒る気持も解らぬでもないが、もう少し大人になる必要があろう。 
 『泣く子と地頭とババアには勝てない』という諺もある。

 「実際、世の中、納得のいかないことが多い」
 考え込むように、浅見がつぶやいた。
 「浅見さんどうした。何時もあまり元気な方じゃあないが、今日はかなり落ち込んでいるぞ」
 多少心配そうに、学者が尋ねた。
 「力になってやるよ、いってみな。仕事のことかい?」
 マツの脳細胞からは、もう先ほどの騒ぎの事は、どこかへ飛んでいったらしい。マツの辞書にはストレスという言葉は存在しない。
 浅見は訥々と話し出した。
 「実はたいしたことではないんだ。武道のことなんだ。なぜああ面倒なんだろう。嫌らしいんだろう。好きだから武道をする、それ以外に何があるというんだろう。そういう気持ちでやっている人間ばかりの単純な世界に憧れていた。ところが、おれがあいつの師であるとか、師の言うことは絶対だとか破門だとか下司根性まるだしで、恥じることが全くない。塩田先生は独力、命がけで現在の地位を築いた。しかるにその弟子たちが、俺が塩田先生の正統だ、いや俺がとケンカばかりしている。会社社会のストレスが嫌で単純と思われた武道の世界に入ったが、こちらの方がもっと嫌らしい」  
 学者は考えこんだように話し出した。
 「浅見さん、やっと気が付いたかい。つまるところ利害だよ、損得だよ。茶道も華道も詰まるところ家元制度には、つねにこの面がある。違った良い面も有るのだが、名誉と利害が表面に出て来ると、収拾がつかなくなる。宗教団体もそうだが、会社組織と異なり、最低限の経済的効率という歯止めが無いため、個人的利害と名誉欲のみで動いてしまう」

 「さすが学者!」マツがチャチャを入れた。
 「学者。いつも思うんだが、なぜ色々しってるんですか、しかも単なる物知りではなく、きちんと理路整然と答えてくれる。いつどうやって勉強したんですか?」
 浅見は日頃疑問に思っていたことを尋ねた。
 「浅見さん、俺は中卒だよ。しかも、少年院あがりだ。正規の勉強なんざあしたことがない。おれの先生は新聞だよ、新聞」
 「え! 新聞?」
 浅見は意表をつかれた。 
学者はマツのほうを向いた。
 「マツおまえ新聞読むことあるか?」
 「バカにすんない、よんでらー」
 「テレビ欄、程度に決まってる。浅見さんあんた一日何時間ぐらい新聞を読んでいる?」
 「ザーと眼をとうすから、三十分から多くて一時間だと思うよ」
 さもありなんと、学者は頷きながら言った。
 「おれは毎日、四時間かけて新聞を読んでいる。倉庫番をしながら日経新聞を二時間、家では毎日新聞を二時間だ。一時は三紙を六〜八時間かけて読んでいた。第一面から最後まで、社説から死亡記事まで、広告も全部、尋ね人の欄も。正確な記事も有れば、ヨタ記事も有る。それら全部を読む。これを十年、二十年と続けて見ろよ、チョットしたものになるとは思わないか? さっきの話だが、茶道、華道、宗教界の内紛など嫌と言うほど読んできた」
 「ほー」
 浅見はあきれるやら、感心するやらと忙しい。
「浅見さん、一つ面白いことを考えついた。おれに任せてみないか? スッキリさせてやるよ。ところでマツ、お前の力も借りるぞ!」
 「おれが? なにをすれば良いんだ?」
 「ごめん、マツ、お前じゃなく、お前のおふくろさんだった。おふくろさんの名前はなんというんだ?」
 「ビックリするな! 松澤雪路だ!」
 「えー!」
 学者と浅見は同時に悲鳴をあげた。
 「もう一度いって見ろ! 嘘を言うとただじゃおかんぞ!」
 学者は半分笑いながら言った。
 「俺だって言いたかないよ。松澤雪路! 雪路だよ!」
 面識のある学者は吹き出した。
 「おい、マツ、これは犯罪に近いぞ。詐欺罪だ!」

 「浅見さん、考えついたことを紙に書いて、角ウチにもって行くから。楽しみにしていてくれ」
 病院での出来事など完全に何処かへ飛んでいってしまった。

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