塩川寶祥伝(その三)
塩川寶祥伝一、二、と読んでこられた人の中で、ふとっ……うーん! と思われた方がおられるだろうか? 実は、わたくし気になっていたことがあるんです。あまりに恐れ多いので公言したことはなかったんですが、あえて言わせて頂きます。そうです、あの宮本武蔵に似ているんです。
『なにっ! そこまで言うか! たわけもの!』と叱られてしまいそうですが、私は書き続けます、なにせ叱られるのは慣れていますから。
宮本武蔵の最初の決闘は、十三歳の時、新当流の有馬喜兵衛と戦い、打ち倒したというのは有名な話しです。十三歳は数え年だとすると、満に直せば十二歳になります。
『ちょっと待て! おまえ、それは贔屓の引き倒しだ!』とさらに怒られそうですが、もう少し我慢をして読んで下さい。
馬鹿な! そんなことがあるもんか! たかが十二歳のガキが、と私も思っていたんですが、塩川先生を知って『うーん、ありうる……』と思い知らされました。
宮本武蔵は、父親である無二斎以外には、本格的に師事した師匠は見あたらないんです。そうですよね、シンペイさん。(楽屋落ち?)
ある意味で、塩川先生も同じです。先生の表看板は糸東流空手道であり、摩文仁憲和先生の、高弟には違いないんですが、師事していた期間は短いものです。
しかし、「塩川君は、それでいい!」
と、お墨付きをもらっているんです。
『塩川君はそれでいい!』
この言葉は重要です。なぜなら、まるで判を押したように同じ言葉を、植芝盛平師範、河野百練師範、中川伸一師範、乙藤市蔵師範から言われているのです。
『私が伝授する○×流の術とは少し違うんだが、君の場合は、それでいい。それは、それで達している』
と各師範は思われ、免状を出されてのだと、勝手に私は理解しております。
よって、塩川先生の本当の師匠は誰なんだ、と言いたくなるのは私だけではないはずです。皆さん著名な師範の方々です。確かに師匠であることは間違いないにしても、付き従い、師にたいして薪水の労を執ったという感じではないんですね、これが。そして、判を押したように同じ言葉を申されたのです・・・・・…。
そこには、我々常人にはうかがい知れない何かがあるはずです。
本来なら、この第三章は海軍予科練に入って以後の話しになるはずでしたが、このまま好き勝手に進めていきます。なにせ、HPならば、思ったことをそのまま書くというのが、許されると聞いておりますから。
宮本武蔵は、日々戦いの生涯でした。塩川先生も同じですが、明らかに異なるのは、時代です、時代が違うんです。戦後の混乱の時代を含めるからそうなるんだと、お思いでしょうが、違います。本質的には先生の個性に帰すると私は思います。昭和の時代に、文字通り命を掛けた修羅の場を生き抜いた人なんです。
あまりに凄惨なので、このエッセイでは、今後、さわりだけを述べることに致します。なぜなら、奥さん、そして二代目の御子息は、ほんとにいい人で、お孫さんは実に可愛いんです。法律的には時効になっていると言いながら、彼らが厭な思いをされるのは耐え難いことですから。
剣道が、竹刀競技として進駐軍より許され、再開の産声を上げたのは、昭和二十七年でした。そして、翌年の二十八年に戦後初めての剣道昇段審査会が開かれました。この審査会で塩川先生は、とんでもないことをしでかすんですが、本筋と逸れますので、今回はやめます。機会があれば後日、述べると言うことにして下さい。
ようは、戦後、武道などと言うものは、軍国主義精神の象徴と言うことで進駐軍に睨まれていたのです。
剣道ですらそうなのです。ましてや、空手など……。今でこそ、空手道はメジャーなスポーツとして認知され、国体の種目にまでなっていますが、当時はアウトサイダーそのものでした。子供が空手を習うなど想像だに出来ない世界でした。
塩川先生にとって、戦後しばらくは進駐軍との戦いの日々でした。進駐軍に逮捕、拘束されて出所したあとは、道場破りの日々となりました。(なぜなら、進駐軍がいなくなったからです)
空手だけではありません、剣術家、柔道家など、強いという評判を聞きつけると、何処へでも行ったと言うことです。自らが道場を開いてからは、道場破りに来た人との対戦が待っていました。
「一度も、遅れは取らなかったぞ!」
先生はそう申しました。
『法螺を言うんじゃないぞ!』という罵る言葉が私の耳に聞こえてきます。もう少し我慢をして聞いて下さい。
先生の道場には、昭和四十年代の前半まで道場破りに来る者がいたそうです。ひとつ例を上げてみたいと思います。
剣道家が塩川先生の評判を聞きつけ、やって来ました。初めは話しをしていたのですが、先生は、まどろっこしいことは嫌いです。
「理屈はもういい! 道場でやろう」
というわけで、竹刀対空手で対戦しました。結果は五分五分と言うところだった。(塩川先生自身がそう言うのです)
塩川寶祥の本質を知らない剣道家は、一言漏らしました。
「竹刀だから、よかったが、真剣だとこうは行かない……」
その瞬間、先生の眼は光ったはずです。そして、きわめて冷静に言いました。
「じゃあ、真剣でやりましょう」
「えっ、そ、それは……やめときましょう」
「いいからやろう!」
先生は、居合の稽古に使っていた本身の刀を、相手に持たせました。空手家対、真剣を持った剣道家の戦いです。いや違います。ここが重要なんですが、武術の戦いではなく、個人対個人の殺戮の場に、二人が放り出されたと言った方が正解に近いでしょう。
正眼に構えた剣道家を、先生は道場の羽目板まで追いつめました。そこで、剣道家は「まいった!」と言いました。
「谷君よ、俺は武道のプロなんだ。腕一本くれてやったて、どうてこたあない。負けた瞬間、すべてが無になるんだ。死ぬことなんだ。あいつも強かったが、覚悟がなかった。生半可な気持ちの奴に負けるわけがないんだ」
と、怖いことを言われました。
そうなんです。先生と戦うと結果は三つしかありません。剣道家のように「まいった!」と言うか、先生を殺すか、あるいは自分が殺されるかです。単なる口先だけではなく、心底そう思い体現できるのです。
「不思議だよな、対戦すると相手は身体に力がはいり、硬くなるんだ。俺はぜんぜんそんなことないんだが……」
不思議でもなんでもありません。普通の人は命が惜しいんです。先生以外は……。
“三つ子の魂百まで”という言葉もありますが、先生においては、“九歳の魂百まで”と言えるでしょう。
「腹を切れ!」と、祖父に迫った、照成少年の魂です。
先生には、理屈は通用しません。議論を吹っかけたって駄目です。「まあ、やってみよう」と仰るんですよ。実際に、こんなことがありました。
空手における蹴りに、疑問が生じた私は、先生に尋ねました。
「先生、蹴りは、こうも、こういうふうにも考えられるんですが、どちらが正しいんでしょうか?」
「どっちでもいいよ」
「えっ!」
「相手が、倒れりゃええんじゃ」
「でも……」
「じゃあ、ちょっとやってみようか」
「と、とんでもない!」
この時先生は、七十歳を過ぎていました。
『儂は武道のプロじゃ』
と先生はよく言われます。誤解をしている人も多いと思いますので、あえて解説させていただきます。
先生の言う“プロ”という言葉は、それで金を得ている。つまり商売であり、生計を立てている。というごく一般的な解釈も無論含みますが、それだけではないのです。
『この道は、儂にとって、命を賭けて貫いていく天職なんだ!』
と言う覚悟の表明なのです。ここが大事なのですが、妄想でも思い込みでもありません、心底そうなんです。こんな人は、私は知りません。
塩川先生をよく知っておられ、私も尊敬申し上げている、光厳流槍術、辻宗賢宗家は仰いました。
「谷君、よく聞いてくれよ。塩川先生は本当のプロだぞ。プロとアマチュアは、切っ先が明らかに違う。アマチュアはプロには、決して勝てない。しかし、アマチュアの純粋性、これはこれで素晴らしいものだ」
アマチュアの純粋性の極みに達した方がおられます。一貫堂塾統、岩目地光之師範です。この世の中で、唯一、塩川先生の思い通りにならず、塩川先生をして、一目置かせている先生です。
この先、塩川寶祥伝を書き続けていけば、岩目地先生に触れざるを得なくなって行くでしょう。
次の質問を最後に、この項を終わりにしたいと思います。
“宮本武蔵は、はたして武術のプロでしょうか、あるいはアマチュアでしょうか?”
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