師とその周辺







塩川寶祥伝(その四)




 前項では、話しが逸れて塩川寶祥伝の総論のようなことを書いてしまったが……まあいいか。
 この項では、その一、その二、に引き続き、年代を追って、塩川先生の海軍時代の話しを書くことにしましょう。

 昭和十九年、塩川照成は、鹿児島県肝属郡串良航空基地(鹿屋基地)で紫電改に搭乗する帝国海軍飛行兵であった。(塩川先生は、大正十四年生まれ、すなわち昭和の年号がそのまま、先生の年齢になる)
 予科練、そして航空飛行学校を出た照成青年は、航空戦闘技術においては抜群の腕前であったと、本人は言う。それを証言する話しを第三者から聞いたことはないが、戦争末期の当時、熟練飛行士が払底していたことは事実である。にわか仕込みの飛行兵とは格段の差があっただろうことは想像できる。

 敵機(米軍機)を、十八機撃墜したそうである。そして、二度ほど遺骨になったそうだ。“遺骨になる”このままでは意味が分からない。
 当時、海軍基地では、出撃して帰らない飛行士、つまり撃墜された飛行士の為に、前もって用意していた遺品(髪の毛等)を小さな壺に入れて、鎮魂する祭壇があったという。つまり、照成青年は、二度撃墜されたことになる。そして、二度とも生還した。

 一度目の時は、祭壇に壺を引き取りに行き、振り回して歩いていたところ、たまたま居合わせた陸軍の兵士から声を掛けられた。
「海軍さん、そりゃないだろ、大切な壺じゃないですか。そんなに、ぞんざいに扱うことは感心しませんな」
「ああ、これか、こりゃ自分の壺なんだよ」
「そ、そうでありますか!」
 と言って、すべてを了解した陸軍さんは、敬礼を返した。

 二度目は、かなりおもしろい話しになっていく。(不謹慎ですがお許し下さい)
 照成青年は、敵機来襲の報に接し、緊急出撃した。そして敵の戦隊と遭遇し、混戦状態となり、ドッグファイトの結果、グラマンP51を撃墜した。
 その直後、P38に後ろを取られてしまった。銃撃を受けていたので上昇すると速度が落ちるため、海面すれすれに飛んだ。しかし、長くは続かず油が噴き出し、海面に不時着した。すぐに、機銃掃射を浴びるも、味方の援護がありP38は飛び去っていった。
 しかし、事態はいっこうに改善しない。昭和十九年十二月二十九日の寒い海面に放り出されてしまったのだ。
 翌、三十日の早朝、漁に使う餌を捕って帰港中の、カツオ船に救助されたときは、意識がなかった。

 意識不明の海軍さんは、網元の有力者の家に預けられることになる。家人が鹿屋の海軍基地に連絡を入れるも、医療体制が整わないということで、正月をその村で送ることになった。
 私が聞いていて面白いなと思ったのは、救助された後の情景である。布団に横たえられ、湯たんぽを抱かされた。(湯たんぽを知らない世代もいるのかな?)
 後ろからは、なんとその家のお嬢さんが柔肌で暖めてくれたという。羨ましい限りではあるが、妙に納得できるんですよ、これが。
 戦前である。良家のお嬢さんは、柔肌どころか、下着姿を男性に見られると自害しかねないことは想像できる。しかし、銃後の国民の心得、国を守る兵隊さんには、命懸けで尽くすのですよ。社会情勢、世の中の流れに乗れば人間、結構大胆なことが出来るんです。
 現代においても、深窓の令嬢すら、状況さえ整えば(例えば海水浴、水泳競技、体操等々)惜しげもなく素肌を人目に晒しているではありませんか。乙女の羞恥心とは、いったいなんだ? と思うのは余計なことなんでしょうか。
 何れにせよ、このお嬢さんは本当に素晴らしい女性だと、谷照之は断言いたします。あえて本名を書かせて頂きます。この夭折されたお嬢さんは“森垣あや子”さんです。

 海軍時代の武道に関することでは、鹿屋基地の整備に沖縄出身の島袋兵曹がいた。流派等は分からないが(当時、沖縄では流派にこだわる風潮はなかったのかも知れない)相当の使い手で、約束組み手など、はじめて本格的な空手の指導を受けたそうだ。
 と言うことは、十六歳の桜島造船時代、一時的に摩文仁賢和師範の門には入ったが、かなりいい加減な稽古だったに違いない。(ご本人も認めておられる)


 その後、照成青年は、長崎の大村基地に転属となった。基地で仲の良かった山本飛曹が、照成青年の遭難して生還した話しの顛末を聞き、面白がって照成青年の名をかたり、“あや子”さんに、内緒で手紙を出した。
 そうすると、驚いたことに返事の手紙と一緒に、写真を同封してきたのだった。
「おい、塩川、美人じゃないか!」
 女っ気のあまりない基地で話題となった。
 照成青年は、喜んだ。あや子さんと、一別以来、彼女のことが脳裏から離れなかったのだ。ところが何と、その彼女も自分に好意を持ってくれていたのだ! さらに、ご両親も自分に好意をもってくれているらしい。
 なぜなら、この当時、男性からの手紙に女性が返事を出し、写真を同封するなど、両親の了解があるとすれば、それは、婚約が成立したぐらいのインパクトがあった。
「おい、決まりだな、戦争が終わったら、お前は漁師になるんだ!」
「いや、違う。網元だぞ! よかったな!」
 仲間のからかいの言葉も、照成青年には祝福の言葉に聞こえた。 

 その後、あや子さんから、大村基地に慰問に訪れるという連絡があった。そして、彼女が慰問に訪れたのは、昭和二十年八月八日であった。(この日にちに注意!)
 当時、飛行機乗りは民間の家に下宿していた。そこで、あや子さんとの再会をはたす。(長い髪を一つに束ね、細面の白い顔に、涼やかな目元の少女が、恥ずかしそうに佇んでいる。清潔そうな絣の着物にもんぺ姿。綿入れから細いうなじが眩しく光る。出迎えたのは、飛行服に白いマフラーを着けた。予科練卒の青年飛行士……。)
 メロドラマ、OK! ご飯三杯、ごちっ! であるが、ここの所は私の想像である。

 民家の離れを下宿先にしていた照成青年は、そこに彼女を迎えた。下宿先のおばさんは彼女を親切に迎え、お茶を出してくれる。最初こそ、ぎこちなかったが、次第にうち解けて話すようになった。それもそのはず、理由はともあれ、素肌を合わせあった二人なのだから。
「先生、嬉しかったでしょう」
「ああ、天にも昇る心地だったよ」
「それで、あの……やったんですか?」
 わたくし、思わず下品な質問をしてしまいました。
「なにっ、馬鹿をいえ! 震えながら手を握ったのがやっとだった」
 後年の塩川先生の行状からすると、考えられないことだが、先生も当時は、ウブだったんだなと感心した。

 そのうち、突然、空襲警報が鳴り響き、防空壕に避難した。なかなか解除にならないため、警報を無視して下宿に帰り、この日のために軍からくすねていた、パイナップルの缶詰等でご馳走とあいなった。
 未婚の男女の同衾は許されないと思ったのか、下宿のおばさんのよけいなお世話で、その夜、彼女は母屋で寝ることになった。
翌日は、早朝四時に出撃命令が出ており、彼女を下宿に残し出撃した。戦闘が終わり、下宿に帰ったが、呆然としてしまった。下宿は直撃弾を受けて壊滅しており、あや子さんは、昨日、避難していたのと同じ防空壕で、死亡していたのだ。ついでに、下宿のおばさんも。

 気落ちし、呆然として事態を掌握できず、涙も出ない状態のところへ、地響きと大きな揺れを感じた。音が響いてきた方向をみると、大村の対岸、長崎より巨大な、入道雲のようなものが昇った。
「もの凄い雲で、まん中がまっ赤、外側が白色だった。不謹慎な話しだが、大変綺麗だった」
 昭和二十年八月九日、午前十一時二分。長崎に原爆が投下されたのだった。
 あれは、広島に落ちた新型爆弾ではあるまいか? という声が、どこからともなく聞こえてきた。

    

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