師とその周辺







塩川寶祥伝(その五)




  ここまで、照成少年、照成青年と書いてきたが、ここからは、塩川先生と書いていくことにしようと思う。正確には、まだ師範免状を得ていないので、どうかと指摘される方もおられるだろうが、塩川先生の若き日ということで、お許し願いたい。

 さて、終戦の日、八月十五日に塩川先生は、北九州の若松に身を寄せた。父親、亀三郎が、洞海湾造船の所長として、この地にいたからである。
 北九州工業地帯の若松市(当時、今は合併して北九州市若松区になっている)の一帯は米軍の爆撃により焼け野原となっていた。約一年間、先生はこの地に滞在することになった。
 瓦礫の山の国土に立ち、終戦間近で爆撃により死んだ恋人、あや子さんの面影を追う。さらに、悲惨な長崎原爆を体験したのである。米軍を憎んだか? 浅ましい世相に絶望し、荒んだ心で自暴自棄になっていたか?
 そうであるならば、一編の物語が成立しそうである。しかし、どうもそんな感じがしないのである。普通の人間は、たぶんそうであり、立ち直るのに苦悩するであろうが、そこは塩川先生である。廃墟の青空のような、どこか明るい雰囲気がするのである。健全な感じなのである。(表面的には、凄まじい暴れっぷりであったが)
 もっとも、何らの感慨がなかったと言うことではない。それなりに、悩んだであろうが、先生は生来の楽天主義者なのである。(と、私は思う)

 これ以後、進駐軍との壮絶な戦いが始まるが、米軍を憎んでいたという気持ちはなかったと推察する。進駐軍との戦いは、先生の二大本能、すなわち、弱いもの虐めは許さない。女性には必要以上に優しい。によると私は考えるのだが間違いだろうか。
 ともあれ、生活するには、糧を得なければならない。若い盛りである、金も欲しい。そこで先生、どうして金を得たのか。とんでもないことを始めたのである。
 賭場荒らし、博徒の賭場を襲い金を奪うことを始めた。やってることは泥棒かもしれない。いや、強盗と言えるだろう。しかし、相手はヤクザである。非合法に金を稼ぎ、弱いもの虐めをする輩だ。なんの精神的呵責は感じなかった筈である。

「おい、谷。ここに傷があるだろ。これは、賭場荒らしの時、刺された傷だ」
「せ、先生。賭場荒らしをしたんですか!」
「ああ、やったよ、若松の時代にな。でも、五回ぐらいしかしてないぞ」
 ごっ、五回やれば十分すぎる!!
「まさか、一人で乗り込んだんじゃ……!」
「馬鹿言え。それじゃあ死にに行くようなもんだ。だいたい二~三人で、綿密に計画を立てて、やったぞ」
 分かる、分かる! 十一歳のおり、倦むこともなくヤクザをつけ狙い、相手の隙を見付けて本懐を遂げた先生である。野放図に見えても、目的完遂の為には細心の注意を払ったことだろう。

 この時代、先生はまだ、武道を本格的には習ってはいなかった。鹿屋基地で島袋兵曹に教わっただけである。
 先生は、米軍兵士の巨大な体格と対決し、ボクサー崩れと闘争するにつけ、まだ、自分は強くならねばならないと思った。(十分過ぎるほど強いですよ!)
 身体の小さい自分が、強い相手を倒すには……、そう思ったときに、海軍時代に習った空手を思い出した。
先生は、それなりに調べた結果、結論に達した。当時、日本の空手界の最高峰は、東の富名越義珍師範、西の摩文仁賢和師範ということであったという。
 かつての、桜島造船時代の縁もあり、大阪と言う地理的な近さもあって、摩文仁先生を師と仰ぐべく、若松を後にした。


 昭和二十一年、塩川先生は大阪の地に降り立った。摩文仁賢和先生の家の近くは、空襲により壊滅状態であり、西成の国場幸盛先生の聖心館道場に入門した。摩文仁先生は、毎週一度は教えに通っておられたという。
 大阪に居を移した塩川先生は、西成地区を中心に暴れ回ることになる。相手は進駐軍であった。進駐軍相手に、たった一人の自警団を気取っていたのだった。街で弱いもの虐めをする不良外人を見付けると、即座に叩きのめした。
 あまりの暴れように追及の手が厳しくなり、下関に逃げ帰った。しかし、進駐軍との闘争は収まらない。
 この間のことを、私はなんとか想像してみる。私の脳裏に埋め込まれた情景は、ニュース映像と映画によるだろう。焼け跡、闇市、進駐軍、ヤクザによる社会秩序の維持……。 そう、ヤクザが不十分な警察力を補っていたのは事実らしい。(最近の警察は、その恩をあだで返している。とヤクザは思うかも知れない。しかし、私は堅気なのでそんなことは知らない)
 警察が、社会秩序の維持に自信を持ったのは、昭和三十五年の新日米安保条約批准に際し、全学連のデモを抑えて以来のことであるというが、本編には関係ないので、これまた放っておく。

 
 下関に引き上げた塩川先生は、以前にも増して進駐軍との個人的闘争を激化させる。ダンスホールが闘争の場になることが多かったと言うが、ところを選ばず何処でも戦った。 酔っぱらった、不良米兵が、女性の手を引っ張り何処かへ連れて行こうとする場に出くわすと容赦しなかった。
 先生の言うところによると、以下になる。
「警察は、短い警棒ぐらいしか持っていない。しかも、相手は戦勝国の進駐軍だぞ、『やめなさい!』と、遠巻きに言うぐらいしかやりようがないんだ」
 敗戦国の警察官の皆さん、悔しかったことでしょうね! そこで、先生が出て行ってやっつける。何処で聞きつけたか、米兵の仲間が駆けつけると、警察官はあらぬ方角を指さし、「あっちへ、逃げた!」と言って匿ってくれたという。

 あまりに、事件が多発したので、進駐軍の必死の捜索が始まった。
「塩川を掴まえろと!」
 言う指令が、進駐軍から警察に出た。そして、警察署長から先生は内密に呼び出された。「塩川君、まずいぞ。進駐軍は本気だ。あと、六ヶ月もすると司令官は交代する、しばらく身を隠した方がいい」
 署長の忠告にしたがい、長崎へ身を隠したこともあったと言う。

 影に日向に警察は、塩川先生を匿ってくれたが、ついに、昭和二十二年の暮れに進駐軍に捕まってしまった。罪状は、進駐軍政令違反で三年の刑期になった。本当はとてもそんな刑では済まされるものではなかったが、さすがに米軍は日本に民主主義を根付かせようとの使命感に燃えていたのであろう。事件の大部分は、証拠不十分になったという。
 では、刑期は何処で過ごすのだろうか? これが何と、日本の刑務所なのである。
「俺は、刑務所には入ったが、日本の法律に裁かれたわけではない。よって、前科はない」 と先生は仰る。しかし、後年、刑務所に入ったことがあるという事実が、先生の身に降りかかることになるのだが、これは後に書こうと思う。

 刑務所の話しは、詳しく書くことは止そうと思うが、とにかく刑務所内で問題を次から次に起こし、身柄を預かっている日本国の警察は、困っただろうと推察する。
 三年の刑期は、一年で保釈と相成ったのだが、その一年間に問題を起こし、刑務所を転々とした。
「福岡、耶馬渓、下関、山口、広島と各地の刑務所を回った。一年でこんなに刑務所を移った人間はおらんだろう」
 と先生は変なところで自慢なさる。
「腕力自慢のヤクザが、俺に叩かれて面目を潰し、刑務所を脱走して大騒ぎになったが、こりゃ、俺のせいじゃないぞ」
「そうです、そうです、その通りです」
「刑務所の中で、俺に決闘を申し込んだ奴が死んだのは、俺のせいじゃない。あれは、破傷風で死んだのだ。そう思うだろうが、谷!」
「そうです、そうです、その通りです」
 私は、塩川先生にだけは絶対逆らわないことにしています。

 塩川先生は、刑務所の中で有名人に出会い、良くしてもらったそうです。「お前は、俺の若い頃のよく似ている」と言って。
 その人は、知る人ぞ知る、血盟団の佐郷屋留雄であった。佐郷屋といっても、若い人には馴染みがない名であろうと思われるので、ちょっとだけ、ほんのちゃっとだけ解説します。
 佐郷屋留雄は、浜口雄幸首相を狙撃し、死にいたらしめた犯人です。終戦の時は朝鮮半島において自警団を組織し、団長となって引き揚げ者の女子供の保護に努めたそうである。むろんその彼が、何故刑務所に入っていたかは私は知らない。もしかしたら、大陸、朝鮮半島に逃げ込んでいて、日本に帰還すると同時に刑の執行をなされたのかもしれない。

 そろそろ、この項の締めにしましょう。
「お前は、俺の若い頃によくにている」という言葉と、まったく同じことを、後に塩川先生は植芝盛平師範から、言われることになるのですが、この件に関しては後の項で述べることに致します。
 くれぐれも、念のために申しておきます。
 塩川先生は、佐郷屋留雄と違って、主義主張、イデオロギィーなどという厄介なものは持ち合わせておりません。
 生まれつきなのです。天性なんです。天然居士、塩川寶祥なんです。



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