師とその周辺







塩川寶祥伝(その六)




 ここまで書いて来て、気になることがあります。題名は“塩川寶祥伝”となっているのですが、はたして私は伝記を書いているんでしょうか……。
 出来るだけ、事実に基づいて書いてはいますが、事実の裏付け調査は為されているんでしょうか? 厳密な意味では為されているとは言いかねます。
 今日まで色々な師範の方のお話を聞いたのは事実ですし、塩川先生はむろん、紙本栄一師範、乙藤市蔵師範、辻宗賢師範、その他の師範の皆様が発言されている録音テープは、約二十時間分手元にあります。
一応、発言された内容については、資料を参考にして確認の後に、必要とあれば書いていくつもりではありますが、仕事の終わった夜、ウイスキーを飲みながら書いているわけですから、十分であるはずがありません。それよりも、私の頭の中に形成された塩川先生像の方が優先してしまうことは事実です。

 よって、ここに宣言いたします。塩川寶祥伝は、塩川先生をモデルにした小説もどきの、エッセイなんです。


 さて、進駐軍政令違反の刑期をおえて出所した塩川先生は、造船所で臨時工員として、徹夜を厭わず必死の思いで金を貯めると、空手の稽古をすべく再び大阪へと向かった。どうやら、この頃に武道家たるべく生きようという気持ちが芽生えたようである。
 再び国場先生の聖心館道場の門を潜った塩川先生は、昭和二十四年から二十七年にかけて、働いて生活費を工面しながら、真面目に空手の稽古に励んだようである。
しかし、おとなしく稽古に集中する先生ではない。昭和二十六年頃から、関西各地の道場を他流試合して回った。その結果、関西各地の沖縄出身の先生達から、苦情が国場先生に持ち込まれるにいたり、国場先生より他流試合を禁止された。それで、はたして他流試合を止めたか? 塩川先生が止めるはずはないではないか。

 この頃のことである。大阪府警の武術指導に来られていた、植芝盛平先生と知り合ったのは。
 ここからは私の想像であるが、植芝先生と知り合ったと言うのは言葉の綾で、実際は試合を申し込んだのではないかと思う。強いと聞けば戦わずに居られなかった先生のことである。そして、塩川先生は負けたのだ。どう考えてもこの方が、筋書きとして、後の話しが納得できる。
「塩川君は、自分の若いときに似ている」
 そう言って植芝先生は、若き塩川先生をかわいがってくれたそうだ。個人的に合気道の指導もずいぶん受けたという。そして、植芝先生から道場破りを依頼されるようにまでなった。

「植芝先生から道場破り?」
 えっ? という感じで、私には理解できなかった。 
「盛平さんの弟子が開いている道場に行くんだ」
「弟子の道場を……破るんですか?」
 それでなくても良くない私の頭では、さらに理解できない。
「盛平さんの弟子が、方々で道場を開いちょる。その中には天狗になっているものもおり、勝手に段まで出す者もおったんだ。中でも、あまりに目に余る者を懲らしめようと言う訳だ」
「なるほど! そう言うことですか。それで、空手対合気でやるわけですね?」
「バカ! 盛平さんに頼まれて行くんだ。他流試合じゃない。合気の稽古を付けて貰いに行くんだ」
「それで……」
「まだ分からんか。俺には合気の技は掛からんのだよ」
 都合、二カ所の道場にいって懲らしめたと言うことである。

 稽古が終わった後、植芝先生と一緒に風呂に入った塩川先生は、湯船の中で指導を受ける。
「あやつ(某道場主)の得意技はこれだ、解るか?」
「ああ、それなら解ります。こう返せばいいんですね」
「それでいい。では、これはどうだ」
「そ、それは解りません」
「これは、こう返すんだ」
「なるほど……こうですね」
「ああそうだ」
 こういう案配だったそうだ。植芝盛平師範と言えば、地獄稽古が有名であるが、そんな雰囲気は全然しない。なんとも和やかな雰囲気がしてくるではないか。
 塩川先生曰く、「合気の技はすべて返し技がある」のだそうだ。
 塩川先生が、植芝先生より指導を受けた期間は、どう多く見積もっても二年を越えることはないだろう。しかし、それなりの域に達していたことは推察できる。

 後の話しになるが、昭和三十六年頃、東京在住であった塩川先生は、合気会本部道場と養神館道場に合わせて約一年間ぐらい通った。そして、それで合気は卒業したという。
「俺に技をかけれるのは、盛平さん、塩田さん(塩田剛三師範)と、藤平さん(藤平光一師範)の三人しかいなかった」
 だと塩川先生は仰る。まんざら法螺でない証拠には。

その一、
 もう十五年も前の話しだが、塩川先生が招かれて、ヨーロッパに、空手、杖、居合の指導をしにいった帰りの飛行機の中で、挨拶をしてきたのが当時、合気会の欧州師範だったそうだ。
「失礼ですが、塩川先生じゃ、ございませんか?」
「ああ、塩川じゃが」
「私を、憶えておられませんか?」
「????」
「○×と申します。数十年も前の話しになりますが、先生に技が掛けられず、満座の中で恥をかいたことがありました。その時から発憤して稽古に励み、今日までになりました。先生のおかげだと、本当に感謝致しております」
 と挨拶されたそうである。たまたま、同席していた塩川先生の高弟、川畠師範がその話を聞いているので、とても法螺とは思えない。 

その二、
 養神館本部道場長、井上強一師範の塩川先生に対する態度である。この件に関しては、当HPの「師とその周辺」にも述べている。


 塩川先生に於いては、全てがこの調子である。表芸(飯の種)の空手道にしても、摩文仁先生、国場先生に教わった期間は、せいぜい四年間というところだろう。あとは、仲間と稽古をしたり、弟子と稽古をしたということになりそうである。
 あっ、忘れてました。他流試合、これが大変良い稽古になったと私は推察します。
 無双直伝英信流の免許を得たという話しは、河野百練先生との交流を考えれば、頷けるところもあります。(河野先生より、塩川先生に宛てた手紙のコピーを二通持っていますが、その内容によって十分に推察できます)
 今枝新流、念流、神道無念流の免許を得たと言う話しに至っては、先生より聞いたことはありますが、免許の巻物を私は見たことがありません。各流派の師範の方と試合をして、勝ったと言うところではないかと、私こと谷照之は思うのです。(先生、ごめんなさい!)

 サイ、昆、トンファー等の沖縄古武術の七段取得は一週間、(後の項で述べる予定です)剣道五段、柔道五段に至っては、極端に言えば僅か一日です。
 現代の剣道連盟、柔道連盟では、まったく考えられないことですが、戦後の混乱期のなせるわざと言えるでしょう。でも、相応の実力がなければ不可能であることも、また事実だと思います。
 何なんだ! この男は! ということでこの項は終わりにしたいと思います。


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